森之宮(もりのみや)は、大阪府大阪市中央区・城東区・東成区の地域名称。または、城東区の町名。現行の住居表示では中央区森ノ宮中央、城東区森之宮、東成区中道1丁目(旧町名:森町南)などにあたる。上町台地の北端の東斜面に位置する地域で、地域の西側はオフィスや公共施設が多く設置され、東側にはオフィスのほかに団地や住宅がある。城東区森之宮の一帯には大規模な団地が設置されている。道路は、南北方向に玉造筋、東西方向に中央大通が通る。また中央大通の上には阪神高速13号東大阪線が通り、森之宮出入口がある。鉄道は、大阪環状線が南北方向に通り、大阪駅方面と天王寺駅方面とを結んでいる。大阪市営地下鉄長堀鶴見緑地線は玉造筋および大阪城公園の地下を通り、森ノ宮駅から次の玉造駅にかけては大阪環状線に並行するように通っている。東西方向には中央大通の地下に大阪市営地下鉄中央線が通っている。住宅地の地価は、2014年(平成26年)1月1日の公示地価によれば、森ノ宮中央1-25-5の地点で48万7000円/mとなっている。大阪市中央区で最も地価が高い。もと大坂城のあたりに鎮座していた生國魂神社の東側に森が広がっていた。同社の別名が難波大社であることから難波森(なにわのもり)とも呼ばれたが、598年に新羅より持ち帰ったカササギをこの森で飼育したことから鵲森(かささぎのもり)と呼ばれるようになった。同じ頃、聖徳太子が用明天皇を祀る鵲森宮を当地に造営し、この神社の通称である森之宮に由来する。縄文時代中期から近世にかけての長期にわたる複合遺跡である森の宮遺跡が発掘されていることから、森之宮地域には縄文時代から人が居住していたと考えられる。森の宮遺跡から貝塚が発見されていることから、古代のこの地は水辺の環境だったと考えられる。森の宮遺跡の貝塚の分析を通じて、縄文時代には海水性の貝、弥生時代には淡水性の貝が食されていたことが判明している。このことにより、上町台地東側に広がっていた海(河内湾)が淡水化して河内潟・河内湖へと変化し、その後土砂が堆積して大阪平野が形成されていく過程をうかがい知ることができる。江戸時代に入ると、猫間川以西(現在の中央区森ノ宮中央)は、猫間川左岸の北側に東成郡森村の集落、同南側に玉造町人町のひとつである玉造森町、その他の大部分は大坂城代配下の玉造口定番の屋敷地が形成され、猫間川以東(現在の城東区森之宮・東成区中道1丁目)が耕作地となっていた。明治時代になり、現在の大阪城公園の場所に大阪砲兵工廠が、法円坂住宅の場所に大阪陸軍被服支廠が設置された。森之宮・玉造界隈は、砲兵工廠や被服支廠に勤める人たちの町として発展した。1932年には国鉄城東線(現在の大阪環状線)の森ノ宮駅が開業している。また現在の城東区森之宮にあたる一帯には陸軍の城東練兵場があったが、その後1940年に大阪砲兵工廠の拡張用地として転用されている。第二次世界大戦期には、米軍から数回にわたる爆撃を受けたため、町は甚大な被害が出た。現在の大阪市こども相談センターの場所にあった森之宮国民学校(現在の大阪市立森之宮小学校とは別の学校)は、戦災被害のために終戦直後に玉造小学校に統合されている。1960年代には城東練兵場・大阪砲兵工廠跡に日本住宅公団(現・独立行政法人都市再生機構)森之宮団地が建設され、1967年8月に入居が開始された。公団森之宮団地は、広大な土地にまとまった数の住宅と生活関連施設を計画的に建設する「面開発」住宅の第1号とされている。
出典:wikipedia
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