ポンポン (USS Pompon, SS/SSR-267) は、アメリカ海軍の潜水艦。ガトー級潜水艦の一隻。艦名はイサキ科の一種ブラック・マーゲイトのカリブ海沿岸での通称に因む。「平穏なるP」 "Peaceful P" との愛称があった。ポンポンは1941年11月26日にウィスコンシン州マニトワックのマニトワック造船で起工する。1942年8月15日にキャサリン・メアリー・ウォレソンによって進水し、艦長アール・C・ホーク少佐(アナポリス1928年組)の指揮下1943年3月17日に就役する。4月5日、ポンポンは浮きドックでミシシッピ川を下りニューオーリンズに運ばれた。ニューオーリンズで艤装が行われ、ポンポンは太平洋に出航。オーストラリアのブリスベンに回航された。7月10日、ポンポンはビスマルク諸島、トラック諸島およびカロリン諸島方面に向かった。7月16日、日本海軍の潜水艦がポンポンに向けて2本の魚雷を発射したが、両方ともポンポンの前方を通過した。トラック沖での哨戒では僚艦と共に偵察ラインを形成し、日本艦隊の動向を監視してソロモン諸島方面で戦闘を続けている第7艦隊の作戦支援を行った。7月25日、ポンポンはのマヌス島北北東約560キロの水域で第2323船団を発見し、スコールをかわして追跡した末に、夕刻にいたって魚雷を4本ずつ二度にわたって発射。魚雷は陸軍輸送船ていむず丸(川崎汽船、5,871トン)に命中してこれを撃沈し、特設運送船金泉丸(朝鮮郵船、3,081トン)にも魚雷を2本命中させ船体の前部をもぎ取ったが、金泉丸は沈没を免れた。護衛艦は攻撃回避に精一杯であり、ポンポンは易々と立ち去った。8月22日、ポンポンは43日間の行動を終えてブリスベンに帰投した。9月12日、ポンポンは2回目の哨戒で南シナ海方面に向かった。ダーウィンへ向かう途中の9月16日未明、ポンポンはの地点ですれ違った味方のリバティー船からの誤射を受け、広い範囲を損傷したが個別の傷は大したことがなかった。9月20日から21日にダーウィンに寄港ののち、哨戒海域に針路を向ける。10月1日午後には、の地点で護衛艦を配した8,000トン級輸送船を発見し、魚雷を4本発射して爆発を聴取するも、スコールにさえぎられて何も見えなかった。10月14日午後にもの地点で3隻の輸送船団を発見し、タンカーに向けて魚雷を4本発射。2本が命中したが、爆発はなかった。10月20日夜、の地点を浮上航行中のポンポンは、至近距離に雷跡を発見し、これを回避する。結局のところ、この哨戒では戦果を挙げることはなかった。11月5日、ポンポンは55日間の行動を終えてフリーマントルに帰投した。11月29日、ポンポンは3回目の哨戒で南シナ海、インドシナ半島および中国大陸沿岸部に向かった。12月11日、ポンポンはのバラバク海峡で2隻のサンパンを別々に発見し、3インチ砲と20ミリ機銃で撃沈。12月13日にはからにいたる近海に機雷を11個敷設。その後、セレベス海で5日間哨戒し、ダーウィンで補給を行った。1944年1月28日、ポンポンは60日間の行動を終えてフリーマントルに帰投。艦長がステファン・H・ギンベル少佐(アナポリス1935年組)に代わった。2月22日、ポンポンは4回目の哨戒でハルマヘラ島方面に向かった。3月8日には病院船氷川丸(日本郵船、11,622トン)を発見し、見送った。翌3月9日夜、ポンポンはの地点で3隻の小型護衛艦を発見し、魚雷を4本発射したが、護衛艦の吃水が浅かったためか命中しなかった。ポンポンはパラオ方面、サイパン島方面で偵察を行い、3月25日にミッドウェー島寄港を命じられた。4月10日、ポンポンは50日間の行動を終えて真珠湾に帰投。4日間修理に従事した。5月6日、ポンポンは5回目の哨戒で日本近海に向かった。九州沖、豊後水道方面で哨戒した後、哨区を東に移動させた。5月28日午後、ポンポンはの地点で単独航行の輸送船を発見して魚雷を3本発射したが、命中しなかった。2日後の5月30日朝には、の室戸岬沖30度3海里地点で1隻の商船を発見した。高知から大阪に向かっていた貨客船滋賀丸(関西汽船、742トン)に対して魚雷を3本発射し、うち1本が滋賀丸の中央部に命中して滋賀丸は轟沈し、残る2本は陸上に命中して爆発した。攻撃直後、ポンポンは5時間もの制圧を受けたが切り抜けた。その後ポンポンは東京湾口方面に移動し、サイパンの戦いの援護に向かう艦隊や輸送船団が出てくるのを見張り、いくつか目標も発見したが、戦闘は起こらなかった。6月25日、ポンポンは50日間の行動を終えてミッドウェー島に帰投した。7月19日、ポンポンは6回目の哨戒でオホーツク海方面に向かった。7月27日にの地点でトロール船を浮上砲戦で撃沈。8月7日、ポンポンはの地点で輸送船と「千鳥型水雷艇」を発見し、魚雷を4本発射して2つの爆発音が聞こえたものの、何も変化はなかった。8月12日午後には、の樺太東方海面で、オハに向かっていたキラ003船団を発見。ポンポンは悪天候の中で追跡を行い、夜にの地点にいたったところで魚雷を3本ずつ発射し、さらに4本発射する。最初の3本は2本が命中し、二度目の3本も、うち2本命中。三度目の4本は命中しなかった。一連の攻撃で、「第二十御影丸(武庫汽船、2,718トン)」型に擬せられた輸送船まやち丸(三井船舶、2,159トン)を撃沈した。この戦闘の最中、ポンポンは自らが発射した魚雷のうち1本が艦尾を掠め去り、ポンポンは危ういところを助かった。9月3日、ポンポンは46日間の行動を終えて真珠湾に帰投。メア・アイランド海軍造船所に回航されてオーバーホールに入り、終了後の12月13日にマジュロに到着し、間もなく哨戒に備えてサイパン島に進出した。1945年1月16日、ポンポンは7回目の哨戒でスペードフィッシュ ("USS Spadefish, SS-411") とともに黄海方面に向かった。1月28日、ポンポンはの小黒山島西方200キロの黄海洋上でヒ91船団を発見し、スペードフィッシュにもその旨通報した。しかし、通報を受けたスペードフィッシュが海防艦久米と特設運送艦讃岐丸(日本郵船、9,246トン)を撃沈したのに対し、ポンポンは2隻の護衛艦に阻止されて攻撃のチャンスを逸した。翌1月29日朝、ポンポンは潜航哨戒に移ろうとしていた際に司令塔ハッチが故障するというハプニングに見舞われた。13メートルの深度に達したとき、海水が司令塔や制御室に入り込み、その他の区画も浸水で大なり小なりのダメージを受けた。ポンポンは哨戒を打ち切ってミッドウェー島に向かったが、復旧もままならないうちに輸送船団の護衛艦に発見された。ポンポンは浸水が増大する危険があったが、やむを得ず潜航して護衛艦をやり過ごし、浸水は奇跡的に増大しなかった。ポンポンの安否が気遣われたため、ミッドウェー島に向かっていたポーギー ("USS Pogy, SS-266") がポンポンと急遽会合し、ポンポンはポーギーの護衛を受けることとなった。2月11日、ポンポンは34日間の行動を終えてミッドウェー島に帰投、ポンポンの艦長がジョン・A・ボグレイ少佐(アナポリス1938年組)に代わった。3月30日、ポンポンは8回目の哨戒で台湾方面に向かった。この哨戒では4月23日に病院船を発見し、5月2日にはの地点でモーターサンパンを発見して5インチ砲、40ミリ機関砲および20ミリ機銃で攻撃したが、脅かしただけに終わった。また、106機の航空機と接触したほか、レイ ("USS Ray, SS-271") から、日本軍に撃墜されてレイに救助されたPBM マリナーの乗員10名を託された。5月24日、ポンポンは52日間の行動を終えてグアムアプラ港に帰投した。6月18日、ポンポンは9回目の哨戒でトラック諸島方面に向かった。この哨戒では救助任務が主で、航空機には一度しか出会わず、船には出会わなかった。7月22日、ポンポンは34日間の行動を終えてアプラ港に帰投した。その後、同島で8月15日の終戦を迎えた。ポンポンは8月22日に帰途に就き、9月19日にニューオーリンズに到着した。1946年5月11日にポンポンは退役し、大西洋予備役艦隊ニューロンドン・グループで保管される。その後レーダーの増設が行われ、1953年6月15日に SSR-267 (レーダー哨戒潜水艦)として再就役した。グアンタナモ湾への整調巡航の後、ポンポンは新たな母港のバージニア州ノーフォークへ向かった。11月に地中海に向けて出航し、1954年2月4日まで第6艦隊に所属し作戦活動に従事する。1955年1月にポンポンはを離れてカリブ海に向かい、3月に帰還する。1956年2月にもカリブ海で活動し、その後7月6日から10月3日までは地中海で活動した。1957年9月から10月にかけてポンポンはNATOの大規模演習「"Strikeback"」に参加し、スコットランドのクライド川、フランスのルアーブル、イギリスのを訪問した。ポンポンは1958年6月17日まで大西洋とカリブ海で活動し、その後地中海に移動、9月まで留まった。ノーフォークに帰還すると東海岸で活動を続け、1959年2月2日にチャールストンで予備役となる。ポンポンは1960年4月1日に除籍され、11月25日にコマーシャル・メタルズ社に売却された。ポンポンは第二次世界大戦の戦功で4個の従軍星章を受章した。
出典:wikipedia
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