肥後もっこす(ひごもっこす)は、熊本県の県民性を表現した言葉。津軽じょっぱり、土佐いごっそうと共に、日本三大頑固のひとつに数えられる。純粋で正義感が強く、一度決めたら梃子でも動かないほど頑固で妥協しない男性的な性質を指す。それと相俟って、曲がったことを好まず駆け引きは苦手で、他者を説得する粘り強さに欠け、プライドや反骨精神も強いため、組織で活躍することは向いていないと言われる。「肥後の議論倒れ」という言葉は、議論好きで、それでいて自己主張が強いため議論がまとまらないことが多いことから生まれた言葉である。このような、自説にこだわる頑迷さは「肥後の褐色和牛(あかうし)」と称されることもある。『九州の精神的風土』の著者・高松光彦は、議論好きで自己主張が強く個人主義的であるという点においてドイツ人との強い類似性を指摘している。明るく陽気で人情があるが、口下手であるため誤解されることも多々あるとされ、そういったこともあってか、一度信頼関係を築くとその後は決して裏切らないとされる。単に強情なだけでなく神経が細やかで細かい心配りができるため、九州男児の鑑だとする見解もある。高松光彦は、「"熊本人は敦厚、懇篤なり"」で始まる肥後人批評を行った肥後出身の明治の言論人・佐々友房を取り上げ、自身の出身県の気質を客観的に分析・自認できるところに熊本人の本来の姿があると評している。同じく熊本県出身で東海大学の創設者である松前重義は、学生たちに「肥後もっこす」の精神を説いた。松前が死去した今も、大学独自の必修科目「現代文明論」にて「肥後もっこす」についての内容が講義されており、東海大学の精神となっている。他に頑固な県民性として知られる高知の「いごっそう」が反権威主義であるのに対し、肥後もっこすは権威主義・事大主義・保守主義的である点が異なるとされる。また、『出身県でわかる人の性格 - 県民性の研究』の著者岩中祥史によれば、いごっそうほど日本人離れしておらず、他に頑固とされる佐賀県の気質ほど暗くないという。ただし、表現がストレート過ぎるため損をすることが多い点はいごっそうと共通していると述べている。肥後もっこすが形成された要因としては、分裂質から生まれたものであるとの指摘や、武士道を重視した細川家支配による影響を指摘するものなどがある。『熊本県人』の著者渡辺京二は、いわゆる「もっこす」と言われる人物は一般的な熊本県民から見ても相当変わり者であり、県民の中においてもそう多く存在しているわけではないとも指摘している。現代においては、熊本県のもう一つの県民性で「新しい物が好きな人」を指す「わさもん」の方が多く見られるという。「もっこす」が熊本県の県民性の代表格とされたのは戦後からであり、それ以前は「(人や世間などを)馬鹿にする」の意の「わまかし」がその代表であった。肥後人気質を言い表したものとして、薩摩人気質と比較したものがいくつか存在する。なお、肥後は、筑後国、豊後国、日向国とも接し、肥前国とも島原湾を介して接しているため、薩摩のみが比較対象となるわけではない。薩摩国では、大きな提灯を掲げた強力な指導者が現れた際には皆がこぞってついていくが、肥後国では各々が兜をかぶり大将気取りで一致団結することがないため「薩摩の大提灯(おおぢょうちん)、肥後の鍬形(くわがた)」と言われる。また、薩摩の大提灯と比較して、肥後では各々が腰に提灯をつけ単独行動をとることから、「肥後の腰提灯」とも言われる。「意地は熊本、気は薩摩」という言葉もある。岩中祥史は、「意地は熊本」の具体例として、22年間連続して献血率が全国トップだったことや、明治時代の中盤までは九州の中心都市として発展したが明治時代の後半から福岡市に中枢機能が移っていったこと(大正9年の人口統計では福岡県に2倍以上の差を付けられている)に起因する福岡へのライバル意識をあげている。駕籠を利用しての移動中、「目的地に着くまで黙っているのが薩摩の侍で、駕籠に揺られている間もどこへ行こうとしているのか確認せずにはいられないのが肥後の侍」というものがある。毎日新聞の記者であった平川清風は、両県の県民の気質を線に喩えた。どちらも太い一本の線に見えるが、熊本県民の方はよく見ると何本もの線が複雑に絡み合って太さを形成しており、肥後人気質は複雑かつ聡明であるという。
出典:wikipedia
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