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桂春団治 (3代目)

3代目桂 春団治(3だいめ かつら はるだんじ、1930年3月25日 - 2016年1月9日)は、落語家。本名:河合 一(かわい はじめ)。大阪府大阪市出身。旧字体を春團治。所属事務所は松竹芸能に所属していた。上方落語協会会員(相談役、第3代会長)。出囃子は『野崎』。2代目桂春団治は実父、河本寿栄は義母。実母とは死別している。本人は三男であるが、長男と次男は幼くして亡くなっているため実母が名前に「一(はじめ)」と付けたとのこと。浪華商業高等学校(現在の大阪体育大学浪商高等学校)卒業後、兵庫県宝塚市の自動車部品販売会社でサラリーマン生活を送る。1年で退職後、父である2代目春団治の九州での巡業に同行した際、博多で他の演者の急病により、仕方無く父の聞き覚えである落語「寄合酒」で初めて高座に上がることになったが、爆笑を得、その後本格的に噺家になることを決意した。そのためこのネタは記念すべきネタで、6代目笑福亭松鶴も初高座で演じたネタが同じ「寄合酒」であったと、のちに自叙伝などで語っている。最初の頃はまともな前座修行をしないまま初高座を終えてしまったため正座すらできなかった。そのためか立ち上ったらふら付くためみっともないので緞帳の幕を下ろしてもらって高座を下りていた。入門当時、上方の落語家が10数名であったなか、有志で「さえずり会」を結成、上方落語の復興に尽力。のちに、同会メンバーでもあった6代目笑福亭松鶴、3代目桂米朝、3代目桂小文枝(のちの5代目桂文枝)と並び、「上方落語の四天王」と呼ばれた。当時の上方の落語家としては珍しく、昭和30年代あたりから東京の寄席やホールに客演として登壇する等、早くから上方落語の関東への普及に務めた。2006年9月15日、常設寄席「天満天神繁昌亭」のこけら落としを記念して、歴代の春団治が乗ったと伝えられる「赤い人力車」(詳細は初代春団治の項「エピソード」参照)の復元版に、桂三枝(現・6代桂文枝)が車引きを務める形で乗り天神橋筋商店街でパレードを行った。この企画を三枝が打診した際、「実はわしもいっぺん乗ってみたいと思とったんや」と答えたという。因みに1959年の春団治の襲名の時にも「赤い人力車」(初代春団治が使用されたとされる当時現物)を乗ってパレードを行う予定だったが保存状態が悪かったため実現には至らなかった。「四天王」の中で「繁昌亭」の高座に上がった唯一の人物でもある。 晩年には上方落語界の最古参で、幕内では桂米朝を「米朝くん」、笑福亭松之助を「松ちゃん」と唯一言える噺家であった。2013年5月ごろから体調を崩し、療養中であった。その前後には爪を痛めたり、転倒での肋骨のひびなどで高座から離れていたが2015年10月3日、出演予定であった堺市立東文化会館で行われる「桂春団治生誕85年記念 三代目桂春団治一門会」のトークコーナーも直前に欠席した。2015年3月に3代目桂米朝が死去した際には「僕にとっては『代書屋』『親子茶屋』を教えてもらい師匠のような存在。残された四天王も僕ひとりになり、寂しい思いでいっぱいです」というコメントを出した。この米朝追悼のコメントにある通り「四天王」の最後の存命者であったが、米朝の死去から10か月後の2016年1月9日に心不全で他界した。。没後の1月26日に天満天神繁昌亭にて、6代目桂文枝を葬儀委員長として3代目春団治の上方落語協会葬が執り行われた。「経歴」節にもあるように1980年代以降、複数の病気を患う。所属事務所のトピックスに掲載されたインタビューで、「4代目は誰に継がせるのか」といった主旨の問いかけに対し、「4代目春団治はこのボクや」と発言している。これは前述の経緯のほか、初代の前にもう1人春団治を名乗った人物が存在するため、この返答をしたものと思われる(ただし、本業が別にあったために代数には数えられていない)。実際、弟子に実力者が多く4代目を誰にするかについては悩んでおり、「7人の弟子全員に継がせたいけど名は一つ」とも言っていた。その後、2016年4月に池田市の豊島野公園で追悼植樹が行われた際に、家族に対して自身の一周忌なり三周忌といった節目の時期に4代目を誰に襲名させるかについて弟子に伝えるよう遺書を残していたこと、一旦は「春団治は三代まで」の意向を示していたこと、濱田大助(のちの3代目桂春蝶)が弟子入りしたばかりの時期に大助に4代目を襲名させる意向があったことが、桂春之輔や後援会長から明らかにされた。歌や芝居に表現される春団冶の破天荒でやたけたなキャラクターは3代目には当てはまらず、むしろ「繊細」「華麗」という表現が3代目の芸風に当てはまる。語り口は淡々として艶やか。爆笑噺を得意とした初代や2代目とはまた違う上品さを持ち合わせており、その高座は「奇麗な芸」とも形容された。落語の導入部である「枕」を振らずにいきなり本題に入る型をとっていた。晩年には若手の落語の導入前の噺を「枕とは言わずただの世間話」と苦言を呈し、本題より枕が受けるのはどうかと言う考えを持っていた。上方落語の特徴である見台は使わなかった(ただし、『代書』『寄合酒』ではまれに使用する場合もあった)。また、羽織を脱ぐ仕草一つにも拘りを見せ、桂南光は訃報に接して「これがまねできないんです。これ、(落語家は)たいがいの人がまねしてるんですが、いい着物を買ったんですけど、しゃべりながら羽織だけ引っ張るのが難しい」と述べている。大阪の演芸界では「三代目」といえば3代目春団冶を指す。ちなみに「六代目」は笑福亭松鶴である。四天王と並び称された米朝、文枝は、それぞれ、先代が短期間の名乗りだったこと、襲名が60台に入ってからだったという事情があり、同様の略され方をされることはない。3代目は、その持ちネタの少なさで有名である。演じないものは出来ないのではなく、高座にかけられる物にならないから出さず、その結果として「完璧にやれる」ネタしか高座にかけなくなった。その代わり、演じるものについては高座にかけるたびに練り上げるというスタンスであった。ちなみに師匠の2代目春団治からは「風呂敷丁稚」のみ差し向いで稽古してもらい、「祝のし」は病床で筋のみ伝えてもらった、「子ほめ」「お玉牛」「野崎詣り」は2代目立花家花橘、「いかけ屋」「高尾」は4代目桂文団治、そして「代書屋」「皿屋敷」「親子茶屋」「色事根問」「始末の極意」は3代目米朝に稽古を付けてもらったとインタビューなどで答えている。香川登志緒と米朝のインタビュー記事で3代目の話題になった時、「若い時期は遊んでばかりいて言いにくいがあまり稽古は熱心ではなかった」と米朝が発言したことに対し、香川は「自分もそう想い以前一緒に飲んだ折に思い切って『恥をしのんで聞くがいったい幾つ落語のネタが出来るか』との問に『親父や花橘師などの師匠連に稽古をつけてもらっていないネタは怖くて舞台では演じることは出来ないが70席は出来る』と答えて安心した」と答えている旨の記事が有る。20年以上前に独演会で「三枚起請」を出すと稽古をしていたと弟子の何人かは証言しているが、実際には出来栄えに納得出来ず、演じられることがなかった幻の演目となっている。高座で羽織を脱ぐ仕草が噺の邪魔になるとの考えから、両手でそれぞれの羽織の袖口をつかみ、一挙に後ろ手で落とす脱ぎ方を始めた。一度、羽織と着物の袖を間違って引っ張る失敗をしてからは、羽織のほうはサイズを大きめに作った。没後、紐のみが桂春之輔に伝えられた。羽織の脱ぎ方は桂春雨が継承している。山村流(一時藤間流)舞の名手でもあり、福団治時代は舞台でしばしば粋な寄席踊りを披露していた。同じ山村流の演者であった3代目笑福亭福松に、京都の富貴等の楽屋で舞台が終わった後に直接稽古をつけてもらっている。春団治襲名を準備していたころに、6代目松鶴から『襲名するならそろそろ噺に力を入れなはれ』と言われ、襲名後は高座ではほとんどやらなくなった。しかし、この舞踊の素養が春団治の落語に活きているのは、自他共に認めるところであった(小佐田定雄『噺の肴 らくご副読本』、桂米朝『藝・これ一生』他)。春風亭小朝曰く「東西の落語会をやる時には絶対に出演して頂きたい」「披露目がある時には必ず口上に並んで欲しい、そう多くの後輩が願う師匠」。東京の落語家で直接噺を教わった人物は多くないものの、その多くない人物のうちの一人で小朝の弟子である五明樓玉の輔は、「お玉牛」の稽古をつけてもらったことがある。同業者への辛口の批評でも知られた立川談志も、「春団治さんは特別だよ」と公言していた。3代目もまた「春団治」の家系にもれず酒豪であり女性に人気があった。女性関係については、20代の頃の手帳には、100人近くもの女性の電話番号が記載されていたという。結婚後も初夜から朝帰りするほどで、怒って実家に戻った夫人が、両親から「女の一人や二人も出来ない芸人は伸びない。お前はそれを承知で嫁いだはずでは?」と逆に諭されたという逸話がある。弟子に対しても、例えば桂春之輔に(彼女との)ホテル代を出すようなこともあったという。酒については元来は下戸であった。入門当初、師匠の2代目から芸に深みが出るためとして勧められて稽古をつけられて飲むようになった。最初の頃は酔っ払ってしまい2代目に担がれ帰宅することが多かったとのこと。ただ、高座では酔っ払いが登場する噺はほとんど手がけていない。「人によっては最初から最後まで同じ調子で酔っている噺家がいる。酒を飲んでいるのなら自然に酔っていかなければ」という持論があり、6代目松鶴と父・2代目の酔態表現を高く評価していた。3代目は名跡を1959年に29歳で継いだが、破天荒な振る舞いと明るい芸風で爆笑王の名をほしいままにした初代、初代の芸風を継いだ2代目の重圧はすさまじく、襲名から50年たっても「『少しでも間違うたら看板に傷が付きかねん』との恐怖は、心のどこかにある」と語っていた。子どものころから体を動かすことが好きで釣りもよくやっていた、高校時代は野球部所属。かつて大阪難波を本拠地としていた南海ホークスの大ファンであった。自身の草野球チームのヘアーズ(カツラとヘアをかけて命名)では、Hawksのロゴをパロディで似せた書体で、Hearsとユニフォームに書いていた。ちなみに、南海の対戦チームであった日本ハムのテレビCM(白いあらびき「ミュンヘナー」)に出演していた。体型は大柄だった父と異なり、壮年、老齢に至るまで、終始細身であった。高座での流暢な語り口と対照的に、電話口ではとても不明瞭で聞き取りにくい声のため、電話の応対に出た前座時代の桂雀々が誰だか分からず、師匠の桂枝雀にそのまま伝えると「切ってまえ!」と本当に電話を切らせたことがある。入門順。孫弟子など、詳細は春団治一門を参照。

出典:wikipedia

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