ニコラ・ポール・ステファヌ・サルコジ・ド・ナジ=ボクサ(、1955年1月28日 - )は、フランスの政治家。第23代フランス大統領(フランス第五共和政)(2007年5月16日 - 2012年5月14日)およびアンドラ公国の共同大公。前国民運動連合党首。フランスの大統領としては異色の新保守主義者、新自由主義者とされる。ユダヤ人を母に持つハンガリー移民2世で、ともにアメリカですら例のない移民2世、ユダヤ系の大統領の誕生はフランスの多民族国家化を強く印象づけた。本人はカトリック信者である。尊敬する政治家としてイギリスのトニー・ブレアを挙げたほか、イタリアのシルヴィオ・ベルルスコーニを「政治家としての手本」としており、大統領当選時に真っ先に電話するなど親密な関係で知られる。パリ出身。子供時代をパリ17区、次いでヌイイ=シュル=セーヌで過ごす。父方はハンガリー・アラッチャーン()の下級貴族の家系。父ナジボーチャイ・シャールケジ・パール(、1928年5月5日 - )は、ソ連軍に占領された祖国を逃れ、仏軍占領下のドイツに渡り、そこでフランス外人部隊の兵士となる。新兵教育を受けるも不適格とされ、1948年にマルセイユで除隊。名前をフランス風に、ポール・サルコジ・ド・ナジ=ボクサと改名した。広告業者となった父ポールは1949年、パリ17区の医師の娘で、法学部の学生だったアンドレ・マラー(1925年10月12日 - )と出会い結婚した。母方は、テッサロニキ出身のギリシア系ユダヤ人で、祖父の代にカトリックへ改宗している。ニコラ・サルコジが5歳のとき、父ポールが妻とニコラら3人の息子を見捨て離婚。後に他の女性と2回再婚している。ニコラは、母と母方の祖父に育てられ、貧しい少年時代を送る。母アンドレは、苦しい家計を支えるため、勉学を再開して弁護士となった。ニコラ・サルコジは、「この頃の屈辱が自分の人格形成に最も大きく影響した」と述べている。ニコラの兄ギヨーム・サルコジ(1951年6月18日 - )は繊維会社の社長で、フランス経団連 (MEDEF) の副会長も務めた。弟フランソワ・サルコジ(1958年6月3日 - )は、小児科医を経て生物学者となっている。いずれも優等生だった兄弟とは対照的に、ニコラの中学、高校の成績は芳しくなく、日本の中1にあたる6年生の時に英語の成績が悪く留年している。1973年、バカロレア(大学入学資格)を取得し、パリ第10大学に入学。当時はジャーナリストを志していた。1976年、大学在学中に、ジャック・シラクの結成した保守政党・共和国連合 (RPR) へ入党する。1977年パリ西郊の高級住宅地オー=ド=セーヌ県ヌイイ=シュル=セーヌの市議会議員に最下位で当選する。同年共和国連合中央委員に選出される。1978年から1979年まで共和国連合青年部全国代理、1979年から1981年まで共和国連合全国青年委員会委員長。大学卒業後は一時パリ政治学院に在学していたが、ここでも英語がネックとなり修了できなかった。1981年に弁護士資格を取得し、不動産を専門とする法律事務所をパリに共同で開設する。1983年、28歳でイル=ド=フランス地域圏議会議員、ヌイイ=シュル=セーヌの市長に当選する( - 2002年)。犯罪の減少など一定の成果を上げる。1988年、国民議会(下院)議員に初当選。ヌイイ市長と兼職する。1993年、バラデュール内閣の予算相として初入閣。同年、ヌイイ市内で発生した幼稚園立てこもり事件が起こる。この事件では、市長として犯人と直接交渉に臨み、人質の解放に貢献して全国的に有名となる。1995年フランス大統領選挙ではジャック・シラクから離反し、シャルル・パスクワに付いて対立候補のエドゥアール・バラデュールを支持する。しかし決選投票の結果、シラクが大統領に当選したため、第1次シラク政権では冷遇された。1997年に与党共和国連合(RPR)ナンバー2に返り咲き、1999年欧州議会選で事実上の党首として陣頭指揮を取るが惨敗を喫し、一時は政治生命の危機も囁かれ、党の役職を全て辞して弁護士としての活動に戻った。2002年5月、ラファラン内閣の内務・治安・地方自由相として入閣、久々の表舞台となったが、サルコジ自身は首相職を望んでいたため、ますますシラクとの関係が微妙なものとなった。2003年3月19日に治安回復を目指し、軽犯罪の厳罰化と街娼の取り締まりなどを目的としたサルコジ法を施行させる。サルコジ内務相の強硬な治安政策によって、国内の犯罪発生件数は激減し、実績を買われたサルコジは一躍、優秀な政治家になる。2004年、経済・財務・産業相に異動。同年11月29日、RPRの流れを組む国民運動連合 (UMP) の党首選挙において、85%の得票率で党首に選出される。シラクはサルコジの権力増大を恐れ、サルコジは財務相を辞任する。2005年5月31日よりド・ビルパン内閣の内相に就任する。同年発生したパリ郊外暴動事件の鎮圧にあたる。この際、暴動に加わった若者に対して、「社会のくず (')」「ゴロツキ (')」などと発言したことが物議を醸すが、こうした強硬な態度がかえって世論の支持を集めた。暴動の最中の11月12日にイフォップ社が有権者958人を対象に行った電話による世論調査では、国民運動連合の支持者の90%が、極右政党支持者の97%がサルコジ内務相の強硬姿勢を支持すると応えた。2007年フランス大統領選挙に立候補。保守層や勤労世帯を中心に支持を集め、同年5月6日の決選投票で社会党のロワイヤル候補を下し、大統領に当選する。同月16日、第23代大統領に就任。大統領に当選直後、地中海に自家用ジェット機とマルタの豪華ヨット(全長60メートル、推定賃料週20万ユーロ=約3240万円)でクルージングし、野党からはあまりに豪華すぎると批判された。これに対し彼は「何が問題か。私は逃げも隠れも謝りもしない」と反論した。上記の豪遊では批判されるも、旧植民地マグレブ出身の法務職員であったラシダ・ダティの法相への抜擢や、セネガル出身の黒人女性の副官房長への抜擢、野党である社会党出身の政治家の大臣への登用(エリック・ベッソン、ベルナール・クシュネル)など、これまでのフランスでは考えられなかった画期的な人事を行った。法務省では次官級の幹部が総辞職してこれの妨害に動くという事態となったが、閉鎖的なフランス国内に風穴を開ける革命的なことであると北米のメディアに評されている。国民からの支持率も高く、70パーセント台を記録した。2007年6月に行われたフランスの国民議会選挙では彼の率いる与党・国民運動連合(UMP)が地滑り的勝利を収め、日本の週刊誌エコノミストはフランス版小泉純一郎と彼を評した。同年10月、フランス大統領府はサルコジの給与を現状の2倍以上に引き上げる意向を示した。与党・国民運動連合は「大統領であるのに他の閣僚よりも給与の額が低いから」と説明したが、折りしもサルコジの改革に対して野党・国民から批判が高まりつつある時期の給与増額は波紋を呼んだ。野党社会党のビアンコ議員は「多くの国民が月末に出費をやりくりしているご時世にいかがなものか」と批判した。2012年フランス大統領選挙に出馬したが、決選投票にて社会党のフランソワ・オランドの前に敗北を喫し、2012年5月15日を以て第23代大統領を退任した。大統領退任後は、政界から離れ、国際会議に出席したり、家族との時間を増やすなど悠々自適の生活を送る一方、2017年に行われる次期大統領選挙への出馬を示唆するなど復帰への意欲は見せている2013年3月21日、2007年の大統領選挙の時、女性富豪から違法に献金を受け取っていたとされる疑惑で、ボルドーの捜査当局はサルコジを刑事訴追した。また、2014年7月1日、不正事件の捜査に絡み、フランスの司法当局が事情聴取のために身柄を拘束した。シラク政権のイラク戦争反対により冷え込んだ対米関係の改善やフランスの北大西洋条約機構(NATO)復帰、フランス伝統のド・ゴール主義を捨て英米型の新自由主義を行った。モットーは「もっと働き、もっと稼ごう」。一方でサルコジの政策は、かつてのカダフィ支配下のリビアやロシアとの関係を重視するなどイデオロギーにとらわれない全方位外交的な面は引き継いでいる。「ナポレオンより背が低い」と言われるほど、平均的なフランス人(男性の平均身長175.6cm)に比べて身長が低い(163cm程度といわれ、いつも上げ底の靴を履いている)。そのため、フランスの有料チャンネルテレビ局Canal+の政治風刺人形劇『』の中では、シラク大統領(当時)人形がサルコジ人形を「スマーフ ()」と呼んでいたこともあった。大のタバコ嫌いでワインを含め酒も飲まない。好物はチョコレート。親英米と言われるが英語があまり堪能でなく、上述のように学校時代は英語のために2度落第した。この点でシラク前大統領が英語に堪能でありながら人前で話すのを避けていたのと対照的といわれる。なお、2008年10月にサルコジになりすましてサラ・ペイリンと「会談」したカナダのコメディアンは「フランス語訛り」の英語を話していたという。パリ大学卒で弁護士で移民2世という出自でもあり、高級官僚を養成するENA出身(エナルク)の官僚的な政治家が支配的なフランス政界の中で、庶民派というイメージを強く打ち出している。演説や語りも、庶民にもわかりやすい単純で率直な言い回しを好み、国民に直接訴えかけるスタイルである。3度結婚しており、元妻マリーとの間に息子2人、前妻セシリア(1957年 - )との間に息子1人、現妻カーラ(1967年12月23日 - )との間に娘1人、合わせて4人の子供がいる。元妻マリーは、コルシカ島の寒村の薬局の娘で、1982年に結婚し、ピエールとジャンの2男をもうけた。前妻セシリアは、作曲家イサーク・アルベニスのひ孫にあたり、モデルや元老院議員秘書を経て、テレビ司会者と結婚し、2女をもうけていた)。セシリアとは、双方ともに配偶者のいる中、不倫愛をつらぬき、1996年に結婚。1998年には息子ルイが生まれる。サルコジは、内務省に席を設けるなどしてセシリアを厚遇した。しかし、セシリアは2005年、支持者の実業家とニューヨークへ駆け落ち。ド・ビルパン首相(当時)からは、「妻を魅了できないで有権者を魅了できるのか」と皮肉られた。夫妻は2006年に復縁したが、セシリアはファーストレディとなることを拒絶。結局、夫妻は2007年10月に離婚した。その後、2008年1月に元スーパーモデルで歌手のカーラ・ブルーニと3度目の結婚を果たした。2011年10月19日に女児が誕生。哲学者のアラン・バディウは「サルコジ」なるものを新たな恐怖政治の症候としてとらえ、「このチビ・ナポレオンによる恐怖のために、完全に現実的なものになった内からの脅威に直面して、国家は、ジュネが演劇『バルコニー』のなかですでに与えていた国家の一方向的な形態、つまり警視総監──ちなみにかれの夢のコスチュームは、ゴム製の巨大なペニスだ──という形態をとってしまった」と批判している。
出典:wikipedia
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