LINEスタンプ制作代行サービス・LINEスタンプの作り方!

お電話でのお問い合わせ:03-6869-8600

stampfactory大百科事典

福原忍

福原 忍(ふくはら しのぶ、1976年12月28日 - )は、阪神タイガースに所属していた広島県三次市出身の元プロ野球選手(投手)。現役最終年の2016年には、チームの投手キャプテンを務めた。二岡智宏とは小学校から広陵高校まで同窓で、小学校では4度クラスメイトになった。野球を始めたのも二岡と兄の影響である。高校3年時は二岡との二枚看板で夏の広島大会では優勝候補筆頭に挙げられていたが、新井貴浩を擁する県立広島工業高校に敗れた。東都大学野球連盟所属の東洋大学に進学後は4年秋の2部リーグで6連勝をして1部復帰の原動力となり、のプロ野球ドラフト会議で阪神タイガースから3位指名を受け入団。入団当初から150 km/h台の速球が注目されており、は野村克也監督に抜擢され、4月4日の読売ジャイアンツ戦に5番手で登板し、プロ初勝利を挙げて同年の新人投手の白星第1号となり、新人投手で4月中に初勝利と初セーブを挙げるという球団史上初の快挙を成し遂げ、中継ぎ、抑えとフル回転し10勝7敗9セーブを記録した。、は共に先発投手としてスタートし、2000年4月18日の対巨人4回戦では相手打線を4安打に抑えてプロ初完封を達成したが、援護に恵まれず、後半はリリーフに回るようになる。また、徐々に右肩に違和感が生じてオフに手術。8月31日の対ヤクルトスワローズ戦で先発として復帰戦に臨み、勝利投手となる。は先発ローテーションに定着し、4月には5勝0敗防御率2.43で月間MVPを受賞した。監督推薦で同年のオールスターに出場、第2戦で先発登板して3回を新庄剛志の本盗の1失点に抑え新人賞を受賞したが、打線の援護がなく敗戦投手となった。後半戦は調子を落とし、好投したときは援護のない試合が続き勝ち星は伸びず、防御率はリーグ7位だったが10勝15敗と負け越しリーグ最多敗戦投手となった。同年は巨人戦に滅法強く、5月13日には7回まで投げて巨人が開幕から続けていた連続試合本塁打を止めるなど、8試合に登板して6勝無敗防御率1.73の対戦成績を残した。、この年も援護に恵まれず8勝14敗に終わり、1995年・1996年に記録した藪恵壹・湯舟敏郎以来の二年連続リーグ最多敗戦投手となった。は腰痛で出遅れたもののスローカーブを主とした緩急を使った投球で抜群の安定感を見せ、勝ち星に恵まれるようになる。ペナントレース終盤では井川慶を押しのけ、ローテーションの中心を担った。9月10日の横浜ベイスターズ戦で自己新となる11勝目を挙げ、最終的に12勝5敗、リーグ2位となる防御率2.09の好成績を残した。オフにはチームメイトの安藤優也と共に映画『青空のルーレット』(2007年公開)に出演。、2勝8敗、防御率6.53の成績に終わった。は故障もなく順調に調整することができ、開幕3戦目となる3月30日の横浜戦でシーズン初登板を完封勝利で飾る好スタートを切ったが、4月24日の中日ドラゴンズ戦でバントを試みた際にボールが右人差し指に直撃して負傷退場。右示指(じし)末節骨骨折と診断され離脱した。は完投する試合こそあったものの、シーズン通して絶不調で3勝10敗と大きく負け越した。は先発ローテーションから外れ、7月までほとんど二軍で過ごした。8月以降は主に敗戦処理で登板するも、防御率5.18と結果は残せず、プロ入り後初の未勝利に終わる。のシーズン当初は、主にビハインドの場面から救援で登板。シーズン途中からは、自身の好調に加えて、小林宏・久保田智之両セットアッパーの不調などから勝ちパターンでの起用が増えた。9月7日の対広島東洋カープ戦では、一軍公式戦で自身2年振りの勝利を記録。一軍公式戦全体では、自己最多のシーズン55試合登板を果たすとともに、防御率2.59、11ホールドを記録した。も中継ぎとして安定したピッチングを見せ、5月4日の巨人戦ではストレートの球速が153km/hを記録した。6月14日の西武戦では1点リードの9回裏に4番手として登板。三者凡退に抑えて11年ぶりのセーブをマーク。最終的に自己シーズン最多となる60試合に登板、防御率1.76、18ホールドと昨年よりも安定した成績を残し、メジャーリーグ複数球団が獲得に乗り出す動きも報じられた。も中継ぎとして開幕当初から安定したピッチングを続け、途中腰痛による登録抹消はあったものの、開幕当初の守護神だった久保康友が不調で2軍落ちした中、チーム事情からの苦肉の策とは言え守護神として定着、8月24日の中日戦(ナゴヤドーム)で自身初の10セーブ目を挙げた。は新外国人の呉昇桓が守護神として起用されたため、セットアッパーに復帰。5月4日の対ヤクルト戦で通算1000奪三振を達成した。右内転筋の張りによる離脱以外は一軍で投げ続け、終盤こそ疲労からやや安定感を欠き呉のリリーフを受ける場面もあったが、シーズン通算で42ホールドポイントを記録したころから、セントラル・リーグの最優秀中継ぎ投手に選ばれた。福原にとっての初めてのタイトルながら、阪神球団の歴代最年長記録に当たる38歳での獲得であった。には、一軍での中継ぎ投手不足を背景に、前年に続いてセットアッパーとして奮闘。結局、39ホールドポイントで2年連続の最優秀中継ぎ投手に選ばれたため、タイトル獲得の球団史上最年長記録を更新した。には、一軍監督として復帰した元チームメイトの金本知憲から、投手キャプテンに任命された。公式戦の開幕から一軍のセットアッパーを任されたが、救援の失敗が相次いだことから、4月20日に出場選手登録を抹消。自身の不調による二軍調整を前提に置いた抹消は、2010年5月27日以来6年振りであった。2016年の登録抹消後は、調子や球威が戻らず、ウエスタン・リーグ公式戦での調整登板でも不安定な投球が続いた。これに対して、阪神球団では、同年8月27日に開いた編成会議で、福原を翌2017年の戦力構想から外す方針を確認した。福原自身も、一軍への復帰に至らないまま、2016年9月23日にこのシーズン限りでの現役引退を表明。同日開催の引退記者会見では、引退を決意した理由に「今までなら一軍の打者から空振りやファウルを取れたはずの球が、(ウエスタン・リーグ公式戦で対戦した)二軍の打者にも捉えられるようになった」ことを挙げたうえで、「『広陵高校の先輩でもある金本監督を何とか胴上げしたい』と思っていたが、チームや監督の力になれなくて申し訳ない」「多くの阪神ファンの前で投げられる甲子園球場の(他球場に比べて)少し高いマウンドは最高」「いろいろな方に支えられて、18年間現役を続けられたことに感謝している」と語った。阪神球団では、レギュラーシーズンの最終戦であった2016年10月1日の対巨人戦(甲子園)を、福原の引退試合として開催した。この試合で約5ヶ月振りに一軍へ復帰した福原は、「打者1人」という条件で、8回表に2番手投手として救援登板。マウンドで待ち受けていた金本から直々にボールを受け取ると、立岡宗一郎に対して140km/h台前半の直球だけで勝負した後に、3球目で左飛に打ち取って涙ながらに現役生活を終えた。試合後に開かれた引退セレモニーでは、球団関係者・チームメイト・ファンに加えて、甲子園球場のグラウンド整備を担う阪神園芸のグラウンドキーパーに対しても感謝の意を表明。「僕がプロの第1球を投げたのは、東京ドームの巨人戦でした。そして今日、この甲子園の伝統の一戦で最後の1球を投げることができて、本当に幸せです。この一戦がいつまでも『伝統の一戦』と呼ばれるように、両球団のファンの皆様には、これからもたくさんの応援を宜しくお願いします」という言葉で挨拶を締めくくると、阪神ナインから8回にわたって胴上げされた。ストレートの平均球速144.9km/h(2012年)、150km/h超の真っ直ぐと落差の大きいカーブは強力と言われた。。投手にしては打撃も上手く、2015年シーズンまでに本塁打を2本放っている。ともに東京ドームの巨人vs阪神戦でのソロホームランで、2001年4月1日には斎藤雅樹から、2004年5月13日には林昌範からの一打である。他にも、2006年8月19日には適時打2本を含む3安打を打ち勝利投手になる試合もあった。

出典:wikipedia

LINEスタンプ制作に興味がある場合は、
下記よりスタンプファクトリーのホームページをご覧ください。