生口島(いくちじま)は瀬戸内海にある島。芸予諸島の一つであり、全域が広島県尾道市に属する。かつての行政区分は豊田郡瀬戸田町と因島市の2つで構成されていたが2006年市町村合併により現在の状況になった。東隣が尾道市の因島、北西隣が同じく尾道市の高根島になる。北隣が三原市の佐木島。西から南側が愛媛県になり西が今治市の大三島、南が今治市の伯方島や上島町の岩城島になる。瀬戸内海を縦断する広域交通である西瀬戸自動車道(しまなみ海道)がこの島に通り、その生口橋で因島と、同じく多々羅大橋で大三島とつながっている。そして高根大橋で高根島と結ばれている。面積31.21km (2014年10月時点)。地質はほぼ花崗岩で形成されている。島の最高峰は観音山(標高472.3m)で、次が牡蠣山(標高408.1m)。特に観音山は芸予諸島内での最高峰で、雨乞い祈祷場であり、そして瀬戸内海を拠点とした水軍が狼煙台を置いていたことから別名“火瀧山”とも呼ばれている。地形は、2つの山から伸びる陵線によって南北で分けられ、北側は比較的緩やかな傾斜で、南側は逆に急傾斜で、双方とも平野部は狭い。気候は全域が瀬戸内海式気候。旧石器時代、瀬戸内海一帯は一つの平地で、この島は一つの丘であった。この地には、縄文時代の岡条遺跡や弥生時代の神峠遺跡など古くからこの地に人が住んでいたことを証明する遺跡が幾つか存在する。特に、神峠遺跡から出土した長細い大型の石斧は、岡山周辺の中部瀬戸内海地域で出土する同種のものの同じ特徴をしていることから、何らかの結びつきがあったと考えられる。そして古墳時代に作られた古墳も幾つか点在する。その中の一つ山室古墳は箱式石棺で埋葬されている。生口の名の由来には諸説ある。島の南にある光明坊は、天平2年(730年)行基が開基したと伝えられる。島の西にある垂水天満宮は伝承によると、菅原道真由来の神社である。別名は牛天神といい、道真が寛平8年(896)大山祇神社へ祈祷へ向かう最中、この付近で難破し上陸できずに困っていたところ、里人が引いていた牛が嵐の中から道真を陸まで引っ張りあげたことからこの名がついた。その時に道真は世話になったお礼として清水の在り処を示すとそこから水が湧きでたことから、“垂水”の名がついたと言われている。そこより北の、瀬戸田水道南口を見守るような位置にある天満神社は、長和元年(1012年)沢信勝が北野天満宮から寄進したものと伝えられる。平安時代、生口島は「生口荘」、あるいは「生口南荘」「生口北荘」「福田庄」に分割された荘園であった。これらのことから、当時の島の中心地は島の南側である御寺地区であったと考えられている。一方で島の北側の瀬戸田や名荷は古くからの天然の良港で、倉敷地として用いられていたと推定されている。南北朝時代、この地は伊予国を中心とした南朝勢の拠点の一つで、観音山の“茶臼山城”を拠点に広沢五郎が生口南荘を支配下においていた。そこへ、高山城(現三原市)を居城としていた北朝の小早川氏が伊予へ攻め入る最中である康永元年(1342年)茶臼山城にて双方が激突し小早川氏が勝利し、以降この地は小早川氏の領地となる。そして小早川宣平の子、惟平がこの地に拠点を移し生口姓を名乗り(生口惟平)、以降この地は生口氏が支配することになる。生口氏は茶臼山城を本拠とし、更に瀬戸田の港を支配できる位置に“俵崎城”を設けた。瀬戸田が生口氏の保護のもと交易港として発展し、生口小早川水軍の拠点となり、島の中心地となっていったのはこの14世紀半ば以降のことである。こうして、生口氏にとっては物資調達のため、海運業者にとっては商売に武力勢力の保護そして特権が使えたため、双方とも結びつくことで利益を生み、そして生口氏の発展のみならず本家の小早川氏の発展にも寄与することになる。当時から瀬戸田の交易品の主力は塩であり、文安2年(1445年)兵庫湊(神戸港)海関の通行記録である『兵庫北関入船納帳』において、その通行回数から瀬戸内海有数の交易港であったことがわかっている。また、生口氏は海運業者との関係をより密接なものとするため、瀬戸田を発展させそして寺社に寄進した。向上寺は応永10年(1403年)佛通寺の末寺として開山したもので、生口守平による寄進で創建した。地蔵院・広徳寺・興福寺・法然寺、生口神社(祇園宮)など瀬戸田港周辺の寺社はこの時代に生口氏や商人らの寄進により創建あるいは中興している。島の北東部である名荷で行われている県無形民俗文化財である名荷神楽は、室町時代からと伝えられている。ある年、島全体は疫病と干ばつからの凶作に苦しみ、それを見かねた名荷神社の世話役が病魔退散と豊作を願い御幣と扇子を持って神楽を舞ったのが最初と言われている。天文23年(1554年)生口南荘は東隣の因島を拠点としていた因島村上氏(村上水軍)に割譲することになる。村上氏は御寺に館を築いたと伝えられている。生口氏の山城である茶臼山城は現在の中野地区にあり、『芸藩通志』では海賊衆の生口景守の城と記載されており、戦国時代/安土桃山時代までは少なくとも生口氏の拠点であった。俵崎城は、瀬戸田の町と高根島・佐木島・因島そして更に北にあり小早川氏本家の本拠である三原まで見通せる小高い丘の上にあり、16世紀前半ごろに本格的に整備された、城と館の機能を持った城と考えられており、当時の小規模の城としては珍しく瓦葺きであったことが分かっている。江戸時代、この島は広島藩領となり、複数の村と、そして瀬戸田のみ町方に区分された。寛文12年(1672年)、西廻海運、つまり北海道・東北地方を起点に日本海から瀬戸内海をまわり大阪そして江戸に至る海運ルートが確立し、北前船など廻船が寄港するようになり、瀬戸田は交易港として大きく発展していくのである。そして山陽と四国を結ぶ中継港として、日用雑貨を扱う小型廻船が寄港する港となっていった。瀬戸田水道周辺の町並が形成されたのはこの時期で、現在までほぼ変わっていない。島に大規模な入浜式塩田が開発されたのはこの頃である。江戸時代に開発された塩田は島の北側に集中し、寛永15年(1638年)以前に現在の瀬戸田小学校付近に作られたものが最初で、以降北側沿岸部には幕末までに作られていった。西廻海運により塩の取引量は上がり、“浜旦那”と呼ばれた塩田地主兼商人が増えていき、住人の大半が製塩業に関わるようになり、藩内においては文政8年(1825年)時点で竹原に次いで2番目の生産量を誇った。『芸藩通志』によると住民は塩業がメインで、その他には商業・漁業・舟運業などに従事していた。こうしてこの地域の交易港としては尾道に次ぐ規模となっていった。豪商も多く誕生し、彼らによって町並が整備され寺社への寄進が続いていった。茶文化や俳諧文化が花開いたのはこの頃である。明治4年(1871年)、廃藩置県後、広島県豊田郡に属する。引き続き製塩業が産業の中心で、明治初期に島の南側に大規模塩田が整備されていった。初代の瀬戸田町長能勢禎一郎は当時北側の塩田地主の一人である得能家の出身である。そして、現在の町の産業の中心である柑橘類の栽培は明治時代から本格的に生口島・高根島で始まっている。中野地区は、この柑橘類の販売で財を成したもの達が町を形成した。そして他の瀬戸内の島と同様に造船業が始まる。大正4年(1815年)山陽造船が設立されたのが最初で、現在は内海造船瀬戸田工場・光洋工業名荷工場・岡田マリンサービスなどの造船所がある。耕三寺は昭和10年(1935年)元実業家の耕三寺耕三が建立したもので、戦後「西の日光」として観光展開し門前にしおまち商店街が整備されていった。1953年(昭和28年)、東生口村が御調郡因島の町村と合併し、島の南東部のみ因島市となる。1990年代から広域交通網が整備され、1999年西瀬戸自動車道が全通となり中国地方と四国地方と陸続きとなる。平成の大合併では因島市との「しまなみ市」構想や新たな架橋計画も含めた三原市との合併など模索されたが、結局2006年尾道市に編入される。現在の島の産業の中心は、漁業と柑橘類の栽培・造船業・観光業である。漁業・観光としてはタコ料理が特に有名。柑橘の栽培が始まったのは明治以降のこと。平野が狭いが傾斜地は多い地形と温暖な気候が続く瀬戸内海式気候とこの地は柑橘類の栽培に適しており、そしてそれまで中心だった製塩業は1971年塩業近代化臨時措置法(塩専売法)で塩田廃止に迫られたことにより、農業の中心が柑橘栽培へと移っていった。ちなみに伯方の塩の伯方島はこの島の南側にある。具体的にはレモン・ネーブルオレンジ・ハッサク・ミカンが栽培されている。特にレモンは有名で(下記)、ネーブルは江田島とともに国内屈指の生産量、ハッサクは北側の因島が発祥である。この島の観光業はまず1939年以降造営されていった耕三寺から始まる。発達したのは旧瀬戸田町が積極的に進めてきたもので、それまでの中心産業で不況の影響を受けやすい造船業に代わる新たな産業として力を入れたこと、これに海と島の博覧会としまなみ海道開通で観光ブームが起こったことによるもの。日本初の柑橘類のテーマパークシトラスパーク瀬戸田が開場したのもこの頃である。しまなみ海道開通時は一時的に観光客は増加したが、以降は徐々に減少が続いている。国産レモンの生産量は広島県が全国一で国内の5割以上を占めている。県内ではほぼ生口島および高根島の「瀬戸田レモン」と大崎下島大長地区の「大長レモン」の2つが産地で、瀬戸田レモンのみの生産量は国産レモンの3割近くを占め、この島は日本一の生産量をほこっている。1898年大長で栽培が始まったのが最初で、瀬戸田では1928年から始まっている。そして栽培面積も増え、1949年国内でレモンブームが起こり、1953年広島県の作付面積は全国一となり、1963年その中で瀬戸田レモンが日本一の生産量となる。その後輸入レモン自由化に押され大幅な減反に迫られたが、1970年代輸入レモンの防カビ剤OPPが問題となったことから安全な国産レモンの需要が高まっていき、1982年全国に先駆けて全島でレモン増殖運動を展開したことにより生産量が増えていった。きっかけは1985年から始まるベル・カントホールや瀬戸田サンセットビーチといった集客型施設整備と1989年海と島の博覧会の開場の一つにきまったことから。その海島博の企画として、アートプロジェクト「瀬戸田ビエンナーレ」が始まった。ビエンナーレとはイタリア語で2年毎に開催される美術展を意味し、現代彫刻家の屋外作品を島中に設置するというプロジェクトである。構想主催は中原佑介・酒井忠泰・米倉守らによるもの。1999年瀬戸田ビエンナーレ事業は終了し、「島ごと美術館」と名を改め観光展開している。2016年現在で展示作品は17点。ちなみに、耕三寺博物館は1953年(昭和28年)、この島出身の画家平山郁夫の作品を展示している平山郁夫美術館は1997年開館している。"以下、2016年現在島内にある国の文化財を列挙する。"国宝重要文化財(国指定)国の登録有形文化財"ここでは尾道市の「指定文化財及び文化財総合的把握モデル事業」による調査で認定されている代表的な祭りを列挙する。この他にも地区ごとの祭りもある。"西瀬戸自動車道(しまなみ海道)によりこの島は本州・四国ともに繋がっている。島内には瀬戸田パーキングエリア、瀬戸田バスストップがあり、しまなみライナーなどバスで来ることが出来る。しまなみ海道は他の本州四国連絡橋と違い歩道・自転車道も整備されていることから、徒歩・自転車でも来島出来る。また高根島とは高根大橋で結ばれている。外部からの渡航受け入れ港は以下のとおり。現在でも通勤・通学になくてはならない航路である。
出典:wikipedia
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