富谷市(とみやし)は、宮城県中部にある人口約5万人の市で、仙台市の北隣に位置する。市制施行以前の富谷町時代より仙台市のベッドタウンとして発展し、2015年(平成27年)の国勢調査で法定人口が5万人を突破したことで市制への移行申請が行われ、2016年(平成28年)10月10日付で単独市制施行して宮城県下14番目の市となった。市制施行以前は黒川郡に属しており、2012年(平成24年)12月25日には住民基本台帳に基づく人口が5万人に到達、2014年(平成26年)11月1日には、日本の町村の中で推計人口が全国1位となっていた。市境の内、南辺を仙台市と、東辺の一部を宮城郡利府町と共有し、それ以外の東・北・西を黒川郡大和町に囲まれる(黒川郡#沿革参照)。仙台との境は旧宮城郡と黒川郡を分ける分水嶺となっており、市内を流れる河川は全て北流して大和町の吉田川へと流れ込む。市内は、富谷丘陵と、複数の吉田川支流がつくり出す河川沿いの細長い谷底平野で構成される。江戸時代初期に、西川(吉田川支流)の右岸(南岸)の奥州街道沿いに富谷宿()が設置された。この宿場は「富谷新町」「富谷新町宿」とも呼ばれた。現在、市役所など公共施設が集中する市の中心部は旧「富谷新町」の北側、西川(吉田川支流)の左岸(北岸)に広がっており、旧宿場も含めて「しんまち地区」と呼ばれている。本市は、仙台市都心部を中心とした超広域商圏の「青葉商圏」、あるいは、泉中央副都心を中心とした「泉商圏」に含まれているが、泉区内から続く国道4号(奥州街道、陸羽街道)沿いのロードサイド店舗開発が市内にも及び、イオンモール富谷などの大規模商業施設の開発が行われて、隣接地域からの集客力が大きく増している。本市は、仙台のベッドタウンとして人口増を実現してきた。新興住宅地は1971年(昭和46年)の東向陽台を皮切りに、国道4号沿いの丘陵地に次々造られ、その面積は町の総面積の18%を占める。また、新興住宅地の人口は、全町民の9割以上を占める(#住宅地開発参照)。1991年(平成3年)の将監トンネルの開通、および、1992年(平成4年)の仙台市営地下鉄南北線・泉中央駅開業とバスターミナル設置で仙台市都心部までの所要時間が大幅に短縮したため、バブル崩壊後の失われた10年においても人口増は衰えず、地価も上昇し続けた。地価は1999年(平成11年)頃をピークに低下し始めたが、その分、安くマイホームが得られる魅力と、トヨタ自動車東日本を初めとする大松沢丘陵やその周辺の工場集積地(黒川郡大和町・大衡村)への通勤に便利な立地であるため、失われた20年と言われる現在でも人口増加が続いている。平成の大合併期には仙台市との合併、黒川郡内での合併、単独町制などの選択肢が議会で議論されたが、本市は2013年(平成25年)には推計人口で単独市制人口要件の5万人に達すると予測されたため、単独町制を維持して市制を施行する道を選択した。単独市制人口要件は法定人口を根拠とするため、2015年(平成27年)国勢調査後の2016年(平成28年)4月に市制施行を目指すと町長が町議会で表明していたが、若生裕俊町長は単独市制移行の期日を平成28年10月10日とする考えを明らかにした。2009年(平成21年)12月には「市制検討プロジェクトチーム」を発足させている。住民基本台帳人口では2012年(平成24年)12月25日、推計人口では2013年(平成25年)8月1日に5万人を突破した。伊達政宗の御鷹場があったといわれる。また、可愛がっていた鷹が鷹狩中に死んでしまったために、甕(かめ)に入れて丁重に埋葬したという言い伝えのある『甕杉』も存在している。(地元では「亀杉」と云われる。鷹乃杜地域内)江戸時代には、奥州街道の宿場として栄えた。市内に10の神社があり、「十宮」と呼んでいたのが、「富谷」と書かれるようになったといわれている。(平成27年9月16日現在)(総務省統計局 平成12年国勢調査)以下は富谷市に本社を置く(置いた)企業の一部※江戸時代には富谷宿付近で茶が盛んに栽培されていた。平均年齢39.2歳(2010年(平成22年)国勢調査)と、新興住宅地のため全国的に非常に低い平均年齢である。
出典:wikipedia
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