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仏像

仏像(ぶつぞう)は、仏教の信仰対象である仏の姿を表現した像のこと。仏(仏陀、如来)の原義は「目覚めた者」で、「真理に目覚めた者」「悟りを開いた者」の意である。初期仏教において「仏」とは仏教の開祖ゴータマ・シッダールタ(釈尊、釈迦如来)を指したが、大乗仏教の発達とともに、弥勒仏、阿弥陀如来などの様々な「仏」の像が造られるようになった。「仏像」とは、本来は「仏」の像、すなわち、釈迦如来、阿弥陀如来などの如来像を指すが、一般的には菩薩像、天部像、明王像、祖師像などの仏教関連の像全般を総称して「仏像」ともいう。広義には画像、版画なども含まれるが、一般に「仏像」という時は立体的に表された丸彫りの彫像を指すことが多い。彫像の材質は、金属製、石造、木造、塑造、乾漆造など様々である。元々、釈迦が出世した当時のインド社会では、バラモン教が主流で、バラモン教では祭祀を中心とし神像を造らなかったとされる。当時のインドでは仏教以外にも六師外道などの諸教もあったが、どれも尊像を造って祀るという習慣はなかった。したがって原始仏教もこの社会的背景の影響下にあった。また、原始仏教は宗教的側面もあったが、四諦や十二因縁という自然の摂理を観ずる哲学的側面の方がより強かったという理由も挙げられる。さらに釈迦は「自灯明・法灯明」(自らを依り所とし、法を依り所とせよ)という基本的理念から、釈迦本人は、自身が根本的な信仰対象であるとは考えていなかった。したがって初期仏教においては仏像というものは存在しなかった。しかし、釈迦が入滅し時代を経ると、仏の教えを伝えるために図画化していくことになる。仏陀となった偉大な釈迦の姿は、もはや人の手で表現できないと思われていた。そのため人々は釈迦の象徴としてストゥーパ(卒塔婆、釈迦の遺骨を祀ったもの)、法輪(仏の教えが広まる様子を輪で表現したもの))や、仏足石(釈迦の足跡を刻んだ石)、菩提樹などを礼拝していた。インドの初期仏教美術には仏伝図(釈迦の生涯を表した浮き彫りなど)は多数あるが、釈迦の姿は表されず、足跡、菩提樹、台座などによってその存在が暗示されるのみであった。仏像が造られる以前、釈迦牟尼(しゃかむに)の存在は法輪・菩提樹・仏足石などによって象徴的に表現されていた。ところが、西北インドのガンダーラ地方と北インドのマトゥーラ地方(現在はパキスタン)に仏教が伝わると、仏像が盛んに造られるようになったことから、この2つの地域に仏像の起源は求められている。ガンダーラとマトゥラーのいずれにおいて仏像が先に造られたかについては、長年論争があり、決着を見ていない。ガンダーラでは、インド文化を基盤にヘレニズム文化の影響を受けて、ギリシャ的な風貌を持つ仏像が造られた。次第に釈迦の修行時代を示す王冠菩薩や、弥勒(みろく)菩薩を示す束髪(そくはつ)菩薩などの菩薩像が生まれ、さまざまな仏像が出現するようになる。ガンダーラの仏像の特徴は額・眉間に白毫(びゃくごう)があり、背後に丸い円盤のような光背を付けているなどが挙げられる。また、ガンダーラでは仏塔の周囲に仏像を安置する仏龕(ぶつがん)が作られるようになるが、時代の経過と中央アジアに仏教が伝わるにつれて、仏塔と仏像を祀る祠堂(しどう)が誕生する。そうしてついには、仏像崇拝が仏塔崇拝よりも興隆するのである。ガンダーラの仏教美術は、仏塔や石窟寺院とともに、ガンダーラから中央アジアを経由して東アジアへ伝えられた。ガンダーラ仏教美術の時代背景紀元前330年頃にアレクサンドロス3世(大王)の遠征軍がペルシャを越え北インドまで制圧し、ギリシャ文化を持ち込んだ。その後も紀元前2世紀にはグレコ・バクトリア王国のギリシャ人の支配を受けるなど、西方文化の流入は続いた。つまりガンダーラの仏教美術とは、ギリシャ美術、ペルシャ文化に仏教が融合した結果であった。元々仏陀像は釈迦の像に限られていたが、仏教の展開に応じて、色々な像が生まれ、光背はペルシャ文化の影響と見られ、仏教はギリシャ文化の影響からか、偶像崇拝的性格を持つようになった。ガンダーラにおいても銘文から弥勒菩薩、阿弥陀如来、観音菩薩などであることが明らかな作例が確認されている。詳しくは高田修『仏像の起源』(岩波書店、初版1967年、復刊1994年ほか)『仏像の誕生』(岩波新書 1987年)、宮治昭『ガンダーラ仏の不思議』(講談社選書メチエ、1996年)。仏像が盛んに造られるようになったのは、紀元後1世紀頃からインドを支配したクシャーナ朝の時代であることはほぼ定説となっている。クシャーナ朝のカニシカ王は釈迦の教えに触れて仏教の保護者となった。王は自国の貨幣に釈迦像と仏陀の名を刻印した。また当時の都であったプルシャプラ(現パキスタン、ペシャーワル)の遺跡からはクシャーンの王(カニシカ王とされるが異説もある)の頭上に釈迦が鎮座する図柄の舎利容器なども発見されている。マトゥラーの仏像は肩がいかり肩で力強く、量感に富む仏像が造られた。これはさらに洗練され、グプタ朝時代の完成された仏像に引き継がれていった。仏像は、如来、菩薩、明王、天部の四つのグループ(部)に分けられる。このほか、羅漢や祖師像を含めた尊像を広く仏像ということもある。如来(にょらい)とは仏の尊称(仏十号の一)である。「如去如来」あるいは「如来如去」の略、すなわち「真如の世界へ去り、また真如の世界より来られし者」という意味であり、修業を完成して、真理すなわち悟りを開いた人を表す。如来は三十二相八十種好と呼ばれる身体の特徴を持っていると言われていることから、如来像もこれを表現している。頭部が盛り上がっている(肉髻)、頭髪が右巻に渦巻いている(螺髪(らほつ))、眉間から伸びた身長くらいの長さの白い毛が右巻に渦巻いている(白毫)、体が金色である、装飾品は身に付けない等の特徴である。もっとも、必ずしも三十二相八十種好の全てを造形的に表現している訳ではない。通常、衣服は衲衣と裳をまとっているだけである。大日如来だけは例外で、菩薩のように着飾っている。また、如来は施無畏印、与願印、禅定印、説法印、触地印などの印相を結んでいる。持物(じもつ)は持たないが、薬師如来だけは薬壷(やっこ)を持っている。日本における如来像の頭髪は、いずれも螺髪(らほつ)といって渦巻状の集合体で造形されている。ガンダーラ仏等初期のものにはなかったが、3世紀以後の仏像は、螺髪を有するようになった。大阪大学教授の肥塚隆によると、インドにおいて偉大な優れた人物は凡人とは異なった特異な姿でこの世に現れるという考えがあり、その1つが特殊な頭髪として現れたという。菩薩(ぼさつ)とは、成仏を求め(如来になろうとして)修行を積む人の意味である。一般的な姿は上半身に条帛(じょうはく)を纏って、下半身に裳を着け、天衣(てんね)を両肩から垂れ下げている。髻を結い上げて宝冠を頂き、また瓔珞(ようらく)、耳璫(じとう)、腕釧(わんせん)、臂釧(ひせん)、足釧(そくせん)などの装飾品をしている。地蔵菩薩だけは頭を丸めて宝冠もつけず、僧の姿で表される。如来のような印は結ばず、それぞれ持物(じもつ)を持っている。弥勒菩薩を除き、多くが立像として表される。明王(みょうおう)は、密教信仰特有の仏像である。未だ教えに従わない救い難い衆生を力尽くでも帰依させるために、明王が大日如来の命を受けたとも、如来が自ら明王に変化したとも伝えられている。恐ろしい外貌と激しい憤怒の相が特徴だが、孔雀明王は唯一、慈悲を表した菩薩の顔をしている。天部は、古代インドの宗教の神々が仏教に取り入れられ、仏法を守護する護法善神となった者の総称である。官服を着た貴人姿、鎧を纏った武将姿、鬼の姿など多様な姿をしている。仏像はその体勢によって、立像、座像、倚像、半跏像、涅槃像などの種類に分けられる。仏像の立高、肩幅など各部の寸法を総称して「法量」と呼ぶ。

出典:wikipedia

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