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浅間山

浅間山(あさまやま)は、長野県北佐久郡軽井沢町及び御代田町と群馬県吾妻郡嬬恋村との境にある安山岩質の標高2,568mの成層火山。山体は円錐形でカルデラも形成されており、活発な活火山として知られる。数十万年前から周辺では火山活動が活発であり、浅間山は烏帽子岳などの3つの火山体と併せ、浅間連峰もしくは浅間烏帽子火山群と総称される。これまでに噴火と山体崩壊を繰り返し、現在の姿となった。大規模な山体崩壊と崩壊土砂が流出した痕跡は、遠く離れた群馬県前橋市の台地上などに厚い堆積物として残っている。現在噴火活動をしているのは、前掛火山である。山頂火口からは噴煙があがり、その周りには複合のカルデラがあり、内側の外輪山の西側に前掛山がある。北側のカルデラは山頂部から「鬼押出岩」へと流れ出た溶岩流により崩壊している。外側の外輪山には、黒斑山、牙山、剣ヶ峰などがある。気象庁は「100年活動度または1万年活動度が特に高い活火山」として、ランクAの活火山に指定。。火山活動レベルに応じた、入山規制が行われている。2015年6月11日15時30分、噴火警戒レベルが1(活火山であることに留意)から2(火口周辺規制)に引き上げられた。1949年(昭和24年)9月7日に山域は、上信越高原国立公園に指定された。2007年、日本の地質百選に選定された。日本百名山及び花の百名山に選定されている。噴火口の位置と溶岩の性質から、3つに分類されている。約1万5千年前に北関東ローム層の板鼻黄色軽石層 (YP)や、小諸第一火砕流、浅間草津テフラなどを噴出する大規模な噴火(合計噴出量4.38 DRE km)が発生した。万座鹿沢口周辺に見られるベージュ色の崖はこのときの噴出物である。この噴火によってカルデラが形成されたと考えられている。過去の噴火事例から避難経路などを取りまとめたハザードマップの作成が行われている。また、長野県小諸市の千曲川河畔まで溶岩流が流れた痕跡や群馬県側の吾妻川では、山体崩壊に伴い大規模な土石流が流下し、前橋市付近までの広い地域に土砂が堆積した形跡があり、山体付近だけの問題ではない。火山噴火予知連絡会によって火山防災のために監視・観測体制の充実等の必要がある火山に選定されている。また、東京大学地震研究所等により365日24時間の観測が行われている。浅間山の南麓、長野県側には軽井沢町が、北麓の群馬県側には吾妻郡嬬恋村と長野原町北軽井沢があり、風光明媚な避暑地として古くから開発が進んでいる。以下の源流となる河川は、それぞれ日本海と太平洋へ流れる。浅間山はシラビソやオオシラビソを中心とした亜高山帯の自然植生を残し、その周辺にカラマツの天然林が広がり、野生の動物が多数生息している。その中でも、イヌワシやツキノワグマなどの生息地として重要であることから国指定浅間鳥獣保護区(大規模生息地)に指定されている(面積32,218ha、うち特別保護地区947ha)。「あさま」は火山を示す古語とされる。富士山の神を祀る神社が浅間神社(せんげんじんじゃ)と呼ばれるのも同様の理由であり、阿蘇山の「あそ」も同系のことばであると言われる。浅間山も多くの山々と同じく、古くから信仰の対象となっており、浅間神社(通常の浅間神社とは祭神が異なる)が鎮座している。長野県軽井沢町の浅間神社は浅間山を奉斎していると言う。同町の遠近宮は浅間山を神体山とし、拝殿だけがあり、正面に見える浅間山の遥拝所であった。また役小角が持統天皇9年(695年)に浅間登山したとも言われるので、修験道の山でもある。近くの御代田町の真楽寺は山号を「浅間山」と言い、浅間信仰が仏教にあらわれたものだと思われる。群馬県嬬恋村には浅間山延命寺があり浅間明神の別当であった。また民間信仰では浅間山を「天狗山」とか「鬼が住む山」と言う。♪浅間山から鬼が尻出して鎌でかっ切るような屁をたれた♪という民謡もある。かつて、山麓のひとびとは、旧暦4月8日、潔斎して、それぞれタケ筒に水をいれ、わらじを水にひたして火気をふせぐ用意をして、登山した。その一日は火気ゆるしといわれた。山頂の穴におりたち、登山者のなげいれた賽銭を取り出すが、紙につつんでなげいれられたものも紙がこげないまま取り出される不思議があったと、「年中行事大成」にある。浅間山には天狗がいて、篳篥を吹いたり、雨を降らせたりする。人間が、嘘を言ったり、悪い事をすれば、道に迷わせたり、谷底に落とされたりして、首をねじられてしまう。むかし、大山祇神が、自分の娘である磐長姫と木花咲耶姫を住まわせるため、土を盛って富士山と浅間山を一夜にして造った。土を掘った場所に琵琶湖と諏訪湖できた。そして、富士山に磐長姫が暮らし、浅間山には木花咲耶姫が住むようになったという。武烈天皇に対し、火の神が怒り、浅間山から火の雨を降らせた。住民は穴を掘り避難した。今も佐久市桑山にその穴があり「火の雨塚」と呼ぶ。小諸市耳取にも同類の民話があり、「塚穴」というものが残っている。御代田町小沼の上に駒止石(こまどめいし)という高さ五尺の巨石があり、以前は鳥居もあった。この石から先は、馬や悪人が登山すれば、天狗が出てきて突き落とされたり、首を切られたりするという。浅間山の南麓に弥陀ケ城(みだがじょう)という岩があり、別名を「仏岩」、「屏風岩」という。昔この岩に「二十五菩薩」の「生き面」が出現した。真楽寺の孝昭上人が読経し、この面を岩から切りとったが、岩が出血し、今も岩肌が赤い。その面は雨乞いに使うという。面の一つは真楽寺の寺宝になり、残りの面は小諸の十念寺の宝物になっている。浅間山の南斜面には春になると雪形が出現する。鯉の模様が出る頃に苗代の準備を行う風習がある。源頼朝が浅間山で狩をした。その時、真楽寺へ参詣しようと思い、下馬して石に鞍をかけたという。その石を「鞍掛石」と呼び、周辺地域を「とつなぎ」という。また、頼朝が持っていた梅の木の鞭を真楽寺の地面に刺したところ根が出た。その梅の木を「さかさ梅」といい花が下を向いて咲く。なお、狩中に頼朝の愛犬が死に、小諸の滝原に埋葬した「犬墓」が今も残っており、付近を「御犬久保」(おいぬくぼ)という。また、頼朝はその近くに「武運むなしくばこの鞭枯るべし」と藤の鞭を逆に刺したところ、芽が出て毎年白い花を咲かせる。一方、藤の近くに頼朝は薬師寺を建立したが明治時代に廃寺となった。また、狩の最中に頼朝の愛馬が逃走したが、萱が茂っており馬は進めず、捕えられた。その場所を「馬取萱」(まとりがや)という。その馬が逃げぬように杭を打った場所を「馬の杭」または「馬杭」(まぐい)または「馬越」(まごえ)と呼ぶ。ところで、頼朝が陣を置いた場所を「城の越」(じょうのこし)という。付近には「梶原城」という場所があるが、家来の「梶原源太」の陣があったという。武蔵坊弁慶は、浅間山と平尾山に足をかけて、矢を放ったという。平尾山にはその時の足の跡が残っている。昔、猟師が射殺した熊が血を吐き、池となったという「血の池」や、「血の滝(赤滝)」、「血の池弁財天」、濁川 (長野県)などがある。浅間山の別当は長野県側が真言宗真楽寺で、群馬県側が天台宗延命院である。かつては北麓に熊野修験下屋五学坊もあった。また、山の本地仏は虚空蔵菩薩。浅間山の火口付近は、火山噴火に伴い、1972年(昭和47年)より立ち入りが禁止されてきた。その後沈静期には規制が解除されたこともあるが、その火山活動に応じて地元自治体より火口からの一定の直線距離以内が立入禁止区域として登山規制になることがある。※以前は嬬恋村から黒斑山を経由する登山道もあったが、雨で登山道が崩壊してしまい、現在は不通となっている。本来は火口から4kmの範囲が立入禁止とされているが、登山ルートは例外で火口から500mまでの登山が認められている。

出典:wikipedia

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