因幡の白兎(いなばのしろうさぎ)とは、日本神話(古事記)に出てくるウサギ、または、このウサギの出てくる物語の名。『古事記』では「稻羽之素菟」(稲羽の素兎)と表記。この説話は、「大国主の国づくり」の前に、なぜ他の兄弟神をさしおいて大国主が国をもったかを説明する一連の話の一部である。この説話は、『先代旧事本紀』にあって『日本書紀』にはない。『日本書紀』では、本文でない一書にある「ヤマタノオロチ退治」の直後に「大国主の国づくり」の話が続く。また、『因幡国風土記』は現存せず、『出雲国風土記』に記載はない。『古事記』上巻(神代)にある大穴牟遲神(大国主神)の求婚譚の前半に「稻羽之素菟」が登場し、大穴牟遲神に「あなたの求婚は成功するでしょう」と宣託言霊のような予祝を授ける(説話の後半は大国主の神話#八十神の迫害を参照)。今日では、「稻羽之素菟(いなばのしろうさぎ)が淤岐島(おきのしま)から稻羽(いなば)に渡ろうとして、和邇(ワニ)を並べてその背を渡ったが、和邇に毛皮を剥ぎ取られて泣いていたところを大穴牟遲神(大国主神)に助けられる」という部分だけが広く知られている。『古事記』中の大國主神の文のうち稻羽之素菟(稲羽の素兎)に関する内容の現代語訳と原文を示す。「因幡の白兎」とあるが、「稲羽」が因幡(現在の鳥取県東部)だという記載はない。「イナバ」は稲葉、稲場であり、イネの置き場を指し、各地の地名にもみえる。また、「往ぬ」「去ぬ」という動詞からきているとして和歌などにも「去ろう」「帰ろう」との意味で詠まれてきた。これを因幡とするのは、大国主の話の前後に彼の義父・素戔嗚命の話があり、素戔嗚は出雲に住んだので、物語の展開上、その隣の因幡を指すとされてきた。「淤岐嶋」には、現在の島根県隠岐郡隠岐島とする説や、ほかの島(沖之島等)とする説がある。他に、『古事記』の他の部分では隠岐島を「隠伎の島」と書くのに、「稻羽之素菟」では「淤岐嶋」と書き、「淤岐」の文字は「淤岐都登理(おきつどり)」など、陸地から離れた海である「沖」を指すことが多いため、「淤岐嶋」は特定の場所ではなく、ただ「沖にある島」を指すとする説もある。「気多の前」には、「淤岐嶋」を島根県隠岐郡とすれば鳥取県鳥取市(旧鳥取県気高郡、それ以前は旧高草郡)の「気多の岬」とする説や、鳥取県鳥取市(旧鳥取県気高郡、それ以前は旧気多郡)の「長尾鼻」とする説などがある。なお、『因幡国風土記(逸文)』には話の舞台が因幡の高草郡と記されている。「淤岐嶋」を島根県隠岐郡としたとき、鳥取市(旧高草郡)の白兎海岸の沖合150メートルにある島まで点々とある岩礁を「わに」とする説もある。その周辺には「気多の岬」、菟が身を乾かした「身干山」、兎が体を洗った「水門」、かつて海になっていて戦前まで蒲が密生したという「不増不滅之池」、「白兎神社」などがある。白兎神社に関しては、江戸時代初期の鳥取藩侍医小泉友賢の『因幡民談記』では、『塵添壒嚢鈔(じんてんあいのうしょう)』に「老兔」の記載があるため、大兔(おおうさぎ)明神は老兔(ろううさぎ)明神であると考察し、菟は◇(にんべんに竹の右側を書く)草の林の「老兔」であり、洪水によって林から流され、◇の根に乗って沖の島に着いた。帰るために「鰐という魚」をたばかって、己とおまえとどちらが家族が多いか数えようと言って鰐を集めてその背を渡ったという。平安時代の『延喜式』神名帳の因幡国には白兎神社の記載がないが、それだけで平安時代に存在しなかったとはいえない。また、八上比売を祀る神社に現在の鳥取県八上郡の売沼神社をあてる説があり、『延喜式』の八上郡に売沼神社の記載がある。八頭町には、3つの白兎神社がある。『郡家町誌』に掲載されている。八頭町福本にある白兎神社は、840年前後に仁明天皇より、位をいただいた。「大兎大明神」を祀っていた大正時代の合祀以前には江戸期築造の社殿があって、蟇股には「波に兎」と菊の御紋の彫刻が施されている。この福本の白兎神社神社合祀により廃社となり、社殿は八頭町下門尾「青龍寺」に移され、本堂の厨子として再利用されている。八頭町池田には現在池田神社(「白兎神社」)と呼ばれる神社があるが、祭神は弁財天、兎神、稲荷神で二つの祠が鎮座する。八頭町土師百井(はじももい)には、もと白兎神社があり、大正時代に池田の白兎神社と併せて、ご神体は八頭町宮谷の「賀茂神社」に合祀された。いずれも廃社ではあるものの、地元の人たちによって今もなお崇敬されている。八頭町には白兎神社関係の灯篭が下門尾と宮谷賀茂神社に残る。山間の鳥取県八頭郡八頭町、かつての八上郡(やかみのこおり)を舞台とする白兎の話が、石破洋教授の著作『イナバノシロウサギの総合研究』(マキノ書店刊行)をきっかけに広く知られるようになった。そこに紹介された、八頭町門尾(かどお)の青龍寺に伝えられていた城光寺縁起、土師百井の慈住寺記録によると、天照大神が八上行幸の際、行宮にふさわしい地を探したところ、一匹の白兎が現れた。白兎は天照大神の御装束を銜(くわ)えて、霊石山頂付近の平地、現在の伊勢ヶ平(いせがなる)まで案内し、そこで姿を消した。白兎は月読(つきよみの)尊(みこと)のご神体で、その後これを道祖白兎大明神と呼び、中山の尾続きの四ケ村の氏神として崇めたという。天照大神は行宮地の近くの御冠石(みこいわ)で国見をされ、そこに冠を置かれた。その後、天照大神が氷ノ山(現赤倉山)の氷ノ越えを通って因幡を去られるとき、樹氷の美しさに感動されてその山を日枝の山(ひえのやま)と命名された。氷ノ山麓の若桜町舂米(つくよね)集落には、その際、天照大神が詠まれた御製が伝わるという。氷ノ越えの峠には、かつて、因幡堂があり、白兎をまつったというが、現存しない。『須賀山雑記(1973年)』(山根達治著 今井書店刊)に掲載されている。「波に兎」は江戸中期に庶民も広く愛好したことが知られる瑞祥文様である。謡曲「竹生島」の歌詞にも月の兎は水に映った月の中で波の上を跳ねるとある。東北関東九州近畿、各地の寺社の彫刻に「波に兎」の意匠が見られるが、因幡地方には特に集中している。なお、兎が登場する民話は多く、京都府宇治市の宇治神社の縁起には、貴人がウサギに導かれる話が伝わる。この兎は、「白兎神社」や「白兎神」「白兎明神」などに見られるように、「白兎」として伝わる。『古事記』の表記は「菟」、「裸の菟」、「稲羽の素菟」、「菟神」である。本居宣長は、「素」には何もまとわず何にも染まっていないの意があると述べる。『古事記』には兎の毛色の言及はなく、宣長のように「素布 ( そふ )」= 白い布から、「素」に白の意があると考えれば「白兎」ともいえる。なお、日本に広く分布するニホンノウサギは夏期は体毛の色が焦げ茶からベージュに、冬季積雪地域では白へと変化する。また隠岐島には冬になっても白くならない亜種オキノウサギが生息する。この説話で「蒲黃」が薬草として登場するため、日本における薬の最初の史籍だとする見方もある。なお、外傷や火傷に外用薬として用いる漢方薬に、「ホオウ(蒲黄)」というヒメガマ(ガマ科)の成熟花粉を乾燥させて粉末状にしたものが存在する。大国主神は、この説話および『日本書紀』の少彦名命(すくなひこな)と共に病気の治療法を定めたとされるため、医療の神ともされ、さまざまな薬草を使用している。説話に登場する「高草、老いた菟、オキノシマ、ワニ、剝ぐ、蒲、素菟」といった単語の数々は、日本語で見る限り何も共通性はないが、アイヌ語からの翻訳と解釈すると以下の通りの一貫性が出現する。以上のように、日本語で唐突だった「高草、蒲、ワニ、菟、老菟、オキノシマ、剝ぐ、素菟」といった単語の数々はアイヌ語を援用することで一貫した必然性が見出せる。たとえば因幡の高草郡を舞台とする場合、高草を「蒲 (本当の/大きい・草)」からの意訳と考え、「アイヌ語では「蒲郡の蒲の花粉で手当てした」という具合に話が展開していく様が見えてくる」と分析し、大山元は「因幡の白菟の話はアイヌ語を介すると日本語では見えなかった原文の味わいが復元できる」と指摘する。
出典:wikipedia
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