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グレン・ミケンズ

グレン・ミケンズ(Glenn Roger Mickens , 1930年7月26日 - )は、アメリカ合衆国カリフォルニア州出身の元プロ野球選手。右投右打で、ポジションは投手。1950年にブルックリン・ドジャースと契約。メジャーでは1953年に4試合登板しただけで、ほとんどマイナーリーグでプレー。メジャー通算0勝1敗、防御率11.37。 1959年に来日し近鉄バファローへ入団。スリークォーターから繰り出される多彩な変化球で打者を抑え、1年目には11勝する。2年目の1960年にはチームだけで31勝しかしていない中で、ミケンズは13勝をマークした。また同年のオールスター第3戦では初先発初勝利を記録。翌1961年にも出場した。1963年8月21日、日生球場で行われた南海ホークス戦でプロ野球初の1球勝利投手となったことで知られる。3対3の同点で迎えた9回表、南海は1死1塁の場面で打者は3番バディ・ピート。ここで近鉄・別当薫監督はミケンズをリリーフ登板させた。ピートは初球のシュートに手を出しショートゴロ併殺打でスリーアウト。その裏、近鉄は1死満塁のサヨナラのチャンスで代打・島田光二。打球は平凡な二塁へのゴロだったが、前進守備の二塁手・森下整鎮がエラーし近鉄のサヨナラ勝ちとなった。来日後、当時大阪上本町近鉄デパート近くの桂壮という、今のアパートを豪華にしたような所を宿舎にしていた。近くに野球が出来る公園があり夏には短パン、ランニング姿で現れ一人で硬球を大きく頭上に打上、素早く地面に置いたグローブを拾い自分で受けるという事をよくしていた。そして同公園で野球をしている子供たちと一緒になって野球をしたりする優しい面もあった。サインなど紙切れなどにも、嫌な顔をせずに応じていた。ただ硬球を小学生が持っているバットで打つものだからよく折っていた。夫人とベビーカーを押し公園回りを散歩するなど家庭人らしい一面もあった。1963年に退団。帰国後は母校のカリフォルニア大学ロサンゼルス校でコーチを務めた。1960年(昭和35年)5月24日、駒澤野球場での対東映フライヤーズ戦。6-0と近鉄リードで迎えた9回裏の東映の攻撃で、近鉄先発のミケンズは1アウトから毒島章一を四球で出塁させる。続く吉田勝豊は一塁ゴロに打ち取ったものの、これを一塁手が悪送球したために一・三塁となる。張本勲の二塁ゴロで吉田を二塁で封殺する間に毒島が生還。完封を逃したミケンズは山本八郎に2ラン本塁打を打たれてしまった。試合はこのまま近鉄が6-3で逃げ切り、ミケンズには自責点2が記録された。この試合で自らに自責点が記録されたことに対して納得のいかないミケンズは翌日の同カードの試合前、ネット裏記録席にパ・リーグ記録部長の山内以九士を訪ね、「吉田の一塁ゴロが失策でなければこれで2アウト、張本の二塁ゴロで3アウトとなるから、以降の失点は投手の責任ではない。したがって私の自責点は0だ」と抗議したが、山内は「記録は規則どおりで、君の主張は自己流に解釈したものだ」とミケンズの主張を却下した。当時の野球規則10.18(a)には「自責点は安打、犠打、犠飛、盗塁、刺殺、野選、四死球、ボーク、暴投によりプレーヤーが本塁に達するたびごとに記録される。ただし守備側と攻撃側と入れ替わる機会を逸したあとはこの限りではない」と明記されており、後半(太字)部分は「2死後、第3アウトとなるはずの走者が失策で生きた場合(例えば三振-三振-遊ゴロ失)、以降の失点は自責点とならない」と解釈されていた。この解釈だと「山本が失策で出塁した場合に、失点がミケンズの責任ではなくなる」となるのだが、山内が原文やメジャーリーグの実例を調査していくうちに実はこの解釈が誤りで、「アウトカウントにかかわらず、失策がなければ当然アウトとなるはずの走者が生きた場合(例えば三振-遊ゴロ失-三振と順序が変わっても)はそれぞれ1アウトと仮定して計算、仮定の3アウト目以降の失点は自責点とならない」とするのが正しいことが分かった。これだとミケンズの主張どおり、自責点は0となる。当時ミケンズは球団側と防御率による出来高契約を結んでいたため、このような規則には相当詳しかったといわれる。この解釈の変更は翌1961年(昭和36年)から行われた。

出典:wikipedia

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