松平 信定(まつだいら のぶさだ)は、戦国時代の武将。松平長親の子。十八松平の1つ桜井松平家の初代。松平宗家の家督を巡り、兄の松平信忠との対立に始まり、清康・広忠と宗家3代にわたり反意を示したが敗れた。15世紀の末頃、宗家安城松平家の松平長親の三男として生まれた。長兄の信忠は松平宗家の跡目でありながら一族・家臣からの人望に乏しく、大将としての器量もなかったゆえに松平党は統率を欠いた。このため三男であった信定の家督継承を望む声があり、また父・長親からの期待も受けたともいわれる。しかし叔父・松平親房(松平親忠の四男、入道宗安)の養子に出されたため、宗家跡目の候補から外され、叔父の所領・三河国碧海郡桜井(安城市桜井)に桜井城を築き、居城とした。やがて、長兄の信忠は宗家の家督を継ぐも、その暗愚を咎められ一門・家臣等によって短期で隠退させられ、その子の松平清康が継いだ。大永3年(1523年)、代わって松平宗家の家督を継いだ甥・松平清康に仕えることになった。しかし信定は宗家に対して従順といえる姿勢ではなかった。大永6年(1526年)には氏族が敵対していた尾張国の守山城主となった織田氏と縁を結んだ(織田信秀妹を室に迎えたとされ、のち信定の娘を織田信光に嫁がせたともいう)。清康の指揮のもと、享禄2年(1529年)、信秀家臣酒井秀忠居城の尾州・品野城を落として居城としたが、この頃から信定は清康に対して不穏な動きを示すようになった。清康は外征の矛先を今川氏輝麾下にあった東三河に転じ、享禄3年(1530年)の八名郡熊谷実長の居城宇利城攻撃に参陣する。『三河物語』によれば、宇利城大手口の寄せ手として、次兄の福釜松平家親盛とともに戦うが、劣勢となった親盛に尾張守山へ出陣した際は病と称して命令助勢を送らなかったため、結果として親盛の父子を死なせた。これが本陣で目撃していた清康の逆鱗に触れ、合戦後に衆目の前で面責を受けたという(一説にこれを深く恨んだともいう)。また、同年に牧野信成の吉田城を攻めた際、城の西岸・宝飯郡下地において城方と会戦した(下地合戦)際、緒戦の戦況の不利に興奮し敵中への突撃を試みる清康に対して、「大将に討ち死にをさせよ」と発言し敢えて制止しなかったともいう。ところが、天文4年(1535年)、遠征先の尾張国守山において清康が陣中にて急死する(森山崩れ)。この遠征に加わらなかった信定は(織田氏に通じていたとの見方もある)、松平宗家の混乱に乗じて、松平家総領の座を巡って清康の遺児の竹千代(松平広忠)と対立。信定は竹千代の居城で清康の居城であった岡崎城を占領した。竹千代は家臣らに守られ伊勢に逃れた。しかし、広忠の近臣・阿部定吉の働きなどにより、東条吉良氏の吉良持広の申し入れで駿河国の戦国大名今川氏の今川義元らの支持を相次いで取り付けた広忠ら主従は駿河にて今川義元と会談、翌年には今川軍の後援を得て幡豆郡の室城へ入城した。これに対し信定は、岡崎を奪回されるのを恐れてこれを攻めるも失敗。大久保忠俊ら三河に残る広忠派の譜代家臣が広忠の岡崎復帰を支援した。翌天文6年(1537年)6月、信定の岡崎城留守居であった松平信孝(三木松平家。信定の甥、清康の弟)が広忠派に転身し、広忠を岡崎城に迎え入れた。情勢の不利を悟った信定は広忠に帰順した。松平家の総領争いは鎮静化するも、信定は広忠に対して恭順とは程遠い態度をとり続けた。このため、広忠派であった弟松平義春とすらも対立していたが、天文7年11月27日(1538年12月18日)に死去。法号は一心道見。信定の子・松平清定(内膳正・与一)や孫・松平家次(監物丞)も宗家に反意を示していたが、永禄7年(1564年)春、三河一向一揆の終息とともに宗家に完全に帰服した。
出典:wikipedia
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