徳川家康の馬印(とくがわいえやすのうまじるし)は、徳川家康が、主に戦場や行軍で自分の位置を示したり、味方の士気を鼓舞するため、軍旗のほかに用いた、木や竹などの柄を付けた装飾物のこと。家康は金扇(きんおうぎ、きんせん)の馬印を好んで用いた。家康は金扇の大馬印を用いたことで知られるが、初期には「厭離穢土欣求浄土」の纏(大将の旗)のみを用いたが、やがて金扇を馬印として併用するようになった。しかし、その由来や使用開始時期には諸説がある(次項参照)。また小馬印の銀の繰り半月もこれに加えて使用された。これらの馬印は徳川将軍家の歴代にも受け継がれ所持された。寛永頃刊の御馬印;色刷本(吉田光由の撰)、巻一;権現様(徳川家康)、台徳院様(徳川秀忠)、御三家以下。巻四;織田信長、豊臣秀吉。寛永年間(1624年~1644年)関ヶ原の戦い、大坂の役、島原の乱に用いられた諸大名の馬印を収録。『拾遺柳営秘鑑』、公方様御籏御馬印の記述:※『徳川実紀』に、小牧・長久手の戦いに本陣の象徴として登場。家康が出陣した戦いを描いた合戦図屏風には必ず描かれているという。幕末の鳥羽・伏見の戦いの時、徳川慶喜は大坂城から逃亡する際にこの馬印を城内に置き忘れ、侠客新門辰五郎(娘が慶喜の愛妾だった)がこれを拾って江戸まで送り届けた。幕府の古記録である『柳営秘鑑』では、三河安祥之七御普代の本多忠高(本多忠勝の父)に由来するという。藩老本多蔵品館(加賀前田家老の本多政重;本多正信の子に由来)には、扇の馬験が所蔵されており、『柳営秘鑑』の本多家由来と符合する。柳営秘鑑では、扇の御馬印となっており、徳川実紀にある金扇とは異なり、当初は、金箔ではなかったのかもしれない。『柳営秘鑑』巻ノ三:『常山紀談』にある天文十四年第三次安城合戦以来説(松平広忠、本多忠豊・忠高・忠勝):永禄六年牧野氏由来説の紹介後、それを否定する説の紹介。※『常山紀談』と同様に、『岡崎市史』では、牧野家由来説を否定疑問視。『柳営秘鑑』の記述とも符号。牧野家由来の下地村聖眼寺での逸話を一通り紹介後に、かかる事には種種の付会説が伝わるものと前置きし、金扇の馬験は、松平広忠の時代から使用していたという。あるいは、もと本多平八郎忠高の指し物で、後これを献じたものという。広忠の安城清縄手合戦の時に、本多平八郎忠豊が、広忠の扇の馬験を請受けて、身代わりに討死したとある。また、本多家覚書および成島の『改正三河後風土記』には、宇理城攻めの時、敵兵が、松平清康の扇の指し物を目指して、き下にせまる。忠豊、清康の馬前に奮戦し、敵を退ける。その功を賞せられて、扇の指し物を賜るとある。これより、本多家に伝わったものという。東三河の郷土史料の『牛窪記』に初出の説。徳川家康が今川軍の拠点の吉田城(愛知県豊橋市)を攻略した際に、後に譜代に列する東三河の牧野家の金扇の馬印を譲り受けたとするもの。後の牛窪密談記など、他の史料においても記述内容は微妙に異なるが、吉田城攻略の際にという日時場所は一致している。『常山紀談』にある永禄六年牧野氏由来説『牛窪記』にある説、「牧野家参神君大原退駿河事」『牛窪密談記』の説。『三河国宝飯郡誌』の説。下地村聖眼寺(豊橋市下地町)に伝わる。『三河物語』にある関連記述これは、永禄六年(1563)の三河一向一揆の際に、徳川家康に反旗を翻した石川党(石川氏)の石河新九郎(親綱)が、金の団扇(うちわ)の指物(さしもの)をしていたという記述である。三河物語は、史料価値が高いと言われるだけに、徳川譜代の石川氏から由来している可能性もある。もっとも石川新九郎は一揆終息後も家康に許されてはおらず、団扇も「うちわ・軍配」の形とも受け取れ、金扇との関連は不確かである。
出典:wikipedia
LINEスタンプ制作に興味がある場合は、
下記よりスタンプファクトリーのホームページをご覧ください。