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歩崎観音

歩崎観音(あゆみざきかんのん)は、茨城県かすみがうら市坂にある寺院。山号は歩崎山。正式には宝性院歩崎山長禅寺という。天平年間、聖武天皇の代に、行基菩薩が南都奈良において彫刻した十一面観音を旅の僧に与え、この僧侶が当地に至り、山上に一堂宇を建立して安置したといわれる。なお、この観音像は、一説に一本の大木で三体の観音像を刻んだが、根本の材料で作られたものは下津村加茂の南円寺に、中ほどの材料で作られたものが歩崎に、先の方で刻まれたものは崎浜の寺に納められ、いずれも茨城の三観音として国宝級のものであるといわれる。日光東照宮の豪華な建築が完成するまでには実に30有余年の歳月を要したが、日本全国から集まった名匠たちは、この期間に故郷へ帰ることもできずに仕事をしていたので、工事が終ってからも故郷に帰られないくなった人が多数いたらしく、その人々が関東や東北一円を、仕事と安住の地を求めて歩いた、そのひとりがたまたま当地へ辿り着き、一対の仁王像を彫刻して納めたと伝えられる。昭和26年、真如苑が当寺の管理を引き継いで大修復を行った際に、この仁王像の眼の奥から一通の文書を発見した。それによると、天文三年癸牛(1534年)、作者下総国香郡佐原仏師吉兵衛重時、建立願主歩崎山主(中興の祖)厭蓮社浄誉集礼和尚と書かれていた。天治年中(1124年~1126年)、商船が悪風に遇い難破しそうになった所、船頭が「南無観世音菩薩」と唱えると、たちまち一菩薩が山上から降りてきて水の上を歩いてこられて、船を山裾の湖岸へ曳いていかれたので命拾いをした。そこからここが「歩崎」と呼ばれるようになったという。その数十年後の寿永年間、竜女(乙姫さま)が難産にかかり、「もし観音様がこの難産を救わせ給わば、我れ金機(黄金で造った機織機)を奉納せん」と祈願した。それによって竜女は願い通り安産となったので、金機を奉納した。これは現在寺の宝物として伝えられているが、歩崎観音は33年に一度しか開帳されないので、この金機も同じく33年に一度しか拝見できない。海量法師が住職を務め、大変な行神力をもって加持祈祷を修し、地元民の尊崇を集めていた。しかし法師は晩年、不慮の死(一説に霞ヶ浦に入水自殺したといわれる)により、無住の廃寺となった。長禅寺は歴史は古く地元の人々が参詣する寺ではあったが、檀徒がおらず、時代の変遷とともに管理維持が困難になった。特に戦後は荒廃にまかせるままになっていた。昭和23年、これを見かねた村の人々の相談から当時の村長が真如苑(当時はまだ、まこと教団と称していた)に相談を持ちかけて、真如苑で管理することになった。奇しくもこの年は歩崎観音のご開帳の年にあたり、村長の要請からすぐに話が進み、真如苑の包括寺院として登記が済ませられ、その月に大祭を行った。ちなみに、真如苑の伊藤友司は同年の正月早々の読経中に、頭にたくさん顔のついた観音さまを透視したという。昭和26年には、荒廃していた庫裏を取り壊し、対岸にあり同じく廃寺となっていた長泉寺の建物を買収して建て直し、真如苑の接心道場とし翌年に完成した。なおこの年は真如苑では、いわゆる「昭和26年の法難」によって教団の財政事情は逼迫していたが、当時の村長や村民が理解を示して浄財を寄付、また協力によって落慶した。昭和27年では公魚や白魚を釣る漁民や村民などの多くの水難の犠牲者を供養廻向してほしいという地元民からの要請により、霞ヶ浦湖畔にて怨親平等水施餓鬼廻向を行った。昭和33年8月には真如苑の開祖である伊藤真乗が謹刻した2つ目の久遠常住釈迦牟尼如来(涅槃像)を安置した。現在、この建物は真如苑の茨城本部になっている。また真如苑では荒廃していた本堂や仁王門、また金毘羅神社を大修復した。なお、昭和56年は33年に一度のご開帳の年目にあたるが、この年に伊藤真乗が仏意を感得したことから、また地元民の再度の要請に応じて歩崎観音を返納している。

出典:wikipedia

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