天むす(てんむす)とは、海老の天ぷらを具にしたおにぎりで、名古屋・中京圏全体の名物(名古屋めし)として知られる。発祥店は三重県津市の「千寿」である。現在は主に尾を取ったアカシャエビ(サルエビ)の天ぷらが使用されているが、ごく初期の段階ではエビの種類もアカシャエビではなく、尾も付けたまま揚げたものが使用されていた。具はエビのみの場合が多いが、一部の店では、エビと小さめの野菜でかき揚げにして入れている。津市の「千寿」の天むすは具の天ぷらがおにぎりの中に入っていて外から見えないタイプであるが、全国的にはおにぎりの上部に具の天ぷらが見えているタイプのものが多い。1950年代に、三重県津市大門にある天ぷら定食店「千寿」の賄い料理として考案されたのが始まりである。昭和30年代の初め、初代水谷ヨネが忙しくて夫の昼食を作る暇がない折に、車えびの天ぷらを切っておむすびの中に入れたのが発想のきっかけで、その後味付などを試行錯誤し、常連客向けの裏メニューとして振舞うようになったとされる。好評を得た天むすはその後「千寿」の正式なメニューとなる。1980年(昭和55年)、名古屋市中区の藤森時計店が不景気のあおりを受け廃業する。借金は在庫の処分で完済し主人は別の職に就いたものの、今後の生活について考えていた妻の藤森晶子は、娘が幼い頃、海水浴に連れて行った津で偶然食べた「千寿」の天むすを思い出し、これを商売に出来ないものかと思い立つ。藤森は早速「千寿」を訪れ水谷夫妻に天むすの作り方を伝授してもらえないかと願い出るが、あえなく断られてしまう。だが藤森はあきらめず、「千寿」の店舗だけではなく水谷夫妻の自宅にまで通うなどし、一ヶ月に亘る交渉を続けた結果、根負けした水谷夫妻から、天むすを世間に広めないことを条件に、作り方の伝授と暖簾分けの承諾を得る。こうして誕生したのが名古屋の「千寿」である。開店の際には津から水谷夫妻も駆けつけ 、順調な滑り出しを見せたかのように見えた名古屋の「千寿」だが、店舗は前述の廃業した時計店を改装しただけの小さなもので、天むす自体の知名度が全くないことに加え、水谷夫妻との約束から宣伝もせず天むすのみの製造販売だったことから、当初は全く客足が伸びず営業的に苦戦した。天ぷら店だと思って来店した客が、メニューに天むすしかないことを知るとそのまま帰ってしまうこともしばしばだった。しかし1982年(昭和57年)になり、「土曜9時ハンただ今参上!」(中部日本放送)で紹介されると、それをきっかけに名古屋地区で話題となり、午前中だけで4,000個を売る日も現れるようになる。そんな中、当時名古屋をもう一つの活動拠点としていた笑福亭鶴瓶がその評判を聞きつけ来店。天むすを味わった鶴瓶はその味を気に入り、名古屋から次の現場への移動の際には必ず手みやげとして大量に購入して持ち込むようになる。これがきっかけとなって、天むすは東京のテレビ局関係者の間でも評判となり、マスコミもこぞって話題に取り上げるようになっていく。こうして天むすは、名古屋名物として全国的に知名度を上げていく結果となった 。天むすが全国的に知名度を上げていく中で、天むすを提供する店や業者が爆発的に増えていき、当初藤森が交わした水谷夫妻との約束は半ば反故された形になってしまう。藤森はその後も社名を「藤森時計店」のままにして、全国的な展開の誘いなども断り続けたが、名古屋市周辺では数店舗を展開している。また津の「千寿」も現在では天むす専門店となっており、名古屋の「千寿」同様、全国展開はしていないものの、松阪市内や三重県内の近鉄主要駅構内に加え、名古屋市内にも2店舗を展開している。津の「千寿」も名古屋の「千寿」も、当初は正統な暖簾分けの関係であったため、現在でも「めいふつ天むす 千寿」を名乗り、店舗看板や包装紙に示される店名ロゴも非常に似ているものが使用されているが、前述のような経緯もあり、それぞれの差異を明らかにするため、津の「千寿」のロゴには「元祖」の文字が付されている。また名古屋の「千寿」が茶色の包装紙なのに対して、津の「千寿」は若草色の包装紙を使用している。名古屋の「地雷也」のように、東京や大阪でも販売展開している店があるほか 、コンビニや弁当店などでも販売されていることが多く、現在ではほぼ全国的に味わうことが出来るおにぎりとなっている。また、名古屋名物であることが先に浸透したが、近年、津の発祥であることも広く知られるようになってきている。津市の「千寿」が持つ登録商標は第3199878号、「めいふつ天むす」と登録されている。2010年(平成22年)11月現在、天むす関連の商標は、これ以外にも多数登録されている。
出典:wikipedia
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