遠軽町(えんがるちょう)は、北海道オホーツク総合振興局管内の紋別郡にある町。町名は当地で瞰望岩(がんぼういわ)を指していた見晴らしの良い高台を示すアイヌ語「インカルシ」(inkar-us-i、見る・いつもする・所)に由来する。1901年、郵便路線整備にともなう新郵便局設置のため現地視察した札幌郵便局管理課員が、瞰望岩を示すアイヌ語名称を意義深いとして、新局をこれにちなんだ「遠軽郵便局」と名付けたことが始まりで、のち新設された官公庁や学校などもこれにならい、地名として定着した。オホーツク総合振興局管内中部の内陸に位置する。上川管内上川町との町境にそびえる北大雪山系東麓の湧別川およびその支流域にあたる東西47km、南北46kmが町域で、武利岳(標高1,876m)はオホーツク管内の最高峰である。町内は旧4町村の遠軽、生田原、丸瀬布、白滝の4地域に分かれ、市街地の標高はもっとも低い遠軽(町役場本所)で74m、もっとも高い白滝(白滝総合支所)で357mである。農業に適した地で、かつては道央圏とオホーツク海側を結ぶ交通の要衝として栄えた。旧石器時代には国内有数の黒曜石およびそれを原材料にした石器の産地であり(白滝ジオパーク)、大正時代には合気道創始者の植芝盛平が入植し武術の道に入ったゆかりの地としても知られる。2005年の4町村合併によって生田原村分村(1925年)以前の遠軽村村域に復する形となり、オホーツク総合振興局管内では人口で美幌町を超え最大の町である。面積では北海道内市町村のうち、留別村、北見市、足寄町、釧路市につぎ5番目に広く、町の人口としては2013年現在、音更町、七飯町、幕別町、新ひだか町、中標津町につぐ6番目である。旧遠軽町は過疎地域の適用を受けていなかったが、他の3町村がいずれも過疎地域の適用自治体だったことから、新町発足後は基準によりすべての地域で過疎地域の適用を受けている。ケッペンの気候区分では亜寒帯湿潤気候 (Dfb) に属する。夏は晴天の日が多く、内陸部のため日中の最高気温が30℃を超えることもよくみられるが、日平均気温は比較的低く湿度も低い。冬は最低気温が-20℃を下回ることが多いが、降雪量は道央の日本海側より少なく、雪質は軽い。町内の気象庁アメダス観測地点は遠軽、白滝、生田原、丸瀬布の4か所。遠軽では2014年6月3日に最高気温36.9℃に達し、観測史上最高記録を更新した。遠軽町は1896年(明治29年)、プロテスタントの日本基督教会(現・日本キリスト教会)が、札幌で活動していた宣教師の信太壽之ら東北学院(仙台市)の神学部出身者を中心に創設した北海道同志教育会のキリスト教徒によって開拓が始まった道内でも珍しい歴史を持つ。当地にキリスト教主義の私立大学を設立することをめざして1897年、学田地と名付けた湧別村湧別原野第四小作地(のちの遠軽市街地周辺)に最初の集団入植を行い、現在の岩見通南二丁目1番地付近に「学田農場事務所」を設置したが、翌年にかけて冷害や大水害に見舞われ、最終目的の大学建学は果たせなかった。しかし学田農場事務主任でのち遠軽郵便局初代局長を務めた野口芳太郎と入植者らが築いた基盤を元に1902年、日本基督教会遠軽教会が創設された。遠軽教会は1922年には国内純農村の教会としては初の独立自給教会となった。現在も日本キリスト教会遠軽教会(1931年建設、大通南二丁目)として伝道活動を行っている。また学田の入植者らが基礎を築き、1913年に設立された救世軍遠軽小隊は国内最北の小隊である。学田の名は今も地名(遠軽町学田)として残っている。主な産業は商業と農業、林業、木材加工業である。開拓期に学田農場入植者の手で始められたハッカ栽培が戦後にかけて盛んだったほか、1935年には農林省北見種馬所(のち遠軽種畜牧場)が設置された。1950年に設置された北海道農業試験場遠軽試験地(遠軽町福路、1997年廃止)では寒地向けニホンハッカ8品種が開発され、寒冷地のハッカ産業に貢献した。遠軽駅はかつて、旧名寄本線と石北本線の接続駅として栄え、国鉄遠軽機関区などの現業機関が多く設置されていた。1951年には町が旧農林省遠軽種畜牧場跡に警察予備隊駐屯地を誘致し、陸上自衛隊遠軽駐屯地が置かれている。2010年国勢調査における産業分類別就業者数の上位区分(500人以上)は次の通りである。
出典:wikipedia
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