京阪3000系電車(けいはん3000けいでんしゃ)は、1971年から1973年にかけて製造された、かつて京阪電気鉄道が保有していた特急形車両。2008年6月24日をもって最後の1編成が8000系30番台へと改番され、その後も運用が継続したが2013年3月31日で営業運行を終了。同時に1954年の1800系以来59年にわたって続いた京阪電気鉄道のテレビカーの歴史に幕を閉じることとなった。本項では8000系30番台への改番後についての記述の他、一部車両が譲渡された富山地方鉄道10030形電車、および大井川鉄道(現・大井川鐵道)3000系電車(2代)についても記述する。また、解説の便宜上、淀屋橋)側先頭車の車両番号+F(Formation=編成の略)を編成名として記述(例:3011以下3両編成=3011F)する。京阪特急専用車としては5代目となる、オールクロスシートおよび冷房装備の2扉車である。編成中にカラーテレビを設置した車両を連結することから「テレビカー」を名乗る。また、車内には日本の鉄道では初採用となった、空気圧による自動座席転換装置を装備している。1971年時点の京阪本線系統各線は架線電圧が直流600V規格であったが、本系列は近い将来に京阪本線の架線電圧が直流1,500Vへ昇圧されること(1969年に決定)を前提に、当初から電圧切り替え可能な仕様で電装品などが計画・設計されていた。このため1983年12月の路線昇圧に際しても大きな改造はなく、ほとんど仕様変更のないまま42年の長きににわたって京阪電車を代表する車両として親しまれていた。3000型制御電動車18両、3100型中間電動車18両、3500型制御車18両、そして3600型付随車4両の合計58両が川崎重工業兵庫工場で3次に分けて製造された。1971年8月15日のダイヤ改正で、従来は日中20分間隔で運行されていた特急を15分間隔として増発し、さらに既存の1900系特急車を7両編成化するため、不足する特急車の補充として以下の第1次車3両編成4本計12両が製造された。なお、これらは下2桁の番号が同一の車両同士で1編成を組み、昼間は2編成を連結して6両編成で、早朝・深夜は編成を分割して3両編成として運用された。営業運転開始は同年7月1日である。各編成は1900系と編成単位で混結可能とされ、3500型全車に「テレビカー」として初めてカラーテレビが搭載された。また、後に本系列の車内設備で一大特徴となった収納式補助いすは未装備で、窓際の壁には国鉄583系電車に似た肘掛けが設置され、扉付近には手摺り付きの仕切りのみが取り付けられていた。また、1900系との併結を考慮して空気ブレーキに同系列と共通のAR-LD中継弁付自動空気ブレーキが採用され、マスコンが前後に動かすのに対してブレーキ弁操作は従来形の縦軸式であった。本系列と1900系との接客設備の差は冷房機器の有無などからも明らかであり、特に夏は涼しい本系列の運用を待って先行の1900系特急を見送る乗客が急増した。このため、本系列のあまりの好評に驚いた京阪本社は当初の補充のみの車両増備計画を改め、特急車を全て新造の本系列に置き換えるとともに既存の1900系を一般車に格下げ、これらを老朽化が進行していた旧型車の淘汰に充てる方針に転換した。そこで、1972年6月に以下の第2次車4両編成2本(8両)および3両編成2本(6両)の計14両が竣工した。この2次車では昼間の通常運用時の7両編成化を実現すべく3600型が新たに設計製造されるとともに、本系列のみでの特急運用を前提としてブレーキをAR-LD中継弁付自動空気ブレーキからHRD-1D電気指令式ブレーキに変更し、運転台も主幹制御器とブレーキ弁の変更が実施された。これについては1次車も同等の仕様への改造を実施した。また、2次車では1次車にあった窓側の肘掛けが廃止された。1973年6月には第3次車として以下の4両編成2本(8両)と3両編成8本(24両)の計32両が製造された。これにより通常の特急運用に必要な9編成が出揃って1900系の置き換えを完了させ、通常運行時における特急の完全冷房化を実現した。この3次車では、早朝夜間の編成解結の作業簡略化を目的として連結器を電気連結器付密着連結器へ変更し、混雑時および地下線内での使用停止を目的として車掌室から遠隔ロック可能な収納式補助いすが装備された。これらの変更は第1次車および第2次車へも順次適用されている。また、保安強化を目的として主回路に高速度遮断機が付加されているが、これも本グループ竣工後在来車に追設されている。初期は、淀屋橋方より制御電動車である3000型(3001 - 3018)、中間電動車の3100型(3101 - 3118)、そして制御車の3500型(3501 - 3518)の3車種による3両編成を基本とし、4両編成を組む4編成については3100型と3500型の間に付随車である3600型が挿入された。固定編成ではないものの、これらの3両編成ないしは4両編成による基本編成2本を組み合わせることで6両または7両編成を組成した。ただし、早朝・深夜の閑散時間帯については特急の運行サイクルを変えずに輸送需要に適合させるため、編成分割を実施し基本の3両編成あるいは4両編成で運用されていた(七条駅以北の地下化を受けた1987年6月のダイヤ改正で取りやめ)。その後、1989年10月の鴨東線開業に伴う7両編成化に際しては、3600型の追加新造ではなく新特急車である8000系の付随車である8500形8550番台車5両が新製投入されて当時6両編成で運行されていた各編成に組み込まれた。この固定編成化に合わせて、分割運用の廃止で不要となった前面の貫通幌はすべて撤去され、前面の連結器も電気連結器付の密着連結器から日本製鋼所製密着自動連結器に交換され、電気連結器は廃止された。また、編成中間の3500型の一部は車掌台側乗務員室を公衆電話室に改造し、簡易運転台付付随車の3600型3500番台となった。この際、8000系に準じた色調の塗色への変更が同時に行われている。平成に入り、8000系第2編成以降の新造開始とこれに伴う同系列への置き換えによって、本系列は順次廃車が進み、1995年には残すところ3005F+3006Fの7両編成1本と3008Fから抽出された予備車2両のみというところまで追い込まれた。しかし、その後の検査体制の見直しなどの影響で特急運用に余裕を持たせ予備車率を引き上げる必要が生じ、また8000系初期編成の新造時に主電動機などの電装品も追加新造が行われていて検査予備部品にも余裕があったことから、これら7両編成1本および予備車2両は廃車せず、そのまま特急車として継続使用することが決定された。この決定後、車齢20年を経過していたことから1995年12月に車体と主要機器の更新修繕工事が施工された。この際、編成中間の3005と3506を3108および寝屋川工場で2階建て車に改造された3608(改造後は3855)と置き換えて編成中間の運転台を無くした7両1編成に組み替えを実施した。さらに1998年3月には、8000系への2階建て車増結による8両編成化が始まったことを受けて、この編成組み替えで予備車となっていた3506と3005を種車として改造した平床構造の中間車1両を3155と3855の間に挿入して8両編成に再編成され、3855は簡易運転台取り付け改造が実施されて3805に改番され、さらに8000系とテレビカーおよびダブルデッカー車の連結位置を揃えるため、3805と3755の連結位置を入れ替えている。 ←淀屋橋 三条・出町柳→1900系新造車グループに準じた2扉18m級で溶接組立構造の全鋼製車体を備える。窓配置は先頭車がd1(1)D9D(1)2、中間車が2(1)D10D(1)2(d:乗務員室扉、D:客用扉、(1):戸袋窓、数字:側窓数)となっており、先頭車と中間車の扉間窓数が異なっている。このため、一部号車の停車時の扉位置が7両編成と6両編成で微妙に異なっていた。また、各車の車端部にある窓各1枚は幅が他より狭く座席も固定式となっており、切妻構造を採用した車端部の連結面には妻窓が設けられておらず、車内のこの部分には名画の複製が掲げられていた。側窓は冷房搭載を受けて上段上昇・下段固定式の2段式とされ、下段固定により1900系にあった保護棒は省略され、すっきりした印象となった。なお、車体中央部に位置する種別表示幕直下の上段窓については表示幕と干渉するため、固定窓とされている。車体断面は、クロスシートの座席幅および通路幅を確保すべく2000系などと同様に裾絞りを入れて側窓周辺での車体幅の拡幅を実現しているが、同系列などと比較してそのカーブは緩く、車体上部の内側への傾斜もない。前面デザインは、1900系に取り付けられていたバンパーを廃し、左右の前面窓を曲面ガラスとしている。また、貫通幌は扉および幌枠取り付け部を一段奥に引き込んだ半埋め込み式としてあり、幌自体も従来の吊り幌から2200系以降の新造車に採用された成田式リコ型と呼ばれる幌吊りを内蔵した新型に変更されている。京阪特急車のシンボルとも言える前面の鳩マークは電照式のものが固定装備され、回送時や急行などの運用に充当される際には車体と同色に塗り分けられた目隠し板をはめて運行されていた。前照灯は2灯式であるが、2400系と同様のシールドビームで、照度の向上と灯具の小型化が実現している。また、標識灯は5000系(1971年製以降)と共通の角形2灯式のユニットが前面下部の左右に振り分けて取り付けられている。座席はシートピッチ900mmの転換クロスシートとされ、電動車については電動機点検蓋の開口の関係もあって車端部にロングシートがあった1900系と異なり、オールクロスシート化が実現した。後継系列である8000系も当初オールクロスシート車として竣工しさらに全席転換クロスシート化が実現したがこれらは後に混雑対策としてセミクロスシート化されたため、京阪で竣工から廃車まで一貫してロングシートを装備した事が無い系列は当系列のみとなる。座席には縦縞入りエンジ色モケットが張られた東京リクライニング社製転換クロスシートが採用され、両端駅での座席方向転換作業を簡略化すべく、新開発の空気圧駆動による自動転換装置を内蔵した。なお後述のダブルデッカー車両では2階席、階下席とも集団離反式の固定クロスシートが採用されている(車端部は従来通り転換式)。冷房装置は冷凍能力8500kcal/hの三菱電機(以下、三菱)CU-13集約分散式ユニットクーラーが各車に4基ずつ搭載されており、天井部の風洞を介して冷風が供給されるが、停車駅数の少ない特急専用車であったため、ラインフローファンなどの補助送風ファンの搭載は省略された。例外的に三菱製主電動機や駆動装置(WNドライブ)が併用された1800系から1900系までの歴代特急車と異なり、京阪電車の伝統に従って電装品は東洋電機製造(以下、東洋)製で統一されている。主電動機の定格出力が小さかったために限りなく全電動車方式に近い編成とならざるを得なかった在来車に対し、従来の倍近い大出力モーターの採用でMT比が2:1あるいは4:3と経済的な編成が組めるようになった。さらに、京阪では京津線で運用されていた50型以来複数採用例がある直流複巻整流子電動機を用いて、定速度制御機構が導入されたのが大きな特徴である。また、将来の架線電圧の1500Vへの昇圧の方針が定められてから登場したため、機器構成もそれに備えて600Vと1500Vの2つの電圧を切り替えて使用可能な仕様となっている点も特徴の一つである。主電動機としてはTDK-8160-A(端子電圧375V、定格電流515A、分巻界磁電流53A、1時間定格出力175kW、定格回転数2,130rpm)が搭載され、600V時代には端子電圧300V時1時間定格出力140kWを発揮した。これは昇圧後の定格出力が示す通り、通常型電車用直流複巻式整流子電動機としては極限に近い大きな磁気容量を備える強力なモーターで、1900系が採用していた75kW級のTDK-809A・MB-3005Dと比較しておよそ倍の出力を実現している。この電動機は京阪神急行電鉄(現・阪急電鉄)京都線や国鉄東海道本線といった競合線区に対抗するに充分な走行性能を得るために採用されたものであり、本系列の廃車後も後継形式である8000系の8004F以降の電動車に再利用されている。もっとも、600V時代にはこれでも複々線区間で高速運転する際にはやや出力不足気味であり、すでに1900系末期の段階で7両編成化が始まっていたにもかかわらず3600型の新造がラッシュ時に必要最小限の両数に抑えられ、あるいは電装準備工事が行われていた一因はここにあった。なお、駆動装置は中空軸たわみ板継手式カルダン式で、ギア比は84:16=5.25である。制御器は電動カム軸式の東洋ACDF-H4175-587Aで、界磁位相制御方式による定速度制御機能を備えている。これはマスコン側の指令により65km/h以上の速度域において5km/h刻みで一定速度での走行を可能とするものであり、速度が低下した場合には力行ノッチが自動進段し、3km/hまでの範囲で速度が超過した場合には回生制動が、さらにこれを越えて超過した場合には電制が自動的に動作するという、発電・回生ブレーキと連動した機構となっていた。ただし、本系列の制御器に備えられた回生制動機能はこの定速度制御機能でのみ利用可能、つまり主制御器内で完結した機構であって空制系とは直接連動していなかった。本系列は昇圧準備車として設計されたため、制御器は1C4M制御で、それでいて回路的に独立した電動車2両が隣接するように組成されており、昇圧工事の際には単車昇圧のみならず親子方式の昇圧も選択可能なように考慮されていた。実際には、主電動機を2個2群で直並列つなぎ(2P2S接続)してあったものを各モーターを4個永久直列(4S接続)として単車昇圧されており、電動車を隣接させるメリットは特になかったことになる。なお、昇圧時点での抵抗制御段数は直列16段、発電制動11段であった。この制御器は1995年の残存編成に対する更新工事に際して交換が実施され、8000系と共通の1C8M制御器である東洋ACRF-H8175-792Aに変更されて集約化が図られており、ここに初めて電動車を隣接させる必然性が生じている。これは6000系に搭載された東洋ACRF-H8155-785Aの発展型であり、旧制御器同様に界磁位相制御方式による定速度制御機能を備えているが、架線電圧の昇圧により回生制動の有効レンジが拡大したことを受け、「+」(力行)・「-」(制動)・「N」(定速度維持)の3ポジション指示によって45km/h以上の速度域において1km/h刻みで定速度指令可能となり、運転操作の大幅な容易化が図られている。パンタグラフは、冷房装置搭載スペースを確保するために下枠交差式の東洋PT-4805Aが採用され、3000型および3100型の京都寄りに各1基搭載されている。台車は京阪において初めて導入された車体直結式(ダイレクトマウント)の空気ばね式台車が全車に採用されている。電動車が住友金属工業(以下、住友金属)製FS-381、制御車の3500型が製造時期により汽車製造会社(以下、汽車会社)KS-132あるいは川崎重工業KS-132Aを装着しており、中間T車の3600型は将来の電動車化を考慮して電動車のFS-381から主電動機支持架などを省略したFS-381Bが装着された。FS-381は、汽車会社が開発したエコノミカルトラックと呼ばれる廉価な1自由度系エアサス台車に対抗すべく住友金属が開発したFS-337系1自由度エアサス台車の系譜に連なる側梁緩衝ゴム式台車の一種であり、軸箱支持についてはその荷重を直上のコイルばねに負担させる構造であるが、通常のペデスタル式軸箱支持構造と異なり前後方向が積層ゴムパッドにより固定されていて、金属部品による摺動面を持たないという特徴がある。これに対し、KS-132・132Aは汽車会社がスイス・シンドラー社からライセンスを得て開発したシンドラー式円筒案内台車の最終世代で、これは1900系に採用された汽車会社KS-70の枕ばね部を揺れ枕吊り方式からダイレクトマウント方式に変更したものである。本系列の台車は、いずれもダイレクトマウント化の実施によって1900系に比べて乗り心地が改善されるものと期待された。ところが、FS-381については曲線主体の京阪の軌道条件に良く適合し、走行特性は良好であったものの、元々低コスト重視の通勤車用として設計された台車であり、構造上コイルばねを並列配置して軸箱支持するため個々のばね定数を低くできるシンドラー式のKS-132系とは異なり、単一のコイルばねで軸箱支持を行うことから軸ばねのばね定数を低く(=柔らかく)設定できないため、その乗り心地は今一つ不評であった。そのためか、本系列の淘汰時にKS-132A台車10両分が枕ばね付近をダイレクトマウントのまま、新車体に適合するよう大改造した上でKW-79として2600系30番台に転用されたが、本系列で多数を占めていたFS-381系は全数廃却されている。試行錯誤が繰り返された感の強かった1900系までと比較して、台車について動きの少ない本系列であるが、それでも試作台車の試用が一度行われている。1977年に川崎重工業が試作したKW-24・25の2種の新型台車がそれである。これら2形式は、従来と同じダイレクトマウント式を採用するKW-24と、新開発のボルスタレス式を採用するKW-25で枕ばね部の設計が違えてある以外は基本的に共通設計で、共に新開発の積層ゴムによるシェブロン式と称する軸箱支持機構を採用しており、新設計の軸箱支持機構の評価試験と、新開発の枕ばね部の設計と従来設計との比較試験を同時に行う目的で試作されたものであった。もっともこのシェブロン式軸箱支持機構は、構造は簡素であるが曲線が多く偏倚の大きい京阪線での使用には適さなかったため、京阪では本格採用に至らず、ボルスタレス台車も曲線通過時の性能が不満足であったのか、京阪では以後現在に至るまで一度も採用されずに終わっている。1971年竣工の第1次車については、1900系との混結を考慮して同系と共通の日本エヤーブレーキAR-LD自動空気ブレーキが採用された。これに対し、第2次車以降は1900系との併結を考慮する必要がなくなったことから、より応答性が高く操作性の良い電気指令式の日本エヤーブレーキHRD-1D(制御・付随車はHRD-1)に変更され、第1次車についても後に同じHRD-1Dへ換装して仕様統一が図られている。なお、最後まで京阪に残った旧3505F(後の8531F)は1995年12月のダブルデッカー車組み込みに伴う機器更新の際に、8000系と共通の回生ブレーキ優先・電気指令式ブレーキであるナブコ(旧日本エヤーブレーキ)HRDA-1に再度変更されている。上述の通り、第1次車の段階では1900系との混結の可能性があったため、1700系以来の日本製鋼所製NCB-II小型密着自動連結器が先頭車運転台側に搭載されたが、特急運用への本系列定数充足に際して早朝と深夜の3連運用時の増・解結作業の簡略化を目的として第3次車では電気連結器の付いた回り子式(柴田式)密着連結器が採用された。これに合わせて第1・2次車も連結器の交換が実施された。これに対し、運転中に編成を解かれる可能性のない中間車両と運転台付き車両の連結面側については、終始一貫して半固定式の棒連結器が採用されている。その後三条-七条間の地下化に伴う1987年6月1日のダイヤ改正で早朝と深夜の3連分割運用が廃止されたことから、再度運転台側連結器がNCB-II小型密着自動連結器に再度変更され、これが2013年の退役までそのまま使用された。なお、本系列には2200系以降の新造通勤車と同様にATS車上子の保護の目的で前面床下にスカートが装着されているが、これは上記連結器変更で物理的な干渉が生じたため、その都度形状変更が施されている。制御車である3500型の運転台(京都)寄り貫通路上部に20インチカラー受像器が内蔵された。これは京阪特急で初のカラーテレビであるが、高電圧の架線直下を走行するため磁界の干渉が大きく、通常品では色ずれが発生しやすいため、磁気シールドを強化した特注の専用品を沿線(大阪府門真市)の松下電器(現:パナソニック)が製造して納入している。ただし画面下部の「ナショナル」の英文ロゴ(ナショ文字書体のもの)は1974年以降の「National」ではなく、それ以前のオール大文字「NATIONAL」であった。なお、先代特急車である1900系ではより大型の23インチ受像器が、1800系でも21インチ受像器が搭載されていたが、これらは白黒モデルであって色ずれ問題とは無縁で、磁気シールドの問題がカラー受像器ほどシビアでなかったがゆえの大サイズであった。スピーカーは天井のほか、3次車では各座席(戸袋部座席を除く)の側窓下にもあり、個別スイッチによる入切も可能であった。また車両ごとのボリュームによる調整の他、車内放送時に自動的に音量が小さくなる装置も付けられていた。受信アンテナは、1900系までの歴代テレビカーの実績を受けて屋根上に2基の5素子八木アンテナを90度の角度を付けて違う向きに搭載し、信号強度が大きい方から受信するように地上子による指令検出で自動切り替えする機構を搭載しており、本系列の登場に合わせて地上子の整備が実施されている。これは、大阪から京都へ向かう途中で生駒山にある送信所との位置関係が変わってしまうためにとられた措置である。この送信所との位置関係の変化への対応策は、1800系では屋上のアンテナを車掌が回転させて切り替え、1900系は単純な電波強度比較機構による自動切り替え、と段階を踏んで改良されてきたものであり、本系列の機構でようやく完成の域に到達した。この受信アンテナは、第1・2次車では運転台寄りの1・2番目の冷房装置の間と3・4番目の冷房装置の間に搭載されていたが、第3次車では冷房装置が障害物と見なされたのか列車無線アンテナと1番目の冷房装置の間と1・2番目の冷房装置の間に変更されている。なお、第3次車の3011F+3012Fの7両1編成のみは、1984年4月以降、ダイバーシティアンテナの試験車として電動車である3011・3012にもそれぞれ3500型に対応する位置に2基ずつ八木アンテナが搭載され、廃車までそのまま使用された。また、3009F+3010Fと3011F+3012Fの2編成には新造時に松下製VTRが試験搭載され、反響次第では在来車にも追加搭載することが検討されていた。だが、これは車内でのテレビ放送についてスポーツ中継などのリアルタイム性の強い番組が好まれたことから、ほとんど使用される機会がなく、後に撤去されている。1995年までは日中の6両あるいは7両編成では編成中の2両がテレビカーであったが、同年の更新工事で8000系にあわせて中間車の3755がテレビカーに変更された。同車においてはスピーカーは3500型3次車と同様に各座席の側窓下に設置され、個別スイッチによる入切も可能となっている。3755は1992年は以降8000系とともに、自動追尾式BS(アナログ)アンテナを搭載し、BSアナログ放送の受信が可能となった。2006年から2007年にかけて、地上波アナログ放送全廃予定に対する地上波デジタル放送への対応に向けて、8000系と同様にテレビを32インチ液晶ハイビジョンテレビに交換させるとともに、屋根上にはダイバシティ式の無指向性・広帯域UHFポールアンテナが2本設置され、地上デジタル放送対応となった。地デジ対応化とともに、老朽化しているBSアンテナが撤去された。なお交換されたテレビはパナソニック製ではなく、三菱電機製となった。中之島線を除く地下区間においては漏洩同軸ケーブルによる再送信(地上波アナログ放送方式)で受信していたが、地アナ廃止後は再送信も廃止されたため、地下区間では視聴できなくなっていた。時代の流れとともにその役割を終えたと判断されたことから、3755(新・8781)は2011年までにテレビを撤去する予定となっていたが、他の8000系車両からすべて撤去された後も、2013年3月末の営業運行終了まで存置された。就役開始後、直ちに京阪の代表形式となり、長く特急運用の主力車として重用された。昇圧前には7両編成が朝ラッシュ時の最混雑時間帯の運用に集中投入されたが、電動車4両では変電所が許容する上限に近い出力であったにもかかわらず出力不足気味であったとされ、6両編成と同じダイヤでの運転も厳しい状況であったという。そのため、3600型付随車は編成出力の引き上げを考慮し、電装を想定した車体構造として設計され、しかも電動車用の台車から主電動機支持架などを省略した住友金属工業FS-381Bを装着して竣工している。もっとも3600型の電装による5M2T化は、直流600V時代には電力面での問題が大きすぎ、また昇圧後は電動車4両と制御車・付随車4両を組み合わせた8両編成も可能な性能が得られる様になったため、実現せずに終わった。このように、出力面での制約が大きかった7両編成への増結は、ラッシュ時に必要となる3編成+予備1編成で合計4編成に実施されるに留まり、それ以外の編成は、昇圧後までは3両編成あるいは6両編成で運用された。本系列は通常の定期特急以外にも、臨時特急や何らかの都合での車両交換時の寝屋川車庫・淀車庫との出・入庫に伴う間合い運用としての区間急行や普通に運用され、京都競馬場における競馬開催に伴う臨時急行、あるいは沿線の祭礼などの行事に伴う臨時急行・準急などに運用されたこともあった。1981年頃までは早朝と深夜に普通や区間急行での定期列車での運用も存在していた。ただし、前述の様に本系列の車載抵抗器は普通列車運用などに充当するには容量が不足しており、そのため、制御器をはじめとする主要機器の更新が実施されて普通列車への充当が可能な性能が付与される1997年まで、間合いでの特急以外への充当は極力避けて運用された。その後一旦は特急と回送以外での定期運用は設定されていなかったが、1997年以降は8000系と同様に普通の一部に、2000年以降は急行・区間急行・準急の運用もわずかながら設定されるようになった。2009年9月改定以降は中之島線運用が間合い運用で定期で平日に限り1往復が設定された。運用開始から長年にわたり、側面行き先表示幕は「"特急"」(斜体のフォントで、「特」と「急」の間が少し開いていた)のみを出し続けていたが、鴨東線開業準備のため1989年4月頃から「特」と「急」の間が縮まって直立ゴシック体の白地に赤文字(のちに黒地に赤文字)となり、残ったスペースには黒地白抜き文字で行き先を表示する新幕に変更された。さらに2003年9月改正に合わせて「特急」幕が赤地白抜き文字に変更され、2008年10月改正に向けては他車同様のフォントが小さくなり、英字表記が「Limited exp.」になったものに再度変更された。なおカセットテープ式の自動放送装置は最初から装備されていた(残存編成はICレコーダー式に交換、ただし一時期その使用を中断)。先述の通り早朝・深夜に分割運用は存在した。だが、これらはブレーキシステムと連結器が途中で切り替わったため、編成単位で相互互換性が確保出来ない時期があり、またダイバシティアンテナ試験車であり、しかもVTR搭載車であった3011F+3012Fのように一部機器が異なる編成ペアが存在した、といった事情もあって原則的には3001F+3002F、3003F+3004F、3005F+3006F、3007F+3008F、3009F+3010F、3011F+3012F、3013F+3014F、3015F+3016F、3017F+3018Fと新造時にペアであった編成同士が連結されるように運用され続けた。1989年10月の鴨東線開業に伴い、運用増で不足する特急車の補充として、18年ぶりの新型特急車である8000系が製造された。8000系7連1編成と、6連で残っていた本系列5編成を7連化するための8000系中間車5両である。これに合わせて、本系列は7連固定編成化として、中間となる運転室を簡易運転台化すると共に、車掌台に電話室を設置する工事が実施されることとなった。その内容は、運転台はそのままで、車掌台は機器の撤去と乗務員扉の固定化、3500型についてはカード専用公衆電話機の設置。外部は列車無線アンテナをNTT仕様の通信アンテナに交換するとともに、先頭下部スカートの撤去である。一方、8000系の人気は予想を上回るもので、特に特急始発駅である出町柳駅や淀屋橋駅では本系列を見送ったり、本系列に1両だけ組み込まれた8000系中間車に乗客が集中するといった現象が見られた。このため、特急車を全面的に8000系に置き換える方針に変更され、本系列は主電動機などの機器を8000系に転用の上、廃車することとなった。これは、西日本旅客鉄道(JR西日本)が京阪特急のライバルである新快速用として新造した221系への対抗策としての意味合いも込められていたとされている。この計画変更のため、既に電話室が設置された3500型については、編成の淘汰に際して残存編成の未改造車との組み替えが実施された。最終的には1編成7両と2両の予備車および富山地方鉄道および大井川鐵道へ譲渡された3500型と3000型の各10両を残し、すべて解体された。1995年に車体改修工事を行った際に編成内の3600型中間付随車1両を自社の寝屋川工場で2階建車両(ダブルデッカー)に改造した。既存車両の改造によって2階建車両を製作するのは極めて珍しいケースである。自社工場においては過去20年に、京阪線では700系(2代)を1000系(3代)に、2000系を2600系に改造したり、大津線では京津線・石山坂本線の300型(2代)を600型(3代)に、500型(2代)を700型(3代)に改造した程度の実績しかなく、前例のない難しい工事であった。車両メーカーの助言を仰いだとはいえ、その施工経験と使用実績は量産車というべき8000系増結用ダブルデッカー車の設計にあたって貴重なデータを提供した。しかしながら、8000系編成に増結が実施されるまでの約2年間、ダブルデッカー車両は本系列1編成しか存在しなかったため、鉄道ファンのみならず、一般の通勤・通学客もダブルデッカーのない8000系特急を見送って、ダブルデッカー入りの本系列に待ってでも乗ろうという現象や、ダブルデッカー車両の運用の問い合わせがしばしば見受けられるようになった。その後の全特急車の8両固定編成化に際しては、予備車となっていた3000型・3500型各1両を車体更新と同時に1両の中間車として切り接ぎ改造の上で組み込んだ。この中間車化改造にあたっては、1両の運転台部分をカットした後で、もう1両の連結面側構体をカットしたものを溶接したため、扉間の窓数は9枚、元運転席のあった側の窓は4枚となっている。また、この車両は台車として種車の川崎重工業KS-132Aをそのまま装着し続けているのも大きな特徴である。なお、8両編成化の実施に際しては、当時予備車として残存していた3500型を8000系に組み込んで本線上での走行試験を行っている。本系列の更新工事に際しては、制御装置その他の機器を8000系と同一仕様に更新し取り扱いの統一を図ったことから、運転台のマスコンが同系列と同じT字型ワンハンドル式に変更された。また、元は鉄製で固定してあった前面貫通扉の鳩マークの部分に種別・行先表示幕を装備し、鳩マークは貫通扉内側から表示幕の前に差し込んで幕を隠す方式に変更された。これにより、従来は特急以外に充当される際や回送時に鳩マークを目隠し板によって隠していたのが、更新後は鳩マークを幕のように上げ下げして掲出あるいは不掲出とすることができるようになった。表示幕は、更新当初は2200系などと同様に前面は種別と行先が別、側面は一体となったタイプ(MCS式)を採用していた。しかし、2003年9月のダイヤ改正で新種別のK特急が設定(同列車種別は2008年10月17日廃止、快速特急に種別変更)され必要コマ数が増えたため、2005年に側面も種別と行先が別のタイプに変更された。前面の表示幕は特急以外の運用時のみ(つまり鳩マークを使わない時に)使用される。特急・快速特急運用時は前面は種別・行先とも白(空白の幕)を掲示し、鳩マークのバックライトとして使う。そのため、本系列の特急・快速特急(平日夕方上りのみ)運用時は京阪で唯一前面に行先を表示されない編成となるばかりか、平日夕方上り方向では特急として運転しているか、快速特急として運転しているか、一見しただけでは見分けが付かない。また、この更新時には「3000系のイメージを形成する部品」として、ダミーのステンレス製幌枠が取り付けられ、全盛期の精悍な状態がほぼ再現された。車内についても化粧板だけでなく窓枠などの金具までもが新品に交換され、新車並の状態に仕上がる徹底的な工事が行われた。また、座席は8000系と同一仕様のものに変更されている。更新後の営業運転は1995年12月25日より開始した。なお、2階建車両連結開始後しばらくの間、先頭車の前面に特製のヘッドマークが掲出された。2008年2月10日には、その後の改番や塗装変更計画を念頭に置いて、先頭車前面の社紋と車両番号表記がステッカー式に変更された。2008年10月19日に中之島線が開業し、その際に投入される予定の新型車両は3000系(2代目)となった。それに合わせ、形式番号が重複することになる本系列は運用と主要機器類が共通する8000系へと編入された。奇しくも、先々代の特急車1810系が1900系に編入されたのと同様の歴史を歩むこととなった。改番前の同年6月15日から24日まで、先頭車の前面に「3505-3055編成 ファイナル!」と表記された特製のヘッドマークが装着され、3000系としての運用終了をアピールした。そして8000系への編入の際に、車両番号表記の色が白色から黒色に変更された。なお、この系列編入の時点では塗装変更は行わず、改番後も3000系時代の塗装で運用されていた。2010年8月に検査を受けた際にも従来の塗装で出場した。なお、中之島線開業に合わせて、更新時に設置された戸閉め予告ブザー音が6000系と同種のものから、7200系以降のものに変更されている。2012年7月5日に発表したプレスリリースにおいて、京阪電気鉄道は翌2013年春をもって8000系30番台となっていた、同社に在籍する本系列最後の1編成の営業運転を終了する旨を発表した。これに伴い、各種グッズを発売したり、各種イベントを実施する予定と告知され、後述の通り実行された。2012年9月29日からは先頭車両のデザインを、改修前のデザインに変更した「クラシックタイプ」として運行しており、営業運転終了まで維持されていた。なお、8000系0番台で実施された新塗装への変更、車端部ロングシート化およびテレビの撤去は未施工のまま営業運行を退いた。続いて2013年1月8日に発表したプレスリリースにおいて、この編成の営業運転終了日を同年3月31日と決定した旨を発表した。営業運転終了に至るまでの経緯ならびに記念行事の追加内容は概ね以下の通りである。さらに同年2月28日に発表したプレスリリースでも、前節の計4回実施される特別運転の詳細を決定した旨に加え、引退日となる同年3月31日にはJTB西日本との共同企画でこの編成の貸切撮影会ツアーを開催する旨をそれぞれ発表した。2013年4月30日付で廃車された後も、なんの動きもなく留置されていた同編成だが、2013年6月14日、8531(3505)号車がトレーラーで建て替え工事中のくずはモール敷地内に搬入された。同年7月4日にはダブルデッカーの8831号車が富山地方鉄道に輸送する為、堺市西区築港新町へ陸送されており、これにより寝屋川車庫から同編成の車両がすべてなくなった。くずはモールに搬入された旧3505号車に関しては、2014年3月12日より同施設に設けられた『SANZEN HIROBA』にて「デジタル動態保存」されている。全般にわたって極力登場当時を再現しており、テレビも再度取り付けられている。本系列は、富山地方鉄道には先頭車両とダブルデッカーの中間車両、大井川鐵道には先頭車両のみが転用され、2014年現在は富山地方鉄道で引き続き運用されている。ただし、両社とも狭軌路線のため、実際には車体のみの譲渡である。富山地方鉄道へは以下の各車が譲渡された。※括弧内は富山地方鉄道で付与された新形式番号富山地方鉄道へ譲渡された車両は、主電動機出力を基準とする同社の形式命名規則に従い10030形という形式を与えられた。しばらくは京阪時代の塗装で使用され、テレビも当時の新品に換装の上で残されており、特急運転時に富山の観光ビデオ放送などに活用されていた。当時、富山地方鉄道では自社の旧型車淘汰を目的として中古車を探しており、当初は同時期に廃車が進んでいた阪急電鉄の2800系の車体を購入し、これを2扉クロスシート車に復元することを計画していた。ところが、車体は調達できても座席が調達できず、各所に手を尽くして座席探しに奔走する過程で出物として現れたのが本系列の座席であった。しかし3扉化された阪急2800系の2扉車への復元は車体の痛みが激しかったために困難な状況であり、それよりも現役の2扉クロスシート車であり、かつ年式もより新しく状態の良い本系列の車体をそのまま譲受した方が改造の手間が格段に少なくなるため、阪急2800系の車体を譲受するという当初の計画は中止され、まず1990年8月20日付で除籍された3001Fのうち3001と3501の2両がトレーラーによる陸送で譲渡された。本系列のトップナンバーであるこれらの2両は、それでも当時の富山地方鉄道在籍車の大半より車齢が若く、10030形第1編成として竣工後、実見した同社首脳陣がその車内設備の優秀さに驚いてすぐさま追加譲渡が決定したと伝えられている。その後16両が出揃った10030系は同社オリジナルの黄色と緑の塗装に変更され、テレビも撤去され、以後は原則的にこの塗装で運用されている。またワンマン改造を受け、日本製鋼所製NCB-II密着自動連結器から柴田式密着連結器への再交換やスカートの取り外しも行われた。台車や主電動機は本系列と同様構造の狭軌用ダイレクトマウント台車を採用していた帝都高速度交通営団(現・東京地下鉄)3000系の住友金属工業FS-336であったが、乗り心地改善のため、後半に同じ営団3000系発生品ながらSUミンデン式の住友金属工業FS-510へ変更された。1996年に第5編成(モハ10039・モハ10040)に対してJRの485系特急電車の廃車発生品であるインダイレクトマウント式のDT32Eに交換され、これに伴い主電動機も定格出力75kWの三菱電機MB-3054から120kWのMT54となって高出力化が実現していて1999年までに第6・7・8編成が、2012年には第2編成と第3編成に対しても同様の改造を実施し現在は8編成中6編成が高出力化された(但し、高出力化に伴う形式の変更は行われていない)。また、2012年の改造では廃車となった西日本旅客鉄道(JR西日本)金沢総合車両所に所属していた419系から発生したDT32K型台車も導入されている。また、ブレーキは既存車との混結などを考慮し、京阪時代の電気指令式ブレーキから電磁直通ブレーキに変更され、運転台も大きく手が加えられている。なお、側面に設置されていた種別表示器は当初、自社仕様の種別・方向幕が装備されていたが、その後、全般検査の際に塞がれ、車内の補助席も常時使用停止となっている。座席シートについては、経年劣化が進んだことから順次、モケットの張替えなどが実施されている。なお、列車の愛称として、地元ではその車両塗装から「かぼちゃ電車」と呼ばれている。2012年4月、第2編成に対して京阪時代の塗装に再度変更するとともに、連結面の貫通扉上に液晶テレビを設置。8月17日よりNHKの番組の放映を開始した。2013年、京阪電鉄からダブルデッカー車両の8831号車が富山地鉄に譲渡された。同社では2015年春の北陸新幹線金沢開業に備え、新たな観光列車として2階建て車両の導入を検討していた。3000系(8000系30番台)の同社への譲渡は1993年以来20年ぶりで、中間車の譲渡は初めてとなる。台車は419系から発生したTR69型に交換され、形式名も「サハ31」に変更された。外観は京阪時代のままで、側面の時代祭絵巻のイラストも撤去されなかった。ただし、行先表示器は使用されず、「2号車」のステッカーを窓ガラスの内側から貼り、号車札の代わりとして再利用されている。内装の改修も整理券発行機と運賃表示機が取り付けられた程度にとどめられた。前述の京阪時代の塗装に復元した編成に組み込まれ、2013年8月25日から「ダブルデッカーエキスプレス」として営業運転を開始した。これに伴い、同編成の先頭部にはスカートの取り付けも行われている。同時に鳩マークを塞いでいた乗務員室の貫通扉の鉄板が撤去され、京阪での廃車後から13年振りに鳩マークが復活した。なお、3両編成で特急運用にも充当されるため車掌が乗務しているが、無人駅での運転士の運賃収受があるため、先頭車の運賃箱やワンマン装置自体は引き続き使用されている。大井川鐵道へは1995年5月に3000型(モハ)3008と3500型(クハ)3507の2両が譲渡された。これらはワンマン化されたが、塗装は京阪時代のままで使用されている。ただしこちらも前面下部のスカートは撤去されている。車内には自動販売機が設置され、乗務員室助士席側の座席が運賃箱を設けたためロングシートに換装されている。台車は元営団5000系の住友金属工業FS-502Aに交換され、電装品も同系列からの発生品に交換されている。大井川鐵道では既に初代小田急3000形電車「SSE」の第1編成を譲受したものが3000形として在籍していたことがあり、本系列の譲受車は3000形としては2代目となる。また、2012年9月下旬には、千頭方の先頭車の貫通扉の行き先板が外されて、鳩マークが復活する形で取付られた。老朽化を理由に2014年2月14日をもって引退。現在は家山駅に留置されている。
出典:wikipedia
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