『大奥』(おおおく)は、1968年に製作された連続時代劇テレビドラマ。会社創立10周年記念作品として関西テレビが東映とともに製作し、フジテレビ系列で1968年4月6日から1969年3月29日まで、毎週土曜22:30 - 23:25の時間帯で放送された。全52話。カラー放送。物語は、江戸時代に将軍の妻たちが居住した江戸城の女の園「大奥」を舞台に、大奥の女性たちの人間模様と愛憎劇を通して徳川幕府の繁栄と落城の波乱万丈の物語を描く。東映の岡田茂プロデューサー(元同社社長)が企画・製作した1967年の映画『大奥物語』から、エロ部分を薄めて、大奥での女たちの激しい権力争いを中心とした内容に変更しテレビドラマ化したもの。映画とテレビが連動したのも、これが最初といわれる。しかし関西テレビから「このだけは困る。題名ははやめて『大奥』だけにしてくれ」と言われ、タイトルは『大奥』と変更された。「大奥」とタイトルの冠されたテレビドラマは本作が初。しかしエッセンスの全ては映画『大奥物語』に凝縮されていた。テレビドラマ『大奥』は初めて取り上げた「女性時代劇」であり最高視聴率30%を突破する人気シリーズとなり、視聴者の大きな共感を得たことで今に通じる『大奥』の世界観を作ったといわれる。大川博社長(当時)の命で1964年、所長として東京撮影所から京都撮影所(以下、京撮)に帰還した岡田茂の最大のミッションが京撮の合理化であったが時代劇の退潮とテレビの興隆を肌で感じていた岡田は、時代劇中心の京撮を抜本的に改革しなければ東映の将来はないと考えそれだけの人数を減らすにはテレビ部門を拡充、別会社にしてそこへ押し込むしかないという結論に達した。岡田は京撮で製作する映画は任侠映画のみとし「東映京都テレビプロダクション」を設立して時代劇の製作はテレビに移行させて『新選組血風録』、『素浪人 月影兵庫』、『銭形平次』といったテレビ時代劇の大ヒット作を製作した。これらの実績により関西テレビから開局十周年企画番組を東映で、というオファーが舞い込んだ。かねてから親交のあった関西テレビ・芝田研三副社長と岡田の話し合いにより、岡田がプロデュースした1967年の映画『大奥物語』のテレビシリーズ化が決定、京撮本体による製作が決定した。キャストは岡田が全部決めた。脚本の内容も岡田がかなりの部分を指示したという。当時関西テレビは、いい作品が一本もなく、いつもフジテレビにやられていた。本作の成功により、一時は途絶えていた京都撮影所でのテレビ制作が本格化し、その後『あゝ忠臣蔵』、『長谷川伸シリーズ』、『暴れん坊将軍』、『影の軍団シリーズ』など、主として異色時代劇の分野を開拓していく。またここで築かれた東映=関西テレビの信頼関係が、後に東映京都撮影所の時代劇復興の礎となっていった。当時関西テレビはまだカラー設備を持っていなかった。このため、あくまで局制作を主張する意見と、たとえ外注でもカラー作品を優先しようという考えが対立した。そんな折、たまたま女子社員の一人が『大奥物語』を観て、「大奥もの」ならカラフルだし、女性ファンを掴めるのではという意見が出され、これを受け京撮で京撮のスタッフによって制作される事が決定した。 関西テレビ開局10周年として力が入り、当時のトップどころの女優たちが毎回、一着200万~300万円もする衣装で登場。セットも豪華に組まれた。大奥の女たちを艶やかに着飾らせる衣装や小道具は、東映の時代劇黄金期に作られたものを使い回すことで予算を圧縮させたというがそれでも制作費だけで当時としては破格の1回1000万円かかったといわれる。15年後に制作した1983年の『大奥』では、この2~3倍の制作費をかけた。京撮で撮影が始まった当初は、テレビ映画への偏見や「大奥もの」のエロイメージがあって女優側に拒否反応があったが、大ヒットドラマになって軌道に乗ると「大奥に出なければ女優じゃない」といった空気となり、逆に女優から売り込んでくるようになったという。
出典:wikipedia
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