LINEスタンプ制作代行サービス・LINEスタンプの作り方!

お電話でのお問い合わせ:03-6869-8600

stampfactory大百科事典

西大寺 (旧市域)

西大寺(さいだいじ)は、岡山県岡山市東区にある広域地区である。同区役所の本庁管轄域であり、岡山市に編入合併した旧西大寺市域に相当する。いわゆる「広義の西大寺」にあたる。地域の中心市街地は、古くから西大寺の門前町として栄え、毎年2月に同寺院で開催される日本三大奇祭の一つ「裸祭(西大寺会陽)」で知られる。なお、同市北区の中心市街地には、当地に由来する西大寺町・新西大寺町という地区がある(詳細は岡山表町商店街を参照)。本項ではかつて同地域に所在した西大寺市についても述べる。1969年(昭和44年)に西大寺市が岡山市に編入合併したときの市域にあたり、政令市施行前までは旧西大寺市役所が西大寺支所として管轄した。政令市移行後は同支所が東区の区役所(本庁)となり、さらに2014年(平成26年)11月25日には区役所が移転開設され、当地は本庁の直轄となっている。当地は吉井川を中心に川の東西にエリアが広がる。西大寺市以前は吉井川東岸は邑久郡、西岸は上道郡(上東郡)であった。人口は西岸の方に偏っている。当地の中枢は河口西岸に位置する西大寺・金岡であり、古くは金岡庄という荘園があった。この地区は中世から近世にかけて金岡湊の港町、および西大寺の門前町として商工業の発展した地域であった歴史の古い地区である。また、吉井川の高瀬舟と瀬戸内海の廻船との物資の集散地としても栄え、現在の西大寺市街地の基盤となった。明治以降、西大寺門前町には商店街が生まれ、それを中心に市街地が形成され周辺の経済の中心として賑わいをみせる。しかしモータリゼーションを中心とした生活に変化していくにつれ、市街地周囲の農地が区画整理され、道路網も整備、次第に商店や企業が周辺地に移転していき、商店街を中心とした市街は活気を失い、市街地としての機能は周辺地に奪われた形となる。その一方で、中心地は昔ながらの門前町や港町のたたずまいを残した風情ある町並が残っており、映画『ALWAYS 三丁目の夕日』などの撮影地にもなった。当地中南部には広大な平地が広がるが、大半は古来は海域であり、近世における干拓された新田地帯である。吉井川西岸は上道沖新田、東岸には幸島新田などが造成されている。かつては米の他、ムギ、綿花、イグサなどが主産物であった。特に綿花とイグサは紡績やイグサ製品などの関連加工業も栄え、前述の西大寺・金岡を拠点に各地へ売られた。しかし、近代になると綿花は衰退していき、イグサも昭和期に農家の兼業化により激減した。現在の新田地帯は幹線道路が整備され、周辺は郊外型の市街と変貌し、商店・企業・宅地が立地。農地もいまだ多い地区も多数あるものの、大半が米作中心となっている。さらには沿岸部には企業団地も造成され、様相が一変した。現代において、西大寺は岡山市東部の拠点地区としての地位を占め、副都心的な存在のエリアとなっている。従来からの九蟠地区工業地帯のほか、2001年8月に完成した東部クリーンセンター(豊地区)の周辺に流通センターなどが進出中。カネボウ西大寺工場跡地の活用問題や中心部商店街の衰退などが、現在の懸案事項である。岡山市を代表する企業である両備ホールディングスや天満屋はこの西大寺が発祥地である。両備ホールディングスの方は現在も西大寺バスセンターが登記上の本店としての機能を果たしており、隣接して両備プラッツ西大寺店が立っている。また天満屋の方は現在は天満屋ハピータウン西大寺店として存在している。岡山市の南東部に位置し、東区の約南半分を占める広大なエリアである。吉井川の最下流域であり、エリア中央を北東から南西へ同河川が貫流し、当地で海(児島湾)へ至る。また、南東部は瀬戸内海に接し、南沖合にある犬島諸島も当地内である。東には瀬戸内市(邑久・牛窓)、南は児島湾を隔てて同市南区小串・甲浦、西は百間川を隔てて同市中区富山・財田、北は同区の上道にそれぞれ隣接する。吉井川西岸(旧上道郡域)では、中心市街地西北に備前富士の愛称で親しまれている独立丘陵の芥子山(標高232.8m)があり、この丘陵の北麓も当地内である(古都)。丘陵麓から海浜部まで広がる広大な平野部が広がるが、これは近世における干拓平野である松崎新田・金岡新田・上道沖新田から成り立っている。この平野と吉井川・旭川をそれぞれむすぶ水路として倉安川が東西に流れている。また、北東部から南西へ砂川が流れ百間川へ合流しており、古くから広大な農地の灌漑用水としての役目を果たしている。吉井川東岸(旧邑久郡域)は、邑久山塊西端にあたる大雄山・高雄山などがある丘陵が中央にあり、その南北に平地が広がる。山の北側は一大穀倉地帯である千町平野の南部にあたり、千町川や大用水(坂根用水)が灌漑用水として流れている。山の南側は山南と呼ばれ、東側を南北に丘陵地が延び、西側を南北に流れる吉井川との間に広大な平野が広がる。この平野部は近世の干拓地であり、幸島新田などからなる。これら干拓平野の中央部を南北に千町川の派川が流れている。古代においては、吉井川西岸は備前国上道郡可知郷や居都郷、東岸は同国邑久郡長沼郷や邑久郷などが当地にあったと推定されている。その後荘園が勢力を増すと、当地には金岡庄と呼ばれる広大な荘園が生まれた。金岡庄は西庄と東庄の東西に分かれていた。現在の金陵山西大寺(観音院)や金岡辺りは東庄に属しており、『観音院文書』には「金岡東庄」の記述が見られる。金陵山西大寺は、古くは犀載寺とも表記され、その創建は古く天平勝宝3年といわれる。延慶4年の大般若経(西大寺観音院所蔵)の奥書に「備前西大寺」とあり、これが書物等における初見となる。金岡庄は元は藤原氏と大和興福寺の所領であったが、南北朝時代には大和額安寺の所領となった。元亨3年、額安寺と土地の地頭が金岡庄を検分し、それを記録したとされる西大寺観音院境内絵図によれば、境内に市場があり、酒屋・魚屋・餅屋・筵屋・鋳物師などの商人が店を開き繁栄していた。また室町時代前期の永享12年の『西大寺古縁起』には金岡浦とあり、吉井川河口の港町として現在の金岡地区周辺が栄えていた。戦国時代になると西大寺観音院を中心に周囲に家や店が増え、門前町が形成され、西大寺村として繁栄、有力商人が多数活躍した。宇喜多秀家が岡山城を築城すると、城下町整備のため西大寺門前町の有力商人が多く岡山へ招かれ移住した。現在も城下町を起源に持つ岡山市表町には、西大寺門前からの移住者に由来する西大寺町や新西大寺町などの字が残っている。その後も西大寺門前町の商業は発展し、江戸時代になると寛永19年に岡山藩は西大寺村の商人が酒造業を営むことなどを公認、また中期には町奉行が「西大寺は下津井とともに港町として栄えているので、おかげで岡山城下町の繁栄が脅かされている」と嘆いていることが伝えられている(市政提要)。西大寺村南隣の金岡村も、吉井川の高瀬舟および瀬戸内航路の船が集う港町、物資の集積港として、さらには牛窓往来の渡し場として繁栄した。江戸時代には干拓による新田開発で当地の面積は大きく広がるが、最初の干拓は奈良時代に遡る。奈良の大安寺が主導し、大多羅の地先の葦原を開墾し50町歩の新田を造成したといわれる。しかし、この後は江戸時代まで大きな新田開発はなかった。江戸時代前期、寛文3年に岡山藩主・池田光政および綱政が松崎新田107町歩を干拓。さらに同5年から、大阪の豪商の鴻池屋仁兵衛・金屋次兵衛・三次三折の三人が岡山藩の許可を得て金岡新田の干拓に取りかかり、132町歩の新田が造成された。のちに岡山藩が買い取り、領民を入植させた。元禄5年には大規模な沖新田(上道沖新田)1539町歩が干拓された。普請の際、一番から九番まで受け持ち区域を設定したことから、新田完成後にこの区域番号が事実上の村名として扱われた。沖新田の中で当地にあたるのは百間川以東の五~七番と外七番および九番である。現在、当地にある大字の九蟠は、その名残(九番)である。干拓による陸地の南下と回船の大型化を受け、新田南部で吉井川河口にあたる九蟠に新たに九蟠港を設け、西大寺・金岡の外港として機能した。吉井川東岸部でも干拓が行われ、寛永初年、岡山藩主・池田忠雄は、藩士を動員して神崎村内に神崎崎新堀を掘削し千町川の水を児島湾に分流(千曲川・神崎川)させ、さらに藩主が綱政の時代になると、津田永忠が乙子村から小羽島・中羽島・大羽島・外渡島・西幸島・東幸島の各島々を経て掛座まで、海面に堤を築いて河口両側に新田561町歩を造成し、干拓を完成させた。新田中央部を南北に千町川分流が貫流する形となり、河口には石の樋門が築かれ、内側に遊水池が設けられた。島の名前(西幸島・東幸島)にちなみ、幸島新田と名付けられた。最初は幸島西新田村・同中新田・同東新田村と分けられていたが、貞享4年、西新田は幸西村、中新田は幸田村、東新田は幸崎村と改称した。さらに元禄4年には、幸田が南北に、幸西・幸崎は東西にそれぞれ分割された。これら新田一帯では、米・麦中心の農業地帯となり、これに加えてイグサや綿花の栽培も盛んとり、有数の産地となった。『備陽記』にはこれに加えて、射越村ではナスやマクワウリ、西大寺村ではナスや青ウリ、沖新田では唐スイカなどの特産品が記載されている。また久保村の吉井川鴨越井堰下流ではマスがよく獲れたとされる。江戸時代、当地内にも特に人通りの多かったのが牛窓往来であった。同街道は、岡山城下町から上道郡平井・湊村を経て倉安川沿いに東に向かい、百間川を越えて中川・松崎・西大寺各村を通り抜け、金岡村から吉井川を渡り、対岸の邑久郡新村からは南東に向かい、邑久郡乙子・神崎・千手と抜け、峠を越え、鹿忍を経て牛窓港へ至った。現在の西大寺地域を横断する形となっている。牛窓港は朝鮮通信使一行の休息・宿泊の地であり、使節団の応援にあたるため岡山藩士の往来も多く、周辺には西大寺村や金岡村の他にも在郷町が発達して沿線は賑わいを見せた。明治29年に地元資本により西大寺紡績(後の鐘紡西大寺工場)が設立されて以降、山陽板紙、西大寺製紙、西大寺織物などの多くの企業が相次いで設立された。山陽板紙は観音院の上手で稲藁を原料として操業し、昭和19年に大蔵省印刷局が同所を買い取り進出している(現在は撤退)。また同年には吉井川東岸河口部にあたる西幸西で、帝国化工岡山工場、同33年には金岡東町に日本エクスラン工業西大寺工場などがそれぞれ操業し、いずれも用水型工業である。また、後の時代には九蟠地区や豊地区に企業団地が形成された。明治期の西大寺一帯の主な営業種は、米穀・乾物・青果・肥料・陶器・足袋など。商業資本の中から大正元年に、呉服・売薬業の伊原木茂兵衛が岡山へ進出、後の天満屋百貨店へと発展する。明治12年に上道・邑久両郡を結ぶ永安橋が、吉井川の観音院に近い地点に架けられ、交通の便が向上する。永安橋は洪水の度に流失したが、昭和6年に鉄橋に架け替えられた。それからは流失や損壊はなく、昭和61年にさらに近代的なものに新設された。なお、橋の名は一説では、橋の渡り初め式に出席した岡山県令の高崎五六が「橋の永いのに渡し賃は安い」と言ったことに由来するとされる。交通網整備の内、鉄道の建設は他地区に比べて遅れた。山陽鉄道が西大寺村周辺を通過するのは、当時海運業も盛んであった西大寺や金岡の住民の多くが海運の衰退を招くとして反対、さらに明治22年に大凶作が発生し経済不況となり、実現に至らなかった。その後、山陽鉄道は芥子山北部を通過し建設された(後の市町村合併により、山陽鉄道・山陽本線は当地内北部を通過することになる)。同29年に岡山市鹿田町から西大寺を経て牛窓を結ぶ備前鉄道、および同30年頃に西大寺と山陽鉄道瀬戸駅を結ぶ西大寺鉄道がそれぞれ計画され、住民の鉄道への関心がようやく高まってくる。結局、両鉄道建設計画は実現しなかったが、同44年に岡山市長岡にあった山陽鉄道西大寺駅(のちの東岡山駅)から西大寺に至る西大寺軌道が敷設された。翌年には長岡から岡山市森下まで、大正4年には森下から後楽園口(浜)まで延伸され、待望の岡山市街地から西大寺市街地までの鉄道網が完成となった。しかし、戦後にバス路線の整備や、日本国有鉄道による赤穂線の計画が進展したことから昭和37年に西大寺鉄道線は廃止となり、同鉄道の西大寺駅はバスセンターとなった。バスセンター周辺には後に大型スーパーなどが立地し、市街地の郊外化によりこの周辺が地域の中心地となっていった。さらに、国鉄(JR)赤穂線、国道2号線バイパス、東備ブルーハイウェイ(岡山ブルーライン)、新永安橋、その他一般道路の造成や区画整理など交通網が徐々に整備されていった。明治以降、行政の変遷により合併が幾度か行われ、昭和の戦後には当地は上道郡西大寺町・古都・可知・光政・津田・九蟠・金田・雄神の各村と邑久郡豊・幸島・太伯・朝日・大宮の各村と邑久町長沼の合計14町村に分かれていた。昭和28年2月、14町村の内の西大寺町と古都・可知・光政・津田・九蟠・金田・豊・幸島・太伯各村と邑久町の内の長沼(東谷地区のぞく)の11町村が合併し、西大寺市を新設、かつての西大寺村域に市役所を構えた。翌年には邑久郡大宮村の内の一部(宿毛)が西大寺市へ編入し、続く同30年に上道郡雄神村・邑久郡朝日村の2ヶ村が編入、さらに同31年には邑久郡大宮村(千手地区の一部は牛窓町へ編入)が編入合併し、現在の西大寺エリアが確定した。西大寺市は地域の振興政策に積極的に取り組んだが、岡山県南百万都市構想を経て、活路を岡山市との合併に求めることとなり、昭和44年2月18日に岡山市への西大寺市の編入合併が成立、16年間の市政にピリオドを打った。西大寺市の市庁舎は西大寺支所となり、旧市域を管轄した。なお岡山市へ編入後、住所表記上、大字に西大寺の旧市名を冠していたが、昭和47年7月20日の住所地番変更により旧西大寺村域を中心とした地域および他地域に同名・類似の地名がある地域にのみ西大寺の名を大字に冠し、それ以外の地域には西大寺の名は外された。平成21年4月1日には、岡山市が政令指定都市へ移行し行政区が置かれ、当地は東区の管轄となった。1993年に西大寺南のカネボウ西大寺工場が閉鎖したが、1995年に岡山市土地開発公社が取得。しかし用途が決まらず長期にわたり利用されないままであった。2010年3月に岡山市が買い取った。面積は約8.2ヘクタール。2009年に岡山県で開かれた全国都市緑化フェアのメイン会場となることが決定し、整備が行われた。全国都市緑化フェア後、南側が西大寺緑花公園、体験学習施設百花プラザとなり、2010年4月にリニューアルオープンした。北部エリアは民間活用、北東エリアは公共公益施設予定地とされている。2010年4月、緑化公園内に図書館(西大寺緑花公園緑の図書室)がオープンした(向洲の西大寺図書館は閉鎖)。2011年2月14日、岡山市は北東エリアに岡山市東区役所、東消防署などを移転させる方針を明らかにし、2014年11月25日に移転開設した。2011年10月、三菱地所は、当地を賃借し同年11月9日に商業施設「西大寺グリーンテラス」を開業するとし、家電量販店(ケーズデンキ)・ホームセンター(コーナン商事)・スポーツ用品店(モミジヤ)など計7店舗が12月までに順次オープンさせた。約25800平方メートルを賃借し、2階建ての施設を建設、店舗面積は約13000平方メートル、駐車場は約590台分。三菱地所は、同年3月に市と借地契約を締結、2033年までの契約で、借地料は約15億円で、それ以外の事業費は約20億円。年間35億円の売上高を見込んでいる。当地は以下の、地域区分に細分化される。以下は、コミュニティ協議会区域・コミュニティハウス設置区域・連合町内会区域であり、ほぼ学区(小学校)と一致する。西大寺地区には西大寺観音院を筆頭に文化財が多い。東部の硫黄山の一角の築山には6~7世紀の横穴式古墳群がある。山の南側にあたる大宮地区には備前国一宮であった安仁神社が鎮座。境内付近からは銅鐸も出土している。硫黄山の尾根続きである堂山には報恩大師開基と伝えられる千手山弘法寺がある。邑久郷地区の納岡には宇喜多家の菩提寺と伝えられる紅岸寺(向岸寺)があり、乙子地区には、戦国時代に児島湾に面して築かれた宇喜多直家所縁の乙子城(音湖城)址がある。西部の芥子山の西山中には岡山藩主・池田綱政による創建とされる大多羅寄宮跡がある。民俗行事としては、全国的に知られる西大寺観音院の会陽・裸祭が代表的であり、当地の代名詞的なイベントとして古い時代から現在まで続けられている。毎年会陽の時期には、見物客が全国から数万人が訪れ、西大寺の街が一年でもっとも賑わう。地上波テレビ放送は岡山市と同様だが、ケーブルテレビである岡山ネットワーク(愛称oniビジョン)は視聴できない。(百間川以西の中川町のみ視聴可能)

出典:wikipedia

LINEスタンプ制作に興味がある場合は、
下記よりスタンプファクトリーのホームページをご覧ください。