ジャコ・パストリアス (Jaco Pastorius、本名 ジョン・フランシス・パストリアスIII世、1951年12月1日 - 1987年9月21日) は、ジャズとフュージョンのエレクトリックベース・プレーヤー及び作編曲家。1970年代半ばに頭角を現し、1975年にはパット・メセニーの初リーダー作に参加、翌1976年にはファースト・ソロ・アルバム『ジャコ・パストリアスの肖像』を発表すると共にウェザー・リポートにベーシストとして参加。その革新的なテクニックをもって、エレクトリックベースをアンサンブルでの花形楽器にまで昇華させたことで知られる。幼少の頃から地元の聖歌隊に参加し、音楽的な素養を身に付けていた。ジャコが7歳の頃、家族はフロリダ州フォートローダーデールに移住した。彼のアルバムでスティール・ドラムが多く用いられているのは、フロリダで過ごした影響が大きいとされている。地元のバンド「ラス・オラス・ブラス」にドラマーとして参加していたが、13歳の時にフットボールの試合中、右手首を骨折してしまいドラムを続けることが難しくなり、ベーシストへ転向した。高校卒業後には地元でウエイン・コクラン・アンド・ザ・C.C.ライダーズというソウルバンドを始め、多数のR&Bやジャズのバンドで活動しており、この頃に入手したフェンダー・ジャズベース("1960年モデル")とその後入手したジャズベース("1962年モデル")のネックとボディーを入れ替え、理想的な1本を作り上げ使用していた。その後更に変更を加え、フレットを抜きパテ埋めしたあとに船舶塗装用のエポキシ樹脂で指板全体をコーティング。実際は著名なギター職人、ジョン・カラザースによって演奏可能な状態に仕上げられている。米国アコースティック社製ベースアンプのModel#360と組み合わせ、自分のベース・サウンドを煮詰めていった。ジャコは幼い頃から Jocko というニックネームで呼ばれていた。これは1950年代のメジャー・リーグ名物アンパイア、ジョッコ・コンランから取ったものだった。「Nelson Jocko Padron」という変名で活動していた事もあったが、アパートの隣に住んでいた音楽仲間のアレックス・ダーキィがフランス風に Jaco と綴った所これを気に入り、それ以降自分の事を Jaco と名乗るようになった。マイアミ大学でジャコ同様に教鞭を執っていて、良き音楽仲間でもあったパット・メセニーの1975年にリリースされた初リーダー・アルバム『ブライト・サイズ・ライフ』にベーシストとして参加。そして同年、ブラッド・スウェット・アンド・ティアーズのドラマーであるボビー・コロンビーとジャコが出会い、驚異的なベース・テクニックはデビュー・アルバム制作をコロンビーに決断させた。アルバム制作作業と併行して約2か月間コロンビーのバンドに参加し、そこでマイク・スターン(ギタリスト)と2年ぶりに再会し、以後の音楽活動とプライベートの両面で親しくなった。翌1976年、コロンビーのプロデュースで『ジャコ・パストリアスの肖像(原題・Jaco Pastorius)』が発表された。1976年、フロリダにウェザー・リポートのツアーで訪れていたジョー・ザヴィヌルに自分のデモ・テープを渡すなど、ジャコはベーシストとしてバンドに参加したい旨を直接ザヴィヌルへ伝えていた。丁度その頃には2代目のベーシスト、アルフォンソ・ジョンソンが脱退する予定であったため、ジャコは『ブラック・マーケット』のレコーディング・セッションで、ザヴィヌル作の「キャノンボール」と自作の「バーバリー・コースト」の2曲にベーシストとして参加した。これ以降、ジャコはウェザー・リポートの正式メンバーとなり、次作『ヘヴィ・ウェザー』以降ではコ・プロデューサー としてクレジットされるようになった。ウェザー・リポートでは単なるベーシストとしてではなく、曲提供なども含め、色々な意味での音楽的貢献度は高まっていた。『ヘヴィ・ウェザー』に収録され、ジャコのベース・ソロを聴くことが出来る「ティーン・タウン」では、父親譲りのドラミングも披露しており、後にライブ・アルバム『』のスタジオ録音サイドに収録されている「8:30」でも、ジャコがドラムスを叩いていて、来日コンサート時にはステージのオープニング曲として、ジャコのドラミングに生で接することが出来た。『ミスター・ゴーン』ではジャコ色が若干弱まったシンセサイザーとシーケンサー主体の抽象的なサウンドになり、この頃からジョー・ザヴィヌルとの確執が噂されるようになった。これ以降ウェザー・リポートのライブではジョー・ザヴィヌルの楽器類とジャコのベース・アンプの音量が非常に大きくなり、互いが音量でも競い合っているような雰囲気だったため、会場でPAされたサウンドは、ほぼロック・コンサート並の大音量だった。ウェザー・リポート以外にもトリオ・オブ・ドーム (ジョン・マクラフリン、トニー・ウィリアムス、ジャコのトリオ) でのレコーディング・セッションと、トリオ・オブ・ドームでのハヴァナ・ジャム出演や、ジョニ・ミッチェルのアルバム・プロデュースとコンサート・ツアーへの参加など、一気に黄金時代を迎え華々しい活躍を続けていた。1981年、ワーナー・ブラザーズ・レコードとソロ契約し、セカンド・ソロ・アルバム『ワード・オブ・マウス』をリリース 。翌1982年にはピーター・アースキンと共にウェザー・リポートから脱退し、ジャコは自身のビッグ・バンドに活躍の主軸を移した1982年4月には「ジャコ・パストリアス・バンド」として来日公演が予定されチケットも一般発売されたが、来日直前で病気などを理由に急遽ツアーは中止となった。そして、同1982年8月下旬〜9月上旬にかけて、オーレックス・ジャズ・フェスティバルに参加する形で「ワード・オブ・マウス・ビッグ・バンド」としての来日公演を行い、各地で大成功をおさめた。この来日公演の模様は、後日NHK放送枠でオンエアされ、コンサート音源はライブ・アルバム『Twins I & II』などにも収められている。日本側からは東京ユニオンのメンバー数人がホーン・セクションとしてビッグ・バンドに参加していた 。翌1983年5月21日と22日には、再び「ジャコ・パストリアス・バンド」として東京新宿厚生年金会館大ホールでの来日コンサートが行われ、小編成ながらジャコの健在ぶりをアピールした。ほぼ同じ編成でモントリオールでのジャズ・フェスティバルへも出演していて、その模様は『ライブ・イン・モントリオール』としてビデオ・テープ版とレーザー・ディスク版で発売され、後にDVD版でも再発売されライヴ映像として残されている。その後から晩年のにかけてのジャコは、彼の健康状態や、奇行や荒れた生活から来る悪評によりニューヨークのジャズ・クラブ等の多くから出入り禁止を受けるなど、業界から「干された」状況となって行く。しかし当時のニューヨーク以外ではこの事実は知られず、ギター誌の表紙にもなり、ジャコ自身も多くのレコード会社やプロデューサーへ電話を掛けるなどしカムバックを画策していた。小規模なギグ中心の音楽活動自体は続けており、マイク・スターンやハイラム・ブロック、ケンウッド・デナード等とのセッションを行っていた。キャリアの初期のジャコはドラッグとアルコールを完全に避けた生活を送っていたが、ウェザー・リポート在籍時よりこれらを使用するようになって行った。1982年にウェザー・リポートを脱退した頃からジャコの生活は荒れはじめ、コカインに溺れたり双極性障害 (躁鬱病)に悩まされた。これは二人目の妻イングリッドと離婚して以来、悪化したという。同年の来日コンサート・ツアー中にも奇行 が目立つようになり、帰国後はマイケル・ブレッカーから勧められて精神病院へ入り、リチウムを処方された。1986年の時点では彼の精神状態はさらに悪化し、アパートを追い出されて後は路上生活を送って(ニューヨーク市内のバスケットボール場で寝起きして)いた。この年の6月には前妻のイングリッドの助けを得て精神病院に再び入院するが、年末には再び路上生活に戻っている。1987年9月11日、地元フォートローダーデールに来ていたサンタナのライブに無許可で飛び入りしようとしたところ、警備員に取り押さえられ、会場から追い出されてしまった。翌日未明、「ミッドナイト・ボトルクラブ」という店に泥酔している状態で入ろうとしたところ、空手技能を持ち合わせたガードマンと乱闘になる。乱闘の際、コンクリートに頭部を強打、脳挫傷による意識不明の重体 に陥ってしまった。病室では昏睡状態が続いて一向に意識回復などの兆しがみられず、植物状態としてかろうじて心臓だけは動き続けていた。親族による話し合いの末、ジャコの父親であるジャック により人工呼吸器が外され、1987年9月21日、21時25分、親族と病院関係者らが見守る中、永眠。彼の生まれ故郷であるフロリダの地で35年9か月あまりの生涯を閉じた。暴行容疑で逮捕起訴されたガードマン、リュック・ヘイヴァンは後の裁判で、第二級謀殺罪が適用されたが、4カ月の収監の後保釈。フェンダー社製の1960年製と1962年製ジャズベースを使用。3トーンサンバーストの1962年製を購入後、そのネックは黒の1960年製(塗装がリフィニッシュされた可能性があるとも言われる)の方に付け替えられ、1960年製の方は後年までフレット有りのままだった。ジャコのトレードマークにもなっている「Bass Of Doom」と名付けられた1962年製の方は先に述べた1960年製のネック搭載であり、1970年代前半にフレットが抜かれフレットレスに改造された。フレットが抜かれた指板にはパテ埋めを施し、指板全体には船舶の船底などで使用される「マリーン・エポキシ」と呼称され、乾燥後には強く硬化するエポキシ樹脂製のクリア塗料が塗られ、ローズウッド製の指板をラウンド・ワウンド弦の擦れなどから保護していた。当初ジャコ本人が塗布したエポキシは剥離しやすかったため、後にジャコの楽器のメンテを最晩年まで手掛けたギターテクによってデュポン社製のモールディング用エポキシ樹脂をネックの周囲に型枠を組んで流し込み、それを指板のカーブに合わせて1mm程まで薄く削り、研磨することで剥離が発生しにくいエポキシ加工の改良が施された。英国ロトサウンド社製 () のRS-66 SWING BASS (スゥイング・ベース) というラウンド・ワウンド弦を使用していた 。一般的にはロック・ミュージシャン御用達のベース弦だが、ラウンド・ワウンド弦の特性の明るい音質と、エポキシ樹脂でコーティングされた硬い指板との相乗効果によるトーンが、彼の独特な音色を構成している。米国アコースティック・コントロール・コーポレーション製の、オール・ディスクリート 構成ソリッド・ステート回路のベース・アンプ Model #360+361の組み合わせと、Model #320+408の組み合わせを主に使用。ウェザー・リポートへの参加初期は Model #360+361のみだったが、その後は複数台並んだ状態でセット・アップされ、ディレイ及びコーラス・エフェクトとフレーズのループ・サウンドなどは別々のセットから出力されていた。ベースを弾く際、基本的に右手のポジションはブリッジ側ピックアップの上端に親指を乗せ、人差し指と中指を伸ばした状態のままで指の付け根を軸にして弾き、早いパッセージにも対応できる奏法をとっていた。ソフトな音色が必要とされる時などはネック終端に親指を乗せたそのポジションで弾いたり、スラッピングでパーカッシブなリズムを出す際には、手のひらを指板に弦ごと叩きつける様な奏法も取っていた。ウェザー・リポートの『ヘヴィ・ウェザー』収録「バードランド」や『ナイト・パッセージ』収録「Three Views Of A Secret」のイントロやソロの一節などでは、親指を利用したピッキング・ハーモニクス奏法が随所に使われて、この奏法の場合には必要なハーモニクス・ノート毎に親指で弦に触れる場所が変わるため、曲全体を通すと様々なポジションで弾く非常に高度なテクニックでもある。また、演奏中にボリュームやトーンのノブを細かく調整していることがある。1本のベースから多彩なトーンを得ようとする、ジャコならではの「サウンド」に対する執着心と細やかさが窺える。左手でポジションを押弦した状態から右手でハーモニクスを鳴らし、右手で低音弦の1〜5フレットをタッピングで鳴らす技も披露している。スタジオ録音においてはダブル・トラッキング を行うことがあり、フレットレスの微妙なピッチ・コーラス効果を巧みに使用していた。この効果は、ウェザー・リポートの『ヘヴィ・ウェザー』収録「A Remark You Made」や『ジャコ・パストリアスの肖像』収録「コンティニューム」などで聴くことができる。この効果をステージ上で再現するために、MXR社製デジタル・ディレイを使った疑似ダブリング効果を用いていた。オーディオ・サンプリング機能の初歩的機能でもあるサウンド・メモリー機能も使い、サウンド・オン・サウンド方式でソロ・パフォーマンス時における彼独自のスラッピングしたフレーズなどをループさせて特定のリズムを作り、その上でソロを弾いた。毎度おなじみの光景ながら、観客はそのパフォーマンスを楽しんだ。ライブ中でのベース・ソロ終盤には概ねディストーションを掛けた状態でのハーモニクス奏法で『ジャコ・パストリアスの肖像』収録「トレーシーの肖像」を弾き始め、ジミ・ヘンドリックスの「Third Stone From The Sun」などから有名なフレーズも引用したプレイの後、ベースを床に置きハーモニクスを鳴らしフィードバックが続いている中、忽然とステージから消え、再び現れてベースのボリュームを絞りフィードバックを止めて楽器を休める、といったような光景だった。ウェザー・リポートでのコンサート時には興奮してのってくると曲の途中で雄叫びのようなシャウトをあげたり、「ジャコのカニ歩き」としても有名になっている、素早い横歩きでステージ上を右往左往する動きなどでファンを盛り上げていた。ジャコはウェザー・リポート、ワード・オブ・マウス・ビッグバンド、ジャコ・パストリアス・バンド、ギル・エヴァンス・オーケストラでの来日など、数多くのコンサート出演として来日していた。そして、来日が途切れてしまった1985年以降から死去する1987年までは、上述の状況から国内及び海外メディアからの情報がほとんど無くなってしまい、ジャコの状況はファンにとって掴みにくくなっていった。Jaco 2014年製作
出典:wikipedia
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