LINEスタンプ制作代行サービス・LINEスタンプの作り方!

お電話でのお問い合わせ:03-6869-8600

stampfactory大百科事典

豊年斎梅坊主

豊年斎梅坊主(ほうねんさい うめぼうず、嘉永7年〈1854年〉 - 昭和2年〈1927年〉)とは、かっぽれの名人として後世に知られる芸人。略称「梅坊主」としてもよく知られる。本名は松本梅吉。兄の平坊主(明治4年没)とともに、願人坊主であった。神田から下谷一帯で門付けをしたり、長屋仲間である浪花節、デロレン祭文などの芸人と共に、阿呆陀羅経で秋葉っ原などのヒラキに出たりしていた。有名になってから証言も変わるため、初期の実態はわからないことが多い。本姓の松本にちなんで兄と共に「松本講四郎一座」を作る。かっぽれだけでなく、茶番狂言、俄芝居、道化芝居のようなものを仕組んで興行していた。座員は兄弟、太閤の藤吉、初坊主、八卦の重吉、けし面の藤吉、南京豆の米吉、和藤内の鬼松に三味線2名からなり、他に伊勢音頭、掛合の軽口芸などもしていた。1886年(明治19年)、不入りだった活歴物の歌舞伎で「かっぽれでも踊れ」と新聞に投書された九代目市川團十郎に新富座でかっぽれを教え、團十郎は本当に舞台でかっぽれを踊る(河竹黙阿弥作『初霞空住吉』)。この興行が大好評で、芸者衆は座敷で踊り、市中にかっぽれはいっそう普及する。1893年(明治26年)に一座は渡米し、サンフランシスコの劇場に出るが、低俗卑猥な演技が不評で帰国する。このように社会の最下層と見られていた願人坊主出身では異例の活躍をし、なおかつ芝・新網町に住むことを続け、隠さなかった。また、かっぽれを寄席芸として明治・大正をまたいで登場する。帝国ホテル演芸場などに出演、梅坊主だけが名を売ってかっぽれの本家とされ、1924年(大正13年)帝国ホテル演芸場での公演後、長男に2代目梅坊主を名乗らせ、二男を平坊主とした。梅坊主自身は隠居後、豊年斎太平坊と称し、晩年は関東大震災で倒壊した凌雲閣に付属し残った「凌雲座」に出演し続け、1927年(昭和2年)に没した。住吉踊り(かっぽれの別名)は幇間の座敷芸としても人気を高めた。かっぽれなどの音曲もの、掛け合い軽口、阿呆陀羅経の音源が残っている(フレッド・ガイズバーグの出張録音など。詳しくは快楽亭ブラック_(初代)の項を参照)。以下はSPレコードのレーベル部分。

出典:wikipedia

LINEスタンプ制作に興味がある場合は、
下記よりスタンプファクトリーのホームページをご覧ください。