劉 継恩(りゅう けいおん)は、十国北漢の第3代皇帝。後世の史家は少主、少帝、廃帝などと称している。父の薛釗は士兵に過ぎなかったが、世祖劉旻の娘を娶って存在感を示した。劉旻の兄である劉知遠が後漢の皇帝に即位した後、酒宴の席でその妻を傷つけたかどで自殺を命じられた。このとき継恩は幼少であったため連座を免れ、また叔父の睿宗劉鈞に嗣子がなかったことからその養子となった。睿宗の代には太原尹に任じられたが、政治資質に乏しく睿宗は郭無為に対して劉継恩を「済世の才でない」と評価している。天会12年(968年)、睿宗が崩御すると皇位を継承した。しかし実質的には郭無為が政権を掌握した状態が続いた。即位2か月後に酒宴の席で供奉官の侯霸栄に刺殺され、弟の劉継元(英武帝)が後を継いだ。
出典:wikipedia
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