九五式軽戦車(きゅうごしきけいせんしゃ)は、1930年代中期に開発・採用された大日本帝国陸軍の戦車(軽戦車)。秘匿名称「ハ号」(「イ号」は八九式軽戦車、「ロ号」は九五式重戦車)。日本戦車としては最多の2,378輛が生産され、九七式中戦車 チハ(チハ車)とともに第二次世界大戦中の日本軍の主力戦車として運用された。1920年代後半に開発・採用された、日本初の国産量産戦車である八九式軽戦車(後の八九式中戦車)は、本来陸軍が英国からの購入を求めたヴィッカース Mark I軽戦車(11.7t)や、その代わりの参考用に輸入したビッカースC型中戦車(11.5t)のように、1920年代当時の世界水準に合わせて10t程度の戦車として開発された。改修を重ねたため、最終的に車重11.8tとなったが、スペック上では良道を最高速度 25km/h で走行することが可能だった。この最高速度は、同時期の欧米戦車(ソ連のT-18、米国のT1中戦車、英国のヴィッカース Mark II中戦車)などと比較しても同等水準であり、むしろ陸軍が研究用に輸入していたフランスのルノー甲型・乙型(ルノーFT-17軽戦車・NC27軽戦車)と比べれば速い方であった。この頃の陸軍部内では機械化部隊の創設を模索している最中であり、戦車としての性能という観点から見れば一定の水準に達していたため、採用時点では大きな不満はなかった。しかし、1930年代になると技術力の向上によりトラックを含む自動車の最高・巡航速度も上がり、実際に運用した際、八九式の25km/hですらトラックの40km/hに追いつけず、不十分となった。また欧米では、1930年代に各国に広く輸出されたヴィッカース 6トン戦車(1928年)や、ソ連の快速戦車BT-2(1931年)が登場するなど、従来より高速を発揮可能な新型戦車が配備されるようになった。さらに八九式は中国戦線における悪路、路外での投入では最高速度を発揮できず、8km/h ~ 12km/h 程度が実用速度となった。このような機動力では、最前線で歩兵部隊に随伴し支援を行うには問題ないが、路外で追撃戦を行うのには遅過ぎた。1933年(昭和8年)の熱河作戦にて最高速度 25km/h の八九式軽戦車は次々と脱落し、最高速度 40km/h の九二式重装甲車が活躍したこともあり、トラックとの協同作戦行動ができる戦車の必要性を痛感した陸軍は、機動力に富んだ「機動戦車」の開発を開始した。また、船舶輸送や揚陸、渡河などの日本軍の戦車運用能力という観点から見た場合、10t前後という重量は決して運用できない数値ではなかったが、日本軍の運用に適した重量は、6t前後であることが判明した。1933年の作戦や実戦の戦訓から機動力を重視するようになった帝国陸軍にとって、八九式は遅く、重く、運用しづらいなど、「軽戦車としては」失敗作となってしまった。ただし、八九式は1920年代の思想で作られた戦車であり、設計時期も1928年からと遅かったことも影響した。結果的に1930年代の戦車の高速化の時代に対応できず、一世代遅れの戦車となってしまったが、設計時期を考慮すれば、後年の戦車より八九式が劣るのは当然であり、こうした点をふまえずに失敗作というのは短絡的である。また、主力となる新型戦車は、ある程度の数を揃える必要性と財政上の理由からも、安価な軽戦車とすることが決まっていた。こうして上述の要求(軽くて速くて運用しやすい)を基に、八九式「軽戦車」の後継の、機甲戦力の主力となる戦車として、九五式軽戦車は開発された。1935年(昭和10年)の九五式軽戦車の採用に合わせ、重量の増えた八九式は新たに中戦車の区分(10tより上~20t以内)を設けた上で中戦車に再分類された。同時に重戦車の分類基準も引き上げられた。こうして1920年代後半の「軽戦車(主力・多数)と重戦車(補完・少数)の二本立て」で戦車隊を整備するという日本陸軍の構想は、1930年(昭和5年)を境に大きく転換し、最新の軽戦車と豆戦車が研究用に輸入され、1930年代前半の「軽量化と高速化」の要求に対応し、1935年(昭和10年)に重戦車が中戦車に置き換えられて「軽戦車と中戦車の二本立て」となり、暫定的に「九五式軽戦車(40km/h)と八九式中戦車(25km/h)」の組み合わせを経て、1937年(昭和12年)に「九五式軽戦車(40km/h)と九七式中戦車(38km/h)」の組み合わせでようやく達成されるのと同時に、戦車に対する方向性が確立されることとなった。九五式軽戦車は軽量・快速だが小型・軽装甲であり37mm戦車砲の榴弾の威力が小さい(危害範囲が狭い)ので、本車を補完するために、八九式「中戦車」の後継として、八九式よりも最高速度と装甲厚を増した九七式中戦車が開発された。榴弾の威力が大きい(危害範囲が広い)が装甲貫徹能力に劣る短砲身57mm戦車砲を搭載した九七式中戦車は、「火力支援戦車」「歩兵支援戦車」の色合いが濃い物であった。よく誤解されがちであるが、「九五式軽戦車が余りに非力で主力となる戦車になれない失敗作だったので、代わりに九七式中戦車が開発された」わけではない。また、「中戦車である九七式が主力となる戦車で、軽戦車である九五式が補助となる戦車」という見方は、第二次世界大戦後半の、軽戦車が陳腐化した状況からの間違った見方である。開発当時はあくまでも九五式軽戦車こそが主力であり、九七式中戦車はそれを補完する存在であった。いわば両車は、ドイツ陸軍のIII号戦車とIV号戦車、イギリス陸軍の巡航戦車と歩兵戦車のような関係であった。こうした日本陸軍の戦車運用に関する戦闘教義が変化するのは、試製九八式中戦車に試製四十七粍戦車砲を搭載することによって、中戦車にも強力な対戦車戦闘能力を求めるようになった、1939年(昭和14年)頃からだと考えられる。本車は日本において初めて、設計および試作段階から、民間企業(三菱重工業(1934年(昭和9年)から。開発開始時は三菱航空機))によって開発された戦車である。九五式軽戦車の開発のそもそもの契機は、関東軍による機械化実験部隊(後の独立混成第1旅団)の編成計画とされる。開発開始前年の1930年(昭和5年)に研究用にヴィッカース 6トン戦車E型 Type A(双砲塔型)1輌を輸入し、1931年(昭和6年)9月に千葉の陸軍歩兵学校が関東軍の要望を基に「歩兵戦闘用軽戦車」の研究要望案を提出、1931年(昭和6年)から開発が始まった。
1932年(昭和7年)に陸軍技術本部に軽戦車開発の要望の具体的な概要が提示されたが、満州事変の一環として熱河作戦(1933年(昭和8年)2月23日~5月31日)が行われたことを受け、「機動戦車」の開発要請が出された。同年6月に設計開始、9月までに設計完了、試作車1輌の製造が発注され、翌1934年(昭和9年)6月に最初の試作車(試作1号車、第一次試作車)が完成した。この試作1号車には車体側面のバルジと車長展望塔と砲塔後部機関銃が付いておらず、砲塔上面に横開き式のハッチが設けられ、誘導輪(アイドラーホイール)に歯(スプロケット)が付いていた。
試作1号車は千葉県の富津射場などでの射撃試験、碓氷峠など関東平野各地で走行距離710kmの運行試験が行われた。最大速度は43km/hを発揮したが、重量が7.5tを超過したため軽量化されることになった。1934年(昭和9年)10月に重量を1t減らした改修型試作車が製造され、翌1935年(昭和10年)11月に、車体側面のバルジと、前後に開くハッチを持った車長展望塔が追加された、第二次試作車が3輌完成した。この間、騎兵・戦車部隊での各種試験が行われた。12月16日に「試製6t戦車」は「九五式軽戦車」として仮制式化(仮制定)された。翌1936年(昭和11年)11月に量産車と同じく砲塔後部に機関銃が追加された増加試作車が完成し、満州で寒冷地試験が行われた後、制式採用された。生産は1936年(昭和11年)から始まり、1943年(昭和18年)9月の生産終了までに、生産数は三菱重工業の自社工場(大井、丸子)で約半数弱、その他、相模陸軍造兵廠、日立製作所、新潟鐵工所、神戸製鋼所、小倉陸軍造兵廠などで残りの約半数強。3人乗りの小型の車体に全周旋回可能な37mm砲という組み合わせは、開発当時には世界的に見て標準的なものであった。ただし、採用された九四式三十七粍戦車砲は、歩兵砲である狙撃砲の改良型であり、長砲身化したものの砲尾等の強化はされず、同時期に開発・採用された対戦車砲・九四式三十七粍砲のような初速の高い弾薬筒は使用できなかったため、同時代の同口径の戦車砲を装備した他国の戦車、及び同口径の対戦車砲全般に対して本車は装甲貫徹力の面で大きく劣ることとなった。後に九四式三十七粍砲の弾薬筒をそのまま利用できる九八式三十七粍戦車砲を搭載するようになったが、当時既に九四式三十七粍砲自体がアメリカ陸軍の強力なM3軽戦車などの当面の目標に対して貫徹力不足であり、劣勢が変わることはなかった。九四式/九八式三十七粍砲は、高低射界は仰角20度、俯角15度で、方向射界は砲塔を旋回させることなく主砲を左右に10度ずつ旋回することができる機構を取り入れていた。砲の俯仰旋回は車長兼砲手が肩に当てたパッドを使って行った。九五式軽戦車の砲塔の旋回は、(九四式軽装甲車の方式と混同されて)「旋回ハンドルではなく、車長兼砲手の肩を主砲に当てて回転させる、人力旋回方式である」と、しばしば誤解されることがあるが、実際には戦車砲左下の砲塔基部に旋回ハンドル(旋回転把)が存在し、これにより砲塔旋回を行う。砲塔はヴィッカース 6トン戦車E型 Type B 単砲塔型のように、車体左寄りに偏って配置されていた。この砲塔を偏らせて配置する方式は、以後、九五式軽戦車の設計の拡大版である九七式中戦車系列(九七式中戦車・九七式中戦車新砲塔・一式中戦車・四式中戦車試作車)にも引き継がれる、日本戦車の特徴のひとつとなる(ただし九五式軽戦車とは反対側の車体右寄りである)。また、車内レイアウトは人間工学的には無理があり良好とは言えず、特に狭い砲塔には前方の37mm砲に加え、後部に車載重機関銃が詰め込まれ、その両方の装填から射撃までを車長一人で操作しなければならなかった。そのため現場では砲塔後部の車載重機関銃を降ろして搭載しない車輌も多かった。本車は八九式中戦車乙型の「三菱A六一ニ〇VD」(イ号機とも呼ばれる)をコンパクト化した、「三菱A六一二〇VDe」(「ハ号機」とも呼ばれる)空冷直列6気筒ディーゼルエンジンを搭載した。「A」は「空冷 Air-Cooled」、「六一二〇」は「6気筒120馬力」、「V」は「縦型=垂直(シリンダー)=Vertical=直列」、「D」は「ディーゼル Diesel」の意味である。エンジンは車体後部右側に偏って配置された。消音器と排気窓も車体上部の右側面に配置された。エンジンの左側には空間があり、戦闘室と機関室の間の隔壁に連絡扉(アクセスハッチ)が設けられ、車内からエンジンの点検整備ができるはずであったが、実際には空間が狭過ぎて人が出入りできなかった。試作車の車体後部には大型の出入口扉(点検窓)があったが、量産車では廃止された。起動輪は前方に、誘導輪は後方にある、前輪駆動方式であった。足回りには九四式軽装甲車から導入された「シーソー式サスペンション」を採用した。転輪は中型の物を片側4個、支持輪は片側2個であった。履帯幅は250mmであった。本車は、最大速度25km/hの八九式中戦車から大きく速度向上を果たし、トラックとの協同作戦行動が可能な最大速度40km/h以上の速度を発揮できた。試作車は重量が7.5tを超過した状態であったが最大速度43km/hを発揮している。6.5tに軽量化された改修型試作車は最大時速45kmを発揮した。連合国に鹵獲された本車は最大速度40km/h以上の速度を記録しており、当時の連合軍の試験記録映像によればスチュアート軽戦車(英軍のアメリカ製M3A3軽戦車)と競争した結果「我が方(M3A3軽戦車)は九五式軽戦車より10%速い」としている。なお英国ボービントン戦車博物館に展示されている九五式軽戦車の解説パネルには「最大速度30マイル(約48km/h)」と記載されている。軽量化とディーゼルエンジンの採用により、航続距離は250kmとなっている。本車の前中期型には九四式三十七粍戦車砲が搭載された。弾頭と薬莢が一体となった完全弾薬筒式である。弾薬は軟目標射撃用の榴弾として九四式榴弾・一式榴弾、硬目標射撃用の徹甲弾として'九四式徹甲弾・一式徹甲弾を使用する。また、演習弾として九四式榴弾代用弾・九四式徹甲弾代用弾を使用できる。九四式三十七粍砲と同じ弾頭を使うものの薬莢は短いものを使用し、弾薬筒レベルでの互換性はない。また、装薬量も少なく、初速が遅いため装甲貫徹能力は同砲より劣っていた。九四式三十七粍戦車砲は、ルノー軽戦車に搭載されていた旧式化した狙撃砲の後継と言えるものであり、同年に制式化された九四式三十七粍砲のような初速の高い弾薬は使用できなかったため、同時代の同口径の戦車砲を装備した他国の戦車、及び同口径の対戦車砲全般に対して装甲貫徹力の面で大きく劣ることとなった。ただし、歩兵砲由来の戦車砲を搭載したことによる貫徹力不足は、同じく37mm歩兵砲由来の主砲を搭載したフランスのルノー R35軽戦車などと共通する問題点とも言える。ただし、後期型では九四式三十七粍砲と同一の弾薬筒を使用する九八式三十七粍戦車砲が搭載され、装甲貫徹能力が向上させるなど対策が行われており、R35もスペイン内戦の戦訓を受け、結果的にフランス降伏までに全車両の換装は間に合わなかったものの、1939年から既存車両の主砲の換装を行うなど、九五式と似たような対策がとられており、この点については九五式特有の問題というわけではない。九八式三十七粍戦車砲は、九四式三十七粍砲や一〇〇式三十七粍戦車砲と弾薬は同一であり共用可能であった。九八式三十七粍戦車砲と貫通威力が近似するとされる(弾薬筒が共用であり初速の差が約15m/s程度)九四式三十七粍砲の場合、九四式徹甲弾の装甲板に対する貫徹能力は350mで30mm(存速575m/s)、800mで25mm(同420m/s)、1,000mで20mm(同380m/s)であり、一式徹甲弾(全備筒量1,236g)の貫徹能力は第一種防弾鋼板に対して射距離1,000mで25mm、砲口前(距離不明、至近距離と思われる)では50mmであった。また1942年5月の資料によれば、九八式三十七粍戦車砲と貫通威力が近似するとされる九四式三十七粍砲は、試製徹甲弾である弾丸鋼第一種丙製蛋形徹甲弾(一式徹甲弾に相当)を使用した場合、以下の装甲板を貫通するとしている。九四式三十七粍砲を鹵獲したアメリカ旧陸軍省の1945年8月の情報資料によれば、垂直装甲に対して射距離0ヤード(0m)で2.1インチ(約53mm)、射距離250ヤード(約228.6m)で1.9インチ(約48mm)、射距離500ヤード(約457.2m)で1.7インチ(約43mm)を貫通するとしている(ただし使用弾種は九四式徹甲弾となっているが、貫徹威力が日本側の一式徹甲弾のデータと近似していることから、米側の表記ミスか双方の徹甲弾を混同した可能性がある。)。なお、九四式三十七粍戦車砲用に配備された一式徹甲弾(全備筒量1,056g)は、九八式三十七粍戦車砲・一〇〇式三十七粍戦車砲・九四式三十七粍砲用の同弾(全備筒量1,236g)と弾頭は共通であるが薬莢長が短く、初速が低いため装甲貫徹能力も低下している。したがって九八式三十七粍戦車砲を装備した後期型の本車であっても、M4中戦車の車体側面・後面(装甲厚約38mm)やM3軽戦車の正面装甲に至近距離から正撃に近い形で命中させなければ貫通は困難と思われる(ただし、後述する実戦での事例においてM4中戦車を撃破した可能性のある事例が存在する)。これらの徹甲弾はいずれも弾頭内に炸薬を有する徹甲榴弾(AP-HE)であり、貫徹後に車内で炸裂して乗員の殺傷及び機器の破壊を行うのに適していた。なお、日本軍の対戦車砲全般に対し、貫徹能力の低さについて「当時の日本の冶金技術の低さゆえに弾頭強度が低く徹甲弾の貫徹能力が劣っていた」と揶揄されたり、徹甲弾弾頭の金質が悪かったという指摘、装甲板に当たると弾頭が砕けたり滑ってしまうため、貫徹力が発揮できなかったという指摘がある。九四式三十七粍砲・九四式三十七粍戦車砲で使用された九四式徹甲弾や、九〇式五糎七戦車砲・九七式五糎七戦車砲で使用された九二式徹甲弾等は、弾殻が薄く内部に比較的大量の炸薬を有する徹甲榴弾(AP-HE)であり、厚い装甲板に対しては構造的な強度不足が生じていた。後にこの点を改善した一式徹甲弾が開発・配備されることとなった。なお、九四式徹甲弾も制式制定当時の想定的(目標)に対しては充分な貫通性能を持っていると判定されて採用されたものである。後に開発された一式徹甲弾では貫徹力改善のために弾殻が厚くなっている。諸外国の例としてアメリカ陸軍のM3 37mm砲の徹甲弾(AP)である「AP M74 shot」は、砲弾の中心まで無垢の鋼芯であり、構造的な強度上では砲弾の中心に炸薬がある五糎七戦車砲の九二式徹甲弾や九四式三十七粍砲の九四式徹甲弾のような徹甲榴弾(AP-HE)よりも有利である事が分かる装甲については用兵者側でも評価が分かれていた。1935年(昭和10年)12月の第13回審議会において、騎兵科では、自動車と行動できる機動力を確保するため、防御力が若干落ちてもやむをえず、装甲の弱さは機動性を生かした総合的な防御力で補えばよいとした。他方、歩兵科系列の戦車部隊は、機動力・武装は十分だが装甲については現状では不十分で、このままでは戦車としての価値は低く、せめて装甲厚30mmは欲しいと主張した。これは1,000mの距離からの37mm対戦車砲にギリギリ抗堪できる装甲厚であった。最終的には、本車の当初の開発意図である「機動戦車」としては12mmの装甲厚で十分との結論が下された。これは7.62mm徹甲弾にギリギリ抗堪できる装甲厚であった。歩兵科側の要求は、別途開発される戦車(九五式重戦車や九七式中戦車)において実現させる意図から、九五式軽戦車の性能は潔く割り切ったものと考えられる。
なお、小銃弾にも耐えられないという問題に対しては、第二次試作車から車体側面の砲塔基部に避弾経始に優れたバルジ(張り出し)状の装甲を追加する改良が行われ、量産車からは第二次試作車よりも大型のバルジが採用された。バルジは左右対称ではなく、左右で微妙に大きさが異なっていた。前照灯は戦闘時の被弾による破損を避けるため、不使用時は180度回転させることができた。それよりも、同時期に登場した他国の37mm程度の砲を装備した軽戦車(ルノーR35、BT-5、LT-38など)が概ね10t前後の車重を有したのに対し、本車はそれより一回り少ない約7tに制限されたことは、本車の限界を決定付けた主要因となった。これは日本は島国であるが故に、戦車を国外に移動させる時は船舶を用いざるを得ず、当時の標準的な港湾設備や船載クレーンの能力から、重量を6t以内に収めることが要求されたことによる選択であったとも言われる。また、当時の日本の技術力では高出力軽量の戦車用ディーゼルエンジンが開発できず、エンジン重量がかさんだこともあり、装甲厚を薄くして車重を軽量化するしかなかった。本車は、他国の戦車の設計思想が対戦車戦を意識するようになりつつある中で開発された、日本初の対戦車戦闘を考慮した戦車である。しかし、その対戦車能力は低く、敵戦車との戦闘では常に苦戦を強いられた。一方で機動力が優れており、有力な機甲兵器・対戦車兵器を持たない軍隊との戦闘ではそこそこの活躍をみせた。初めて九五式軽戦車が本格的に投入されたノモンハン事件では、3輌一組のフォーメーションを組んだ上で、ソ連軍のT-26軽戦車やBT-5戦車と戦闘し、撃破に成功した事例も存在する。これは猛訓練の結果でもあり、無線をほとんど使わずに行動する「以心伝心」の様なものであったとされるが、基本的に装甲が薄い同時期の軽戦車が相手であれば本車の九四式三十七粍戦車砲でも対応可能だったことも窺える。ただし、同事件での戦車部隊の作戦期間は短期間だったこともあり、戦車単独での戦果はごく少なく、また本車も一部が鹵獲されている。同事件でソ連軍戦車を多数撃破したのは歩兵連隊に配備された九四式三十七粍砲(対戦車砲)であり、敵味方ともその戦果を高く評価している。日本と友好関係にあったタイにも40輌から50輌が輸出され、太平洋戦争の開戦前に仏領インドシナとの間に起こった国境紛争で活躍した。ただし、温度変化の影響か、1/4以上の車輛について装甲に自然にひび割れが生じる不具合が起き、クレームが付けられる事態となった。太平洋戦争(大東亜戦争)緒戦である一連の南方作戦の内、フィリピン攻略戦においてアメリカ極東陸軍第192戦車大隊()所属のM3軽戦車と遭遇した事例(1941年12月22日、アメリカ軍にとって第二次世界大戦最初の戦車戦とされる)では、九五式軽戦車がM3軽戦車小隊5両を撃退することに成功したものの、ビルマ攻略戦にてイギリス・インド軍のM3軽戦車と遭遇した事例(1942年3月5日)では、九五式軽戦車が次々と命中弾をあたえたにも関わらず、全て跳ね返された。M3軽戦車はフランス戦の戦訓からM2軽戦車を元に開発され、本車の約2倍の重量があり(12.7tと八九式中戦車よりも重い)、車体前面で38mm、砲塔前面で51mmの重装甲が施されていた。これは九四式三十七粍戦車砲では砲口初速でも射貫できない装甲厚である。また、M3_37mm砲は当時の同口径の戦車砲・対戦車砲の中では最も高性能であり、有効射程内のどの距離でも九五式軽戦車の装甲を正面から貫通できる性能を持っていた。九五式軽戦車は、最終的にはM3に体当りまでして応戦する羽目に陥った。一方でエンジンの故障は少なく長距離走破にもよく耐え、特にマレー作戦においては九七式中戦車とともに電撃戦を行い活躍した。中にはマレー半島からスマトラ島へ転戦し、2,000km以上の走行に耐えた車輛もあった。大戦後半の防御主体の作戦においても、後継車両の不足と貴重な機甲戦力のため、タラワの戦い、ペリリューの戦い、サイパンの戦い、硫黄島の戦い、沖縄戦、占守島の戦いなど終戦に至るまで様々な戦線へと投入された。硫黄島には本車12両と九七式中戦車(新砲塔)11両を装備する戦車第26連隊(連隊長男爵西竹一陸軍中佐)が配備されていたが、西中佐は当初、機動兵力として戦車を運用することを計画したものの、熟慮の結果、移動ないし固定トーチカとして待伏攻撃に使われることになった。移動トーチカとしては事前に構築した複数の戦車壕に車体をダグインさせ運用し、固定トーチカとしては車体を地面に埋没させるか砲塔のみに分解し、ともに上空や地上からわからないよう巧みに隠蔽・擬装されていたとされているものの、実際には至近距離での戦車戦を行っていたという目撃証言が残されており、真相は不明である。占守島には本車25両、九七式中戦車(新砲塔)39両を擁する精鋭部隊である戦車第11連隊(連隊長:池田末男大佐)が展開しており、ソ連軍上陸後は連隊長車を先頭に四嶺山のソ連軍に突撃を行って撃退、四嶺山北斜面のソ連軍も後退させている。ソ連軍は対戦車砲4門・対戦車銃約100挺を結集し反撃を行い、池田連隊長車以下27両を擱座・撃破したが、四嶺山南東の日本軍高射砲の砲撃を受け、また日本側援軍の独立歩兵第283大隊が到着し残存戦車とともに参戦したため、上陸地点である竹田浜方面に撤退した。また、本車は海軍陸戦隊でも使用されており、1942年8月-9月に行われたニューギニア戦線・ラビの戦いでは呉第五特別陸戦隊戦車隊が本車2両を装備している。8月27日の夜襲では、本車の活躍によってオーストラリア軍の第一線陣地を突破したものの、滑走路付近にて敵の反撃を受け、また泥土によって行動不能となったため放棄されている。なお、タラワ戦においては本車及び九四式三十七粍砲によってアメリカ海兵隊のM4中戦車を撃破した可能性のある事例が存在する(アメリカ側の記録では海兵隊第1戦車大隊C中隊第3小隊所属の車輌「Charlie」は47mm対戦車砲による撃破となっているが、タラワ防衛を担当していた日本海軍の第三特別根拠地隊に配備されていたのは九五式軽戦車及び九四式三十七粍砲であり、一式機動四十七粍砲の配備は確認されていない)。終戦時の時点で九五式軽戦車は、日本本土の各部隊に446輌前後、南方軍には132輌前後が残存していたと思われる。その他、支那派遣軍・関東軍における残存数は不明である。生き残った車両は大部分が解体されたが、一部は八幡製鐵所など壊滅を免れた工場へ送られ、砲塔や武装を撤去した上で、ブルドーザーや牽引車として戦後復興に活躍し、警視庁ではキャビンを拡大した改造型が警備用装甲車両が充実する昭和40年代まで配備されていた。また北海道中央バス石狩線で積雪対策として馬そりを車輪代わりに使う雪上バス「バチバス」の牽引車として用いられていた(参考画像)。中国大陸において国民革命軍(国民党軍)や紅軍(共産党軍、人民解放軍)に引き渡された車輛は、国共内戦で両勢力により使用された。ちなみに、共産党軍が初めて編成した戦車隊は本車で構成されていた。フランス領インドシナに残された車輛はフランス軍が接収し、独立運動勢力に対する鎮圧戦で使用された。さすがに最大装甲厚12mmでは不安だったのか、この車両には車体前面、戦闘室前面および砲塔側面に増加装甲が施されていた。ちなみに同地では八九式中戦車の使用も確認できる(本車と一緒に写る写真が残っている)。1928年(昭和3年)に開発されたヴィッカース 6トン戦車は、安価で高速軽量な、画期的(ルノー FT-17 軽戦車やクリスティー式戦車と並んで、戦車界のエポックメーキング)な車輌であった。現在的な意味での戦車の基本形に忠実で、それゆえに、戦車技術の習得に最適であった。ユーザー各国の好みで、武装・装甲厚・車体形状・車格・エンジンなど容易に改良が可能で発展性に富んだ車輌であった。九五式軽戦車を含め、以下は全てヴィッカース 6トン戦車のライセンス生産、もしくは影響を強く受けた車輌であった。しかし、性能面では同じ祖先でありながら差が生まれた。九五式の走行速度は充分であり機動性は良好なものとなったが、最大装甲厚はわずか12mm(ヴィッカース 6トン戦車と同程度の装甲厚)となった。後の実戦においては各地で機動力を発揮した一方で、同時に被弾箇所によっては小銃弾すら装甲を貫通するという防御力の弱さゆえの苦戦も強いられることとなった。M2~M5軽戦車系列が、高出力のガソリンエンジンを搭載したことで余裕が生まれたため、強力な武装への変更や装甲を厚くするなどの改設計が可能であり、この結果、性能向上や兵器としての寿命を延ばすことが出来た。対して、九五式軽戦車は輸送の利便性や重量にこだわり、オリジナルのヴィッカース 6トン戦車よりもむしろ車体が小さくなったことや、低出力のディーゼルエンジンを搭載したため、九五式軽戦車自体の性能向上が出来なかった。ただし、前述のように二本立ての構想に沿って開発された戦車なため、一概に失敗作とは言い切れない。九五式軽戦車の存在が九七式中戦車 チハの開発を促しており(不採用に終わったが試製中戦車 チニは九五式軽戦車との部品の共通化を図っていた)、設計開発という点では、ある意味成功を収めたとも言える。また、M2軽戦車は、部品を共通化して開発されたT5中戦車(M2中戦車(原型はT5中戦車フェーズIII)とM3中戦車(原型はT5E2中戦車))を経て、M4中戦車(原型はT6中戦車)へと発達するなど、類似例も存在する。「九五式軽戦車対T-26」や「九五式軽戦車対M3軽戦車」の戦いとは、ヴィッカース 6トン戦車を母体とした物同士による戦いであり、「九七式中戦車対M3軽戦車」や「九七式中戦車対M4中戦車」の戦いはヴィッカース 6トン戦車の子孫同士による戦いだったとも言えるのである。収蔵・展示している、あるいはしていた博物館は以下のとおりである。また、博物館ではないが、かつて日本軍が戦った場所では本車の残骸が野外展示されていることもある。サイパン島のラスト・コマンドポスト(サイパン守備隊玉砕の地)には、高射砲に混じって完全に朽ち果てた本車1輌が展示されている。
出典:wikipedia
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