近鉄10100系電車(きんてつ10100けいでんしゃ)とは、近畿日本鉄道(近鉄)が1959年から1963年にかけて製造した特急形車両の1系列である。本項では解説の便宜上、上本町駅・近鉄難波駅寄り先頭車の車両番号+F(Formation=編成の略)を編成名として記述(例:モ10101以下3両編成=10101F)する。1952年1月の近鉄社内誌『ひかり』において次世代特急車の構想イラストを掲載するなど、この頃から既に斬新な特急専用車についての構想を持っていたが、それが具現化するのは1958年である。日本国有鉄道(国鉄)が東海道本線にカルダン駆動方式を用いた新性能の特急形車両である20系電車(後の151系)を登場させて「こだま」での運用を開始し、さらに同機構を採用した91系電車(後の153系)が東海道本線の急行・準急に投入されたため、名阪輸送で競合する近鉄は危機感を強めた。当時、名古屋線は大阪線・山田線と軌間(線路幅)が建設時の経緯から異なっており(名古屋線は1,067mmの狭軌、その他は1,435mmの標準軌)、名阪間を近鉄で移動するには両線が接続する伊勢中川駅で乗り換えを行う必要があったが、国鉄の準急「比叡」に対抗するためには、名古屋線を標準軌に改めて直通運転を行い、さらに国鉄の特急電車をも上回る設備の特急車を導入する必要があった。そのため同年、試作車として10000系ビスタカー(ビスタI世)7両編成1本を製造し阪伊特急に投入。その結果を受けて本格的な名阪特急用特急車として設計・製造されたのが本系列である。10000系の成果と反省を生かした量産型2階建て特急車で「ビスタカー」としては2世代目となるため、近鉄公式の通称は「新ビスタカー」である。30000系「ビスタカー」登場後は「ビスタII世」と呼称されるようになる。モ10100形(制御電動車) - サ10200形(付随車) - モ10300形(制御電動車)による3両編成である。他の特急車両との連結を考慮し、先頭車両は非貫通流線型と貫通型の2種類とされた。そのため本系列は3種類の編成が存在する。1959年に第1次車としてABC編成各4編成、翌1960年に第2次車AB編成各1編成とC編成2編成、1963年にC編成2編成の18編成54両全車が近鉄グループの近畿車輛で製造された。第2次車製造時に各編成の番号を揃えるため以下の改番が行われている。なお、上記編成の改番により以下の2編成が製造発注時と落成時の車両番号が変更された。10000系の設計を踏襲し、側窓を複層ガラスによる固定窓とする空調完備の全金属製準張殻構造車体である。窓配置はモ10100・10300形がdD8、サ10200形が上下階とも側窓が5枚ずつの5/5D(d:乗務員扉、D:客用扉)で、客用扉は10000系の850mm幅4枚折り戸ではなく750mm幅の2枚折り戸とされ、側窓はいずれも1.5m幅の大窓とされた。車体幅は2,800mm、高さ方向の寸法はモ10100・10300形で屋根高さ3,600mm、床面高さ1,100mm、框高さと窓天地をともに750mmとし、以後12600系に至るまでの基準が確立された。座席はサ10200形1階のみシートピッチ1,040mmの大型テーブルつき固定式クロスシートで、それ以外はシートピッチ920mmの2人掛け回転式クロスシートとし、いずれの座席にも2250系から継承されたシートラジオを装備したほか、車内には列車公衆電話・冷水機を設置した。サ10200形の2階席部分は快適性向上と収容力拡大を目的として、ドーム構造で2階席が2列+1列であった10000系に比して各部寸法を当時の車両限界の最大値ぎりぎりまで拡大することで、2階席を2列+2列構成としており、本来であれば建築限界に抵触する規格外仕様として許認可が得られないところを実際の建築物に影響がないことを前提として、運輸省(現・国土交通省)から特認を得ることで問題を解決した。10000系同様、スペースの制約上から網棚は未装備である。塗装は窓周りが藍色(ネイビーブルー)でその他がオレンジ(ただしトイレ改造工事施工までは階下席窓下部はグレー)のツートンカラーになり、以後21000系「アーバンライナー」など固定編成を組む車両を除いた特急用車両の標準色になった。近鉄大阪線列車衝突事故の時に連結されていたのはC編成であった。流線型運転台の前面曲面ガラスは、製造技術の問題からV1編成のモ10101のみ左右4枚構成。以降は2枚構成とした。試作車の10000系では、ボギー構造の電動車ユニット2組間に両端車体を2階建てとした3車体連接構造の付随車ユニットを前後から挟み込んだ混合編成とを採用したが、本系列では両端車体を普通構造の電動車とし中間車体を2階建てとする3車体連接車となった。これに伴い、連接台車を含めた1編成4台車をすべて電動台車としたため、通常のボギー車であれば電動車2両分に相当する走行性能を確保した。主電動機は三菱電機MB-3020Dを各台車に2基ずつ搭載する。駆動装置はWNドライブで、歯数比は1:3.85。全電動車方式で起動加速度2.5km/h/s・減速度4.0km/h/s・平坦線釣り合い速度150km/h・許容速度170km/h・33‰上り勾配釣合速度98km/hの走行性能を実現した。三菱電機ABFM-178-15MDHで、力行が直列15段・並列19段・弱め界磁4段・界磁4段、発電制動が弱め界磁4段・抵抗15段の電動カム軸式自動加速制御器である。日立製作所HG-584-Arがモ10300形に設置された。東洋電機製造PT-42-Qがモ10100形に2基搭載された。抑速制動・発電制動と同期するHSC-D電磁直通ブレーキを装備する。D-3-FRがモ10300形に設置された。全車ともベローズ式空気ばねを枕ばねとして備える、近畿車輌製のシュリーレン式円筒案内式台車を装着する。全電動車方式のため、基礎ブレーキ装置は全形式とも台車シリンダー式の両抱き式踏面ブレーキを搭載する。10000系までの川崎重工業KM-7集中式冷房装置の採用を止めて、冷凍能力20,000kcal/hの日立製作所製集中式冷房装置をサ10200形の前後デッキ部に設けられた機械室に各1基搭載し、そこから自車だけでなく、前後の電動車へたわみ風洞を用いて冷風を供給する構造とした。1967年より18編成中10編成について車内販売準備室を撤去し、ミニスナックコーナーを設置する工事を施工。1969年頃より、トイレは汚物タンク設置改造により全体の位置をかさ上げする形で移設された。これによってトイレの上部が2階席スペース内にはみ出す形になり、その部分を荷物置き場としている。1975年頃より先頭車にスカート(排障器)を設置。また改造ではないが、1967年夏に3か月間程10103Fにテレビ受像機を搭載。モ10303にテレビアンテナ2基をカバーで覆い設置する試験を行ったが、大阪線山間部での受像能力の関係で採用を見送った。1959年12月に伊勢湾台風の復旧と合わせて名古屋線の改軌工事が完成し、それに伴い名阪ノンストップ特急が運転を開始すると、本系列は当初の予定とおり6両編成で運用に投入され、上本町駅(現・大阪上本町駅) - 近鉄名古屋駅間を下りが2時間20分、上りが2時間27分で走破した。その後1963年3月には名阪間(鶴橋駅 - 近鉄名古屋駅間)2時間10分に短縮され、当時の国鉄を価格・速度・居住性などの面で凌駕した。これにより名阪間の市場占有率(シェア)は1963年には近鉄が69.4%を占めるなど圧倒的な力を持つことになるが、1964年に東海道新幹線が開業し「ひかり」が名阪間(名古屋駅 - 新大阪駅間)1時間31分(翌年1時間8分に短縮)で運行するようになると勝負にならなくなり、1965年にはシェア32.7%、翌1966年にはシェア19%まで急速に下落した。そのため、1965年以降は本系列は新幹線に接続する名伊特急や阪伊特急などへ転用され、他系列との混結運用が増加し、本系列のみによる6両編成での運用は大幅に減少した。その後に開発された12000系・12200系「スナックカー」登場後は、本系列も「車内売店」として一部の編成に「ミニスナックコーナー」を設置し、軽食・茶菓を提供した。以後の名阪特急は本系列の3両単独編成や12000系の2両編成による運行となったが、1975年には本系列は名阪ノンストップ特急の運用から外れ(ミニスナックコーナーの営業もその頃に廃止)、その直前からは車両限界の制約がなくなった京都線・橿原線にも一部が転用されるようになった。しかし以下の問題点が露呈しはじめていた。これらの点で1977年から廃車が開始され、1979年には30000系を後継車とする形で全車廃車が決定された。廃車直前の時期は名伊乙特急・京奈特急・阪奈特急などで運用された。しかし本系列は近鉄を象徴する車両であったため、1978年春から廃車を記念し試運転でも実施されることのなかったA編成+C編成+B編成の3編成併結9両編成で名伊・阪伊乙特急に投入され、翌年7月のさよなら運転まで続いた。本系列は1979年10月の10118Fをもって全車廃車された。当該編成は廃車後も1年あまり高安検車区に留置されていたが、その後解体された。保存目的も含め現存する車両はない。廃車後は以下の部品が転用された。
出典:wikipedia
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