犬塚 弘(いぬづか ひろし、1929年3月23日 - )は、日本の俳優、ベーシスト。「ハナ肇とクレージーキャッツ」メンバー。2016年現在、同メンバー唯一の存命者。本名、犬塚 弘(いぬづか ひろむ)。愛称はワンちゃん。境事務所所属。東京市大森の生まれ。生家は代々の裁判官の家系であり、江戸っ子の16代目にあたるという。また、元は徳川家康と共に三河から江戸へ出てきた直参の旗本の家柄で、祖父の代まで十数代にわたり現在の新橋第一ホテル本館の一帯に居を構えていた大地主だったともいう。父が貿易商で海外勤務が多かったことからジャズやハワイアンのレコードに親しみ、音楽への興味を育まれる。暁星中学校、陸軍飛行学校を経て、1949年、文化学院社会学部を卒業。在学中は羽仁五郎、神近市子、仁戸田六三郎らの教えを受けた。貿易業をしていた父親の友人であるアメリカ人の紹介で、当時進駐軍の統計調査をしていたIBMに入社するが、その紹介者が帰国した直後、2年で退社。職場のアメリカ人たちからいじめを受けたのが直接の理由だという。 IBM退社後、1951年、兄が作ったハワイアンバンドグリーン・グラス・キャップ・ボーイズに参加。このとき、兄から「背が高いからベースをやれ」と言われ、そのままベースを受け持った。このとき、真面目な性格ゆえ日本フィルハーモニー交響楽団の指揮者に基礎から個人レッスンを受けた。1952年、シックス・レモンズの与田輝雄の誘いで萩原哲晶とデューク・オクテットに参加。モダンジャズを演奏するようになる。しかし当時のジャズのしかつめらしさになじめないものを感じ、そのころ楽屋にたびたび遊びに来ていたハナ肇の誘いでクレージーキャッツの前身である「ハナ肇とキューバン・キャッツ」の結成に参加(1955年4月1日)。ウッドベースを担当。その後、クレージーの一員としてテレビや映画などに出演する一方、植木等、ハナ肇、谷啓に次ぐ『第4の男』として大映などで主演作も撮られた。しかし、「基本的にドタバタが好きじゃない」と言う犬塚は1970年以降、喜劇以外への出演が多くなり、宇野重吉などから演劇を教わっていくにつれ演劇に没頭。当時の事務所である渡辺プロダクションからの移籍を考え、10回目の交渉で現在の事務所への移籍が認められた。その際、渡辺プロの渡邊晋社長(当時)からは「つらかったら戻ってこいよ」と言われたという。また渡辺プロ創立50周年の記念パーティーには、植木等の強い誘いもあって出席している。谷啓とは下戸という共通点から、特に親しかった。他のメンバーが夜の街に繰り出してしまうと、残った二人でトランプなどをして過ごした。久しぶりに会っても目を合わせただけで、すべてが分かる仲だったという。没後のお別れ会では、弔辞を朗読している。暁星中学の一学年先輩でもある石橋エータローが退団し得意の料理の道に進んだ際も「オイ、水を得た魚だな」と激励をしたり、最年少の安田伸を必ず「僕と安さん」と敬意を評した。桜井センリに対しても同様に「バンドマンの給与が月平均4万円の頃桜井さんは16万円だったが誰からも揶揄されなかった」と絶賛している。植木等の死去に関して「今どき80歳なんて早すぎます」とコメント。記憶力が低下した谷啓に対しても自ら文字板を持ってキャメラの後ろに立ったり、ハナ肇には『シャボン玉ホリデー』の本番でいきなり本名=弘(ヒロム)と呼ばれた事に立腹しつつ1980年に自宅にハナ肇からクレージーキャッツ結成25周年記念の花束が届いた事に「定夫のバカヤロウ、余計な事しやがって」とハナ肇に電話し、お互いに泣き合ったという逸話がある。『シャボン玉ホリデー』のエンディングで『スターダスト』のギターを弾く男のシルエットは、犬塚その人である。メソッド演技で挑んだ『馬鹿が戦車でやって来る』の兵六が火の見櫓に登る場面や兵六のセルフパロディである高い場所が好きな『クレージー大作戦』の陣十郎(ジンベス)がロープ一本で宙吊りされる場面、『クレージーのぶちゃむくれ大発見』の私立探偵=犬丸が遊園地観覧車の梯子に登るスタント等を自ら演じている。ミュージシャンとしてだけでなく、俳優としても地位を確立し、80歳を過ぎた現在でも精力的に活動を続けている。2012年11月、桜井センリが他界したことにより、クレージーのメンバーで最後の存命者となった。司法省中解部(現在の裁判官)の犬塚重遠は父方の祖父。歌人の原阿佐緒は母のいとこ。菅原文太も母方の親戚で、弘の又いとこにあたる(『最後のクレイジー犬塚弘』p.185-186)。母方の祖父は南画家の土屋漁洋(同p.177)。※ 太字は役名
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