江源武鑑(こうげんぶかん)は、「佐々木氏郷」が著者とされている近江の戦国大名・六角氏に関する日次記形式の歴史書。天文6年7月(1537年)から元和9年7月(1623年)までを記している。全18巻。18世紀に至り世に知られたが、一般的には偽書と見られている。また佐々木氏郷とは沢田源内の偽名であると本書を偽書とする立場の者からは、されている。年代に多くの間違いのあること、他の史料から裏づけのとれない独自のエピソードが多いこと、通説と異なる内容を綴っていることなどから、一般的には偽書とされている。例えば、六角氏綱の後継者は世に知られる六角定頼ではなく六角義実でありその系譜が六角義秀、六角義郷と継承したという一連の記述、豊臣秀吉の前名は「木下元吉」であり、信長家臣時代に六角義秀から「秀」の字を賜り、「木下秀吉」と改名したなどといったくだりがある。なお義実-義秀-義郷の発給文書は、明らかな偽文書(例:弘文荘書目)を除き、1通も確認されておらず、同時代史料に彼らの実在を裏づけるものは無いとされるのが一般的だが、後述のような反論もある。江源武鑑は偽系図の作成者として有名な沢田源内が、自らを六角氏綱の子孫六角氏郷であると称し六角家の嫡流に位置付けるために執筆した偽書と考えられている。『重編応仁記』(1706年)によれば、源内の出自は、「父は仁左衛門と云ふ。江州堅田郷に小分なる土民也」とある。なお佐々木哲によれば、源内の生年は初版が刊行された1621年(元和7年)前後であり、同書は内容もさることながら、著者についても不明な点が多いという。享保19年(1734年)に発刊された『近江輿地誌略』には、『江源武鑑』の説に触れて「武鑑の説信用するに足らず」「偽書也」と断じられている。『改正三河後風土記』(成島司直の著作)の序文で、三河後風土記撰者考というものが掲載され、その中で、沢田源内氏郷が『三河後風土記』の撰者であると断定し、彼が江源武鑑・武家系図という書を偽り作り、世に刊行して世俗を欺きたり、と言及している。佐々木六角一族からは、『佐々木氏偽宗弁』(『系図綜覧』所収)や『大系図評判遮中抄』(佐々木六角氏庶流の建部賢明著)などで、「義実-義秀-義郷」の末裔とする沢田源内を批判している。明治年間には谷春散人『沢田源内偽撰書由来』(『歴史地理』第八巻収録、1906年)、大正年間には『近江蒲生郡志』が偽書説を支持している。また、江源武鑑自体にも、その巻18に「右日記天正二年マテ毎月正記也其ヨリ後元和マテノ日記ハ義郷公家礼中家々書付置以集記屋形御代ノ日記者天正十年六月四日観音城落去之時御代々記録等不残焼失右者江州七手目加田馬淵伊庭三井落合池田等日記也」とあり、その原本が存在しないことからも偽書と言われることがある。一方、昭和期に入ると在野の研究家の一部で再評価の動きがみられた。彼らは義実、義秀、義郷が六角氏の正統であるという説を唱え、その説と同じ内容を述べる『江源武鑑』も真書ではないかとしている。江源武鑑が偽書ではなく、六角氏郷によって記されたという説は、郷土史家の田中政三、在野の歴史研究家佐々木哲などが支持している。田中は1979年(昭和54年)~1982年(昭和54年)に弘文堂から刊行された著書『近江源氏』1~3巻でその実在を唱えた。佐々木哲は、『佐々木六角氏の系譜』(思文閣出版、2006年)『系譜伝承論』(思文閣出版、2007年)などで、「成立したとされる年代に登場人物がまだ生存していたこと」などを理由として『江源武鑑』を再評価している。六角氏系図に関しては、佐々木哲が、佐々木氏一族である讃岐丸亀藩主京極氏、筑前黒田氏など大名家の記録にも事跡が記されている、『寛政重修諸家譜』(1789年 - 1801年)収録の六角旧臣山岡氏系図に「佐々木義秀」の事蹟が記載されると主張している。偽書でないとする説の提唱者からは、義郷が秀次事件に連座失脚して以来氏綱系の六角宗家が武家として仕官していないことから自らを本家と唱える庶流の説が権威を持った、江戸期には秀吉について触れることはタブーであったことから、秀吉関連の事跡を隠蔽するために偽書とされた可能性があるという主張がされている。また、江戸中期、氏郷、源内が共に没した後の1708年(宝永5年)、六角義賢(箕作家、六角家陣代)の子孫である加賀藩士・佐々木定賢(佐々木兵庫入道家)がすでに死去していた義賢流の旗本・佐々木高重を「本家を詐称した」として幕府に訴える事件が大きく関係しているという。この訴訟に際して定賢が自らの家を六角氏正嫡に位置づけるために唱えた主張(『佐々木氏偽宗弁』系図綜覧所収)が建部賢明『大系図評判遮中抄』、近江の代表的な地誌『近江輿地誌略』(1734年)、『近江蒲生郡志』などに採用され、これらが世に広まった結果六角氏綱の子孫を嫡流とする本書は偽書にされたと説明するものもある。また佐々木は、初版刊行当時は同書に記された六角氏の家臣、関係者も多くが生存しており、仮に源内が氏郷になりすます目的を持ってこの書を記したとすれば、たちまち露見し厳罰に処せられる可能性があるとしている。これは『六角佐々木氏系図略』に付属していた史料『京極氏家臣某覚書抜粋』に、「京都所司代が洛中で官位を詐称する者について追及を行っており、六角氏郷が京都所司代稲葉正則から喚問を受けた」という記述があることを根拠としている。ただし、この覚書抜粋は氏郷を嫡流とする系図に付属した史料であり、他の文書によって証明されたものではない。また、平成に入ると古文書などに基づいた六角氏の支配構造などの研究が進展して、六角定頼以降の六角氏当主による近江支配の実態などが明らかにされつつあり、こうした事情も結果的には『江源武鑑』を真書とする主張を揺るがす期待を偽書説支持派からは受けている。。
出典:wikipedia
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