南原市(ナムウォンし、ナモンし,なんげんし)は大韓民国全羅北道の南東部にある市である。東は慶尚南道に、南は全羅南道に接する。小白山脈の西側の高原地帯に開けた盆地の町で、蓼川(ヨチョン)に沿って広がり、市街のすぐ北には蛟竜山(キョリョンサン)がそびえている。また智異山(チリサン)への玄関口でもある。古くから要害の地として城郭や都市が置かれてきたほか、春香伝の舞台としても知られる。南原は、東は小白山脈、西は富興山脈に囲まれた盆地で、東南には高い峰々が連なる智異山国立公園がある。平野に街や農地が広がり、蓼川などの河川が流れている。これらの河川は、南へ流れ東シナ海に注ぐ蟾津江(ソムジンガン)の支流である。盆地の周囲は雲峰邑を中心に高原地帯となっている。南原市は、西は任実郡と淳昌郡、北は長水郡、東は慶尚南道咸陽郡と同河東郡、南は全羅南道谷城郡と同求礼郡に接する。年平均気温は12.3度で、山岳地帯の盆地にあるため季節ごとの気温差は大きく、1月の平均気温は-1.4度に下がり、8月の平均気温は25.2度になる。また降水量は1380.4mmと多い。この地は百済の古龍郡に属していた。市の北に残る蛟竜山城(南原山城)は百済の時代に山の上に設けられた城跡で、高さ6mの城壁が3km以上にわたって山中を廻っている。百済が滅ぼされた後の685年、統一新羅の神文王は南原に副都・五小京の一つである南原小京を築き、百済の故地支配の拠点のひとつとした。以後この地方の中心として栄え、高麗時代の寺院・万福寺の跡や、朝鮮王朝時代の1419年に建てられた楼閣・広寒楼などが今日に残っている。また倭寇史上最大の戦場となった。1597年に起こった慶長の役(丁酉再乱)の際には、南原城は宇喜多秀家率いる日本の左軍と明・朝鮮連合軍の戦い(南原城の戦い)の舞台となった。8月13日から8月16日までの間、3,300人の明・朝鮮連合軍と6,000人の民衆が籠城して56,000人の宇喜多軍と戦ったが、南原城は陥落し中にいた兵や民は殺された。この際の犠牲者の位牌を祀る万人義塚が南原の北に残っている。現在の広寒楼は17世紀の再建である。南原は、朝鮮八道制のもとでは全羅道に属し南原都護府が置かれ、1895年からの短期間施行された二十三府制においては南原府の中心地となり、十三道制の施行で全羅南道の一部となった。1931年11月1日、南原郡南原面(村)は南原邑(町)に昇格、1981年7月1日に南原邑は南原市に昇格して郡から分離、1994年12月26日には南原郡と南原市が統合されて現在に至っている。また1995年1月1日、旧南原郡の雲峰面が雲峰邑に昇格している。
出典:wikipedia
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