203高地(にひゃくさんこうち、にいまるさんこうち)は、中国北東部の遼東半島南端に位置する旅順(現在の大連市旅順口区)にある丘陵である。1904 - 1905年の日露戦争ではロシア海軍の基地のあった旅順港を巡る日露の争奪戦による激戦地となった場所。旧市街地から北西2kmほどのところにある。海抜203メートルであることからこの名が付けられた。大連市により、文物保護単位に指定されている。中国海軍の軍事施設に含まれており、外国人の立ち入りは長く禁じられてきたが、1990年頃から水師営と共に観光客に開放されるようになった。日露戦争において、旅順攻略は必要不可欠になり、日本陸軍は第3軍を編成し旅順要塞および旅順艦隊を攻撃した。203高地は、元々は旅順要塞防衛線の一翼を担う筈であったが、予算削減により防衛線が縮小された際にそこから外れ、前進陣地として運用された。日本側は当初は重要視せず、第三軍に用意された地図には前進陣地すら書いていなかった。陸軍は要塞自体の攻略を作戦目的としており、その形は旅順要塞が陥落するまで変わらなかった。陸軍は日露戦争のかなり早い段階から旅順要塞を攻略することを決定していて、その理由はロシア軍主力との決戦に備え、後方の、しかも物資揚陸地点の大連の目と鼻の先にロシア軍が立て籠もっていることを懸念したからである。封鎖も検討されたが、封鎖するだけでも相当数の部隊を割かねばならず、降伏するまでの長期間、封鎖部隊は他方面に活用できなくなり、ロシア軍と比べて戦力の乏しい日本にその決断はできなかった。そのため大山巌、児玉源太郎らは要塞攻略を第一に考え、後に海軍から旅順艦隊の無力化を要請されても、要塞攻略を第一とする方針は変えなかった。203高地は港湾部を一望できる観測点としては有意義な地点であったが、要塞攻略にはあまり重要ではなかった。さらに盤龍山保塁や東鶏冠山保塁などの後方にある「望台」の方が標高で勝り、港湾だけでなく要塞全体も一望できたので、第三軍は総攻撃前に最終的にはこの望台を占領すべく東北方面を主攻撃目標とする決断を下し、大山、児玉ら満州軍総司令部もこれを支持していた。これに対して長岡外史参謀次長など、一部は203高地よりもさらに西方の平坦な地域からの主攻撃を主張したが、補給面や部隊展開の不利などの理由から採用されなかった。海軍はこの時点では第三軍の方針に関して意見を述べた事実はなく、実際はこの時点で203高地のことを注目していた人物は誰もいなかった。ロシア軍側も、203高地一帯は要塞主防御線から離れており攻撃側からすると移動に時間が掛かるだけでなく、その際は他の防御保塁からはまる見えで迎撃を被るという攻めるに不利な地点であったため、警戒陣地・前進陣地としての運用しか考えていなかった。陣地自体の規模は南山の戦い後より防御強化の工事がなされており、第三軍の包囲完了時点でかなり強固な陣地となっていたという、攻城砲兵司令部参謀の証言がある。2度にわたる攻撃失敗、さらにバルチック艦隊の出撃の報を受けた海軍は、旅順艦隊殲滅を優先するよう動き出す。そのための観測点として前進陣地であり規模も大きくなく、簡単に落とせそう(と海軍が判断した)な203高地を攻略して欲しいと進言(秋山真之が進言したともいわれるが定かではない)し、これに当初から要塞西方主攻勢論だった大本営が同調して203高地攻略を支持する。これに対し大山や児玉、現地軍である第3軍司令官の乃木希典らはと判断し、海軍や大本営の203高地攻撃要請を却下し続けた。しかし御前会議を開いてまで決定した「203高地を攻略する」という決定と、大本営からの圧力(本来、第3軍は満州軍の所属で、大本営の直接指揮下にない)に第3軍が屈し1904年11月28日に203高地攻撃を開始する。一度は奪取に成功するもロシア軍が反攻して奪還され、一進一退の激戦となる。結局12月5日に203高地は陥落する。観測点を設置し港湾への砲撃を開始したが、殆どの艦艇は黄海海戦での損傷が治っていなかったことや、要塞防衛戦に搭載火砲や乗員を出していたので戦力としては無力化しており、キングストン弁を開いた自沈であったことが戦後の調査で判明している。第三軍も203高地を攻略すると直ぐに配置を元に戻して東北方面の攻撃を再開し、ロシア軍も旅順艦隊が自沈しても抵抗を続けた。結果的に要塞の予備兵力が消耗枯渇し立つロシア軍は、続く要塞正面での攻防で有効な迎撃ができず、それでも1か月ほど頑強に抵抗した。だが正面防御線の東鶏冠山保塁、二龍山保塁などが相次いで陥落、翌1905年1月1日に要塞は降伏した。結果的に203高地の占領は戦略的にも戦術的にも日本側に寄与しなかった。旅順艦隊は黄海海戦と、大弧山や海鼠山からの観測射撃で大損害を被っていたが、これを修理する設備は旅順港にはなかった。装甲巡洋艦以上の大型艦を入渠できるドックはロシア軍は極東ではウラジオストクに1個持ってるだけであり、旅順港の艦隊維持能力は低かった。このため旅順艦隊は黄海海戦後は乗員や火砲を陸揚げして防衛戦に投入させており、実質消滅していた。日本側は第三軍などの観測調査である程度のことは掴んでいたが、大本営や海軍側はこれを信じず、第三軍側もそれを実証する証拠もなかったので、艦隊は戦力を保持しているという前提で203高地攻略の是非を議論し続けることになった。ロシア軍の予備戦力を消耗したことも結果論であり、203高地に主攻撃を替えずとも、このまま東北方面への攻撃を継続することでも予備兵力を消耗させることは出来ており、逆に主攻撃を替えたことで寄り道をしたことになり、仮に203高地への攻撃を変更しなかったら、史実よりも早くにロシア軍は降伏していた可能性もあった。本争奪戦は、多くの戦死者を出した。第7師団(旭川)は、15,000人ほどの兵力が5日間で約3,000人にまで減少した。ロシア側の被害も大きく、ありとあらゆる予備兵や臨時に海軍から陸軍へ移された水兵までもが、この高地で命を落とした。第3次総攻撃では乃木希典の次男・保典も戦死し、乃木は自作の漢詩で203高地を二〇三(に・れい・さん)の当て字で爾霊山(にれいさん=お前の霊の山)と詠んだ。1904年12月5日に日本軍が占領し、永野修身海軍大尉が指揮した陸上からの砲撃でロシア東洋艦隊を壊滅させたというのが通説だが、陥落後の陸海軍による沈艦への調査では、ほとんどの艦は命中しても艦底に損害を受けておらず、浸水などは起こしていなかった(陸軍省軍務局砲兵課石光真臣や武田三郎、上田貢らが調査を開始、1906年11月最終報告)。使用した二十八糎砲の砲弾が古く、信管の動作不良もあったようで不発弾も多かった。報告を受けた陸軍省技術審査部長有坂成章は砲弾の全面変更を指示している。海軍側の調査では、多くの艦艇がキングストン弁を開いていたことが確認されていたようで、報告では自沈処理されたとなっている。また第一次総攻撃前に行われた黄海海戦で、旅順艦隊はすでに戦闘不能な程の大損害を被っており、旅順港の施設では修復は不可能だった。結局、戦艦セヴァストポリだけが外洋航行可能な程度まで修復された(その後セヴァストポリは戦艦の中で唯一観測射撃を逃れ、港外へ脱出を行ったが、日本海軍の水雷艇の雷撃により大破し自沈した)が、他の艦艇は戦闘不能なまま放置され、最後は自沈処理された。203高地の「旅順艦隊殲滅のための観測点」としての価値は、実際はほとんどなかったといえる。日露戦争後に日本で流行した、前髪を張り出し、頭頂部に束ねた髪を高くまとめるような女性の髪型を「二百三高地髷(にひゃくさんこうちまげ)」という。当時普及し始めていた洋装に合う髪型として生み出された。1980年、日露戦争の旅順攻囲戦における203高地での日露両軍の攻防戦を描いた『二百三高地(にひゃくさんこうち)』という東映製作の日本映画が公開された。1981年にはテレビドラマ化もされている。湘南遊歩道路(現・国道134号)開通時(1935年1月1日)、神奈川県鎌倉郡片瀬町(現・藤沢市片瀬海岸一丁目)の現在の江ノ電駐車場の所に建てられた乃木の銅像の傍らに横須賀鎮守府が寄贈したもの。戦後、銅像が取り壊されたときに江の島島内の児玉神社境内に移設された。
出典:wikipedia
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