『吾輩は猫である』(わがはいはねこである)は、夏目漱石の長編小説であり、処女小説である。1905年1月、『ホトトギス』に発表され、好評を博したため、翌1906年8月まで継続した。「吾輩は猫である。名前はまだ無い。どこで生れたかとんと見当がつかぬ。」という書き出しで始まる。中学校の英語教師である珍野苦沙弥の家に飼われている猫である「吾輩」の視点から、珍野一家や、そこに集う彼の友人や門下の書生たち、「太平の逸民」(第二話、第三話)の人間模様を風刺的・戯作的に描く。着想は、E.T.A.ホフマンの長編小説『牡猫ムルの人生観』と考えられる。漱石が所属していた俳句雑誌『ホトトギス』では、小説も盛んになり、高浜虚子や伊藤左千夫らが作品を書いていた。こうした中で虚子に勧められて漱石も小説を書くことになった。それが1905年1月に発表した『吾輩は猫である』で、当初は最初に発表した第1回のみの、読み切り作品であった。しかもこの回は、漱石の許可を得た上で虚子の手が加えられており、他の回とは多少文章の雰囲気が異なる。だがこれが好評になり、虚子の勧めで翌年8月まで、全11回連載し、掲載誌『ホトトギス』は売り上げを大きく伸ばした(元々俳句雑誌であったが、有力な文芸雑誌の一つとなった)。舞台化されたほか、『吾輩ハ鼠デアル』『我輩ハ小僧デアル』『吾輩は主婦である』など多くのパロディが生まれた。三島由紀夫も少年時代に『我はいは蟻である』(1937年)という小品を書いている。主人公「吾輩」のモデルは、漱石37歳の年に夏目家に迷い込んで住み着いた、野良の黒猫である。1908年9月13日に猫が死亡した際、漱石は親しい人達に猫の死亡通知を出した。また、猫の墓を立て、書斎裏の桜の樹の下に埋めた。小さな墓標の裏に「この下に稲妻起る宵あらん」と安らかに眠ることを願った一句を添えた後、猫が亡くなる直前の様子を「猫の墓」(『永日小品』所収)という随筆に書き記している。毎年9月13日は「猫の命日」である。『猫』が執筆された当時の漱石邸は現在は愛知県の野外博物館・明治村に移築されていて(旧所在:文京区千駄木)公開されている。東京都新宿区弁天町の夏目公園(漱石山房跡地)には「猫塚」があるが、後年復元したものだという。最終回で、迷亭が苦沙弥らに「詐欺師の小説」を披露するが、これはロバート・バーの『放心家組合』のことである。この事実は、大蔵省の機関誌『ファイナンス』1966年4月号において、林修三によって初めて指摘された。同様の指摘は、1971年2月号の文藝春秋誌上で山田風太郎によっても行われている。古典落語のパロディが幾つか見られる。例をあげると、窃盗犯に入れられた次の朝、苦沙弥夫婦が警官に盗まれた物を聞かれる件(第五話)は『花色木綿(出来心)』の、寒月がバイオリンを買いに行く道筋を言いたてるのは『黄金餅』の、パロディである。迷亭が洋食屋を困らせる話にはちゃんと「落ち」までつけ一席の落語としている。漱石は三代目柳家小さんなどの落語を愛好したが、『猫』は落語の影響が最も強く見られる作品である。第三話にて寒月が講演の練習をする「首縊りの力学」は、実在する論文を摘要したものである。寺田寅彦の随筆「夏目先生の追憶」に、彼がその論文を夏目漱石に紹介した経緯が書かれている。同所で寺田は「レヴェレンド(Reverendは日本語の「師」にあたる聖職者の尊称)・ハウトン」の「首つりの力学」と言うが、正確には、サミュエル・ホートンの " On Hanging Considered from a Mechanical and Physiological Point of View "である。1905年1月にのちの第1章に相当する部分が発表され、その後1905年2月(第2章)、4月(第3章)、5月(第4章)、6月(第5章)、10月(第6章)、1906年1月(第7章および第8章)、3月(第9章)、4月(第10章)、8月(第11章)と掲載された。第1巻(第1章 - 第3章)は1905年10月6日に、第2巻(第4章 - 第7章)は1906年11月4日に、第3巻(第8章 - 第11章)は1907年5月19日に大倉書店と服部書店から刊行された。全1冊としては1911年に刊行された。1918年に漱石全集の第1巻に収録された。2度映画化された。1936年版と1975年版がある。
出典:wikipedia
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