日本ドリーム観光(にっぽんドリームかんこう) は、かつて存在したレジャー・エンターテイメントの総合観光企業。大阪証券取引所1部に上場していた。「昭和の興行師」こと松尾國三が経営にあたった。松尾の死後、経営権争奪戦が起こり、結局1993年に中内功率いるダイエーに吸収合併された。以下は、雅叙園観光株式会社が経営するホテルである。大阪歌舞伎座(おおさかかぶきざ)は1932年開場。千日前楽天地の跡地に建てられた地上7階建地下1階のビルの1〜4階を占めた。3,000人収容の大劇場ながら東京・歌舞伎座よりも舞台設備が充実しており、客席も芝居が見やすく設計されていて、まさに上方歌舞伎の殿堂であった。初代中村鴈治郎もこけら落しの際、「ほんまに夢のようだす」とコメントしてこの豪華劇場の誕生に感涙したという。千日土地建物(通称・千土地)が劇場の経営にあたり、松竹の興行による上方歌舞伎が定期的に上演された。翌1933年には6階にアイススケート場を併設。劇場横の飲食店が立ち並ぶ横丁は「鴈治郎横丁」(現:ビック通り)と名付けられ賑わった。太平洋戦争敗戦後の1945年10月、6階のスケート場等が占領軍向けの特殊慰安所(キャバレー)に改装された(後述のキャバレーの項参照)。1954年、爆発的な「扇雀ブーム」に乗じた関西松竹の「役振り」への不満が爆発して紛争が続発、肝心の中村扇雀(現:四世坂田藤十郎)も宝塚映画との契約後松竹の劇場への出演が激減したので、上方歌舞伎の観客動員力は急速に低下した。このため、不採算物件と化した大阪歌舞伎座を御堂筋西側へ縮小移転することとなり、1958年4月いっぱいで閉鎖され、建物は内部を改装して複合商業施設「千日デパート」となった(千日デパートの項参照)。この1958年1月興行より興行主体は松竹から千土地興行に代わっていた。"劇団についての詳細はOSK日本歌劇団を参照"OSKは大阪松竹歌劇団の略称。笠置シズ子・京マチ子などの大スターを生み出したことで知られる。1922年宝塚少女歌劇の成功に刺激された白井松次郎が「松竹楽劇部」を編成、翌1923年に落成した道頓堀・大阪松竹座を本拠に活動を開始した。1926年日舞と洋舞を折衷した「春のおどり」が成功。1928年の浅草松竹座での公演の成功は東京松竹楽劇部(後の松竹少女歌劇団=SSK・松竹歌劇団=SKD)誕生のきっかけとなった。1934年松竹楽劇部の運営を委託された千土地は、これを「大阪松竹少女歌劇団」(OSSK)と改称するとともに、前年の1933年に開場し、同年千土地が取得していた千日前・東洋劇場を大阪劇場(通称・大劇)と改称して、新生OSSKの本拠地とした。大阪劇場は実演と映画の二本立てが興行の建前で、実演はOSSKのレビューか人気歌手の歌謡ショーや映画俳優の演劇(OSSKも出演)、映画は松竹映画を上映した。1943年劇団名から「少女」を省いて「大阪松竹歌劇団」とし、同時に英字略称を廃止した。したがって、OSKという略称が公に使えるようになったのは戦後のことである。1950年以降近鉄あやめ池遊園地で定期興行を行うようになったことから近鉄と縁が深くなり、1956年には大劇内にあった養成学校があやめ池に移転した。1957年OSKは松竹本体から分離し、松竹・近鉄・千土地興行三者の出資による株式会社大阪松竹歌劇団が運営することになった。1963年親会社:千土地の日本ドリーム観光への編成替えに伴い、OSKも社名・劇団名ともに「日本歌劇団」(NKD)と改称。このころから人気に翳りが見られるようになったが、同年3月には大劇舞台での深夜稽古中に舞台装置が転倒する事故があり41名の劇団員が重軽傷を負う惨事となった。1967年ついに大阪劇場は閉鎖、NKDはあやめ池円型大劇場に完全移転した。1970年、NKDは「OSK日本歌劇団」と改称して愛着のあるOSKという略称を復活した。翌1971年、松竹の撤退・朝日放送の資本参加を機にOSKの経営権は完全に近鉄側が掌握し、日本ドリーム観光は事実上OSKから手を引いた(日本ドリーム観光を吸収合併したダイエーが株式会社日本歌劇団から完全に撤退したのは1995年)。戦後、上方落語の復興を目指し5代目笑福亭松鶴らが定期落語会を催していたのを、松竹および千土地会長の白井松次郎が着目し、四ツ橋・文楽座で松竹主催の落語会を興行したところ概ね好評だった。白井は戦前から演芸進出を企み、一時期傍系の新興キネマに演芸部を設けて演芸王国の吉本興業に対抗していたが、戦後は吉本が演芸から撤退していた事もあり、「上方演芸復興」を旗印として漫談家・花月亭久里丸を中心に芸人を掌握。1947年、千土地が経営する映画館・戎橋松竹を演芸場に改装して、演芸興行を開始した。1957年に戎橋松竹を閉鎖。代わりに同年大阪歌舞伎座地下の映画館を改装して、歌舞伎地下演芸場を開場したが、これも翌1958年大阪歌舞伎座の改装と共に閉鎖。この時までに出演していた芸人の多くは、所属事務所の関係で道頓堀角座に出演する事となり、残された千土地専属の芸人は京都・新京極にあった映画館・京洛劇場を演芸場に改装の上出演した後、千日デパート6階に完成した千日劇場に出演する事になった。千日劇場は1969年まで営業を続けたが、吉本・松竹芸能の台頭と引き替えに衰退し、千日劇場閉鎖と共に日本ドリーム観光は演芸から撤退した(戎橋松竹の項を参照)。大阪新歌舞伎座は、大阪歌舞伎座の代替劇場として1958年映画館・なんば大映の跡地に建設された。「観光劇場」と銘打ち、当時松尾社長が標榜していた「観光立国」の牽引役として桃山造りの外装や豪華な内装となったが、舞台装置は敷地上の関係で歌舞伎舞台特有の回り舞台が設置されず、代わりにスライディングステージを設置する事等苦心の設計となった。名称は旧歌舞伎座の後継劇場であることを示す「大阪新歌舞伎座」としたものの、松尾は建設当初から歌舞伎を上演することよりも劇場の維持発展を専一に考えていた。松尾は大劇で行われていた人気歌手や映画俳優の実演に目を付け、彼らを座長に据えた演劇興行で観客動員に成功したため、歌舞伎・新国劇・新派を順次排除して行き、映画・演劇界のスター中心の「座長芝居」と「歌手芝居」を月替わりで上演して業績を安定させた。とりわけ人気歌手を舞台に上げて演劇を行わせる「歌手芝居」の興行スタイルを確立して成功を収めた。しかし、このことはまた、この劇場が「歌舞伎をやらない新歌舞伎座」と揶揄され続け、実演主体であった大劇の寿命を縮めるという、「負」の結果をも生んだのである。とはいえ、自身役者の経験もある松尾國三と「市松延見子」の芸名で達者な女役者として知られていたその妻松尾波儔江は歌舞伎にも愛着があり、その在世中は最低でも1年に1ヶ月は歌舞伎興行を行っていた。しかし、1988年ダイエーが経営の主導権を握ると市川猿之助一座以外の歌舞伎は舞台に上げられなくなり、1993年に日本ドリーム観光がダイエーに吸収合併されて2年後の1995年2月の猿之助歌舞伎を最後に1カ月単位の歌舞伎公演はまったく行われなくなった。一方、座長芝居と歌手芝居のうちでは開場以来約50年の間にしだいに歌手芝居が優勢になり、さらに晩年では、川中美幸、中村美律子、天童よしみといった大阪に縁の深い女性演歌歌手中心の興行を展開していた。大阪新歌舞伎座は建物の老朽化のため、2009年6月30日をもって閉館。運営会社の株式会社新歌舞伎座では、近畿日本鉄道が上本町に建設中の商業ビルの上層階へ移転の上再開場すると案内し、2010年9月「上本町YUFURA(ユフラ)」6階に移転の上再開場した。人権争議日映事件大劇事件大劇事故千日デパート火災コスモポリタン事件
出典:wikipedia
LINEスタンプ制作に興味がある場合は、
下記よりスタンプファクトリーのホームページをご覧ください。