


管野 スガ(かんの すが、1881年(明治14年)6月7日 - 1911年(明治44年)1月25日)は、明治時代の新聞記者・著作家・婦人運動家・社会主義運動家であり、幸徳事件(大逆事件)で処刑された12名の1人で、大逆罪で死刑を執行された唯一の女性でもある。号は幽月。ペンネームでは「須賀子」。名字は「菅野」と書かれる場合もあるが、誤りである(江戸時代の頃は「菅野」姓であったが、明治になってからスガの父が「管野」に姓を変更した)。1881年(明治14年)、大阪・絹笠町において、裁判官・代言人・鉱山事業家の管野義秀の長女として生まれる。非常に勝ち気な性格。19歳のとき、東京深川の裕福な商人の小宮福太郎と結婚したが、花柳界に入り浸る横暴な夫と性格が合わずに家を飛び出して大阪に帰り、海軍に身を置くこととなったことを理由として離婚した。離婚後は、文士の宇田川文海に師事して文学を学び、『大阪新報』に入社して記者となった。文海は親身に面倒を見ていたので、その愛人であったという説もあるが、54歳の文海は妻ツルと夫婦仲がよく、愛人説を否定する意見もある。1903年11月に日本組合天満教会で洗礼を受けてキリスト教に改宗した。管野は、紙面で娼婦を「醜業婦」と批判したことがあったが、女性地位向上運動「婦人矯風会」の活動を知って反省。廃娼運動や男女同権の運動にも参加するようになった。日露戦争の直前、文海が幸徳秋水、堺利彦の非戦論に賛成したことから、スガもこれに共鳴。大阪に「平民新聞読者会」を結成して婦人運動から社会主義運動にシフトしていった。平民社の堺利彦を訪ね、その紹介で毛利柴庵と知り合って交際し、毛利が主筆であった和歌山県田辺の牟婁新報社に入社したが、ここで知り合った荒畑勝三(寒村)と同棲。牟婁新報では、柴庵が入獄中はスガが編集長代理も務めたが、柴庵の出獄とともに退社。上京して商業新聞『毎日電報』に就職後、1907年(明治40年)に荒畑寒村と結婚した。しかし同年に妹のヒデが結核で他界し、スガも発病した。1908年、赤旗事件に連座して投獄されるが、この事件は山口孤剣の出獄を祝おうと東京神田の「錦輝館」で歓迎会を開いたときのもので、寒村・スガ夫妻も参加していたが、肺病を患っていたスガは乱闘には加わらなかったため、無罪となって9月4日に釈放された。しかし過酷な取り調べを受けたという。出所した頃には毎日電報は解雇となっており、アナキズムに共鳴したことから秋水の経済的援助を受けた。2人で『自由思想』を創刊して赤旗事件を糾弾しようとし、療病生活を続ける内に秋水とは恋愛関係になって平民社内で同棲するようになる。秋水には妻・千代子がおり、スガにも獄中の寒村(禁固1年)がいた。秋水に対立する新聞雑誌により、重婚だと騒がれ、スキャンダルとして批判を受けたことから、スガは寒村に一方的な離縁状を送って離婚した。この一件は、寒村から生涯の恨みを買っただけでなく、公然たる不倫が妻も追い出す格好になったことと、平民社でスガが優遇されたことから、2人の関係の評判は同志の間でもよくなかった。この頃、官憲は秋水を何としても逮捕しようと決意していた。1909年7月15日、平民社に家宅捜索が入った際に、同社で生活し、肺病で依然として伏せていたスガは、引きずられるように逮捕連行された。しかしこれは罰金刑を受けて釈放された。翌1910年、3月22日に平民社は解散され、スガと秋水は湯治療養のために湯河原に向かった。同年6月1日、湯河原で2人は逮捕された。宮下太吉、新村忠雄、古河力作の5名は、天皇暗殺を密謀した罪で起訴され、いわゆる幸徳事件(大逆事件)の被告となった。今村力三郎弁護士は、この事件はスガ、宮下、新村が共謀したもので、秋水も首領としての責任はあるとしたものの、他の者たちの関与を否定したが、判決では、警察のフレームアップによってその他多数の社会主義者・無政府主義者、24名が有罪・死刑となった。翌1911年(明治44年)1月25日、秋水ら11人が刑死した翌日に執行された。大杉栄夫妻に手紙を送り、寒村にも言葉を遺したという。前述のようにキリスト教徒であるが、生前の遺言により火葬され、仏式で葬られた。法名は釈淳然。墓は下淀橋町字角筈新町(現:渋谷区代々木3丁目)の正春寺にあり、墓石の正面には辞世の句『くろがねの窓にさしいる日の影の移るを守りけふも暮らしぬ』が刻まれ、裏には「革命の先駆者管野スガここにねむる」とある。
出典:wikipedia
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