LINEスタンプ制作代行サービス・LINEスタンプの作り方!

お電話でのお問い合わせ:03-6869-8600

stampfactory大百科事典

下野国

下野国(しもつけのくに)は、かつて日本の地方行政区分だった令制国の一つ。東山道に属する。古代関東には「毛野(けの/けぬ)」および「那須(なす)」と呼ばれる政治勢力が存在し、前者が上下に二分されて「上毛野(かみつけの/かみつけぬ)」・「下毛野(しもつけの/しもつけぬ)」となったといわれる。毛野の起こりについては、『常陸国風土記』によると筑波はもともと紀の国であるといい、この紀の国と毛野が同一かは不詳だが、「毛野河」は筑波西部の郡の境界とある。また『続日本紀』では毛野川は古くから常陸国と下総国の境界であると記されているなど、毛野と毛野川(現在の鬼怒川)の深い関わりがうかがわれる。『上野名跡志』では下野国河内郡衣川郷が毛野という国名の由来と推察されている。国名の上下については、上総国と下総国などと同様、一国を「上」と「下」に二分したものとされるが、備・越・筑・豊・肥などのように前後に分けられた国との違いは不詳である。またこの分裂は史書に無く詳細は不明で、古くより議論がある(「毛野#毛野の分裂」を参照)。『大宝律令』の制定にあたっては、下毛野の領域に那須の領域(栃木県北東部)を合わせ、「下毛野国(しもつけののくに/しもつけのくに)」として上毛野国とともに令制国の1つに定められたとされる(那須統合の時期は明らかとなっていない)。その後、下毛野国・上毛野国の国名は「下野国」・「上野国」に改名された。この際、「毛」の字は消えたものの「しもつけのくに」として、読みにその名残をとどめている。「下野」の初見は『日本書紀』天武天皇5年(676年)5月条である。また、藤原宮跡出土木簡には大宝3年(703年)に「下毛野国」の記載があり、律令制施行後の初見である。六国史(記紀)日本書紀によると、下野国の国造である下毛野君は紀元前50年(崇神天皇48年)に崇神天皇の命により東国を統治した豊城入彦命の子孫とされる。684年(天武天皇13年)に朝臣の姓を受けた下毛野君は、大宝律令編纂の中心人物のひとりで参議に列せられ直広肆・兵部卿・式部卿・造山陵司・大将軍を歴任した下毛野古麻呂を輩出したほか、征夷副将軍下毛野石代・遠江守下毛野多具比・外衛少将下毛野足麻呂・下野守下毛野根麻呂・備中介下毛野年継・信濃介下毛野文継などが中央政庁でも活躍した。その一方で、越前国や陸奥国、下野国の住人とされる吉弥侯根麻呂・吉弥侯部廣國・吉弥侯部念丸・大麻続部総持・大麻続部嗣吉等に下毛野公・下毛野静戸公・下毛野俯見公などの姓が授けられ、さらにこうした下毛野公の中にも下毛野公田主のように朝臣姓が賜姓される人物が出現している。その後、下毛野氏は歴史の表舞台からは遠ざかるが、一説に金太郎のモデルとされる下毛野公時は、藤原道長の随身として仕えている。下野薬師寺は奈良時代初期に天武天皇が建立した官寺であり、当時の七大寺に数えられた寺院のひとつである。・良時代天平期に定められた諸寺墾田地限では下野薬師寺の墾田は500町とされ、奈良の大和国分金光明寺・元興寺・大安寺・薬師寺、興福寺・法華寺・弘福寺・法隆寺・新薬師寺・建興寺、河内の四天王寺、近江の崇福寺、筑紫の観世音寺と並び、中央政庁に管理されていた。また平安時代中期の874年(貞観16年)、平安京紫宸殿で60人の僧により3日にわたって行われた大般若経の転読会に際しては、金字仁王経71部が五畿七道各国に一部ずつ配置されるなか、大宰府観世音寺、豊前国弥勒寺とならび下野薬師寺にもそのうちの一部が配置されるなど、平安時代においても当寺が鎮護国家政策の一環として官寺の位置付けにあったことが覗われる。下野薬師寺は、8世紀後半の政争に巻き込まれた高僧の配流地としても著名であり、754年(天平勝宝6年末)には奈良薬師寺の僧行信と宇佐神宮主神の大神多麿呂らが、また770年(宝亀元年)には孝謙上皇(後の称徳天皇(高野天皇))の寵愛を受け法王の称号と太政大臣の官職を歴任した弓削道鏡が、下野薬師寺に遣わされている。道鏡は造下野薬師寺別当のまま下野国で没し、庶民の格付けで葬られた。延喜式が編纂された平安時代中期、延喜5年(905年)時点の下野国の格式は上国、遠国であるが、六国史(記紀)日本三代実録には准大国、準大国とある。国の格式に準じて国司が配置され時勢に応じて増員されたが、下野国では奈良時代に目(大目1、少目1)、平安期には掾(大掾1、少掾1)の増員が令されている。六国史(記紀)には古代から平安時代中期にかけての歴史が記されている。下野国下では以下のような出来事があった。天慶年間に平将門を討伐して下野守となった藤原秀郷は押領使を兼任し、子は都賀郡の小山城に居した。第12代小山朝政は下野国の大族である宇都宮朝綱、那須宗隆とともに源頼朝に従軍して功を挙げ、那須宗隆は那須一郡を賜り、宇都宮朝綱の子孫は宇都宮に居し小山氏と入れ代わりで下野守に任ぜられ、紀清両党はその傘下に隷属した。小山朝政の弟である宗政は長沼(芳賀郡)に城を置き、子孫はここに居して長沼氏を称した。源義家の孫である義康は足利郡で生計を立て、8代足利尊氏に至る。元弘の乱の末期、尊氏は兵を率いて西上し、官軍に降って京師を復した。宇都宮朝綱の8代の孫である公綱は、建武中、勤王方で働いて下野国守護を賜わった。既に公綱の子である氏綱は足利氏に付き、小山朝山〈朝政より8代目〉は独り官軍に属して、孫の義政に至るまで宇都宮氏と接戦すること数回、弘和2年、足利氏満の軍と戦って敗死し、足利氏は結城基光の次男である泰朝に小山氏の名跡を継がせた(祇園城に居し、天正の末期に絶えた)後、小山、宇都宮、長沼、那須、及び下総の結城氏は八館に列された。足利成氏は両上杉氏と互いに鬩ぎ合い、長沼成宗は成氏を援けて敗れ出奔した。宇都宮氏は独り兵が威けており非常に強く、終いに下野国の州主と称し、壬生、泉、山田などの諸族が皆、宇都宮氏に帰属した。宇都宮氏の中興の祖であり17代当主である宇都宮成綱は、後北条氏での北条早雲のような戦国時代を生き抜くための革新的な思想、戦略的野望を抱いていた英主だといわれており、成綱の優れた才能によって家臣団を再編し、古河公方の内紛に介入したり、佐竹氏・岩城氏・蘆名氏などと戦い宇都宮氏の勢力を大きく拡大し、全盛期を築き上げた。しかし、成綱が没した後は、家臣らとの対立が激しくなり、宇都宮氏は大きく衰退していくことになる。さらに天文年間、(那須郡烏山城に居していた)那須氏と戦って大敗し、諸族は皆那須氏に帰属してしまう。また北条氏が下野国南境を攻略し、宇都宮氏は衰退した。豊臣氏の東征では那須氏の地を収め那須家臣の大関高増を黒羽に大田原晴清を大田原に封じ、那須氏には僅か福原のみを与えた。宇都宮国綱は独りその旧封である18万7千余石を全うしたが、慶長2年に罪を蒙むり、其の封は蒲生秀行が賜わった。慶長6年、徳川氏は秀行を会津に移し、奥平家昌が代わって治めた。また数姓が交互に封じられた後、宝永年間に戸田忠真を封じた。戸田氏は後に島原に転封され、その曾孫である戸田忠寛が返り咲きで封じられた。その余封を受けたのが烏山(初めは松下重綱、大久保常春〉・壬生〈初め日根野正吉、後に鳥居忠英)・足利(戸田忠利)・佐野(堀田正敦)・吹上(有馬氏郁)、最後に戸田氏の支族である忠至を高徳に封じた(後、下総国の曾我野に移した〉。9藩が王政革新、日光県を置き、既に皆改めて県としまた廃して、橡木と宇都宮に県を置き、また宇都宮を廃して橡木に併合した。『和名抄』(平安時代中期)では、国府は都賀郡にあるとする。次の遺構が見つかっている。延喜式内社領域は現在の栃木県とほぼ同じだが、群馬県(旧上野国)桐生市のうち桐生川以東を含む。かつては栃木県は下野国と完全に同一の範囲であったが、昭和34年(1959年)に栃木県足利郡菱村が、昭和43年(1968年)に安蘇郡田沼町の入飛駒地区がいずれも桐生市へ越境合併。また、昭和35年(1960年)に群馬県山田郡矢場川村の一部が栃木県足利市に編入され、旧上野国との境界が変更されている。そのため、栃木県の方が下野国より僅かに狭くなっている。内閣統計局・編、速水融・復刻版監修解題、『国勢調査以前日本人口統計集成』巻1(1992年)及び別巻1(1993年)、東洋書林。国鉄時代は、下野○○と書いて「しもずけ○○○○」と呼ばせる駅名が県内に存在した。平成に入り、それらの駅はすべて「しもつけ○○○○」と読み方を変更された。

出典:wikipedia

LINEスタンプ制作に興味がある場合は、
下記よりスタンプファクトリーのホームページをご覧ください。