阿倍 比羅夫(あべ の ひらふ、生没年不詳)は、7世紀中期(飛鳥時代)の日本の将軍。氏姓は阿倍引田臣。冠位は大錦上。越国守・後将軍・大宰帥を歴任した。658年から3年間日本海側を北は北海道までを航海して蝦夷を服属させ、粛慎と交戦した。阿倍氏は古くから越・北陸道方面の計略で活躍した氏族である。複姓が多く見られ、阿倍引田臣もその一つ。引田臣の性格については、比羅夫の活動にも関連して二説ある。一つは中央豪族である阿倍氏の一支族とするもの、もう一つは越国の地方豪族とするものである。中央出身説は、当時の国司が中央豪族から派遣されていたことを根拠とする。比羅夫の父親の名は必ずしもはっきりしないが、各種系図(「阿倍家系」(『備後福山 阿倍家譜』所収)、鈴木真年『百家系図稿』巻5,阿倍)では、阿倍氏の宗族である目とするものが多い。しかし目は敏達朝の人物であり時代が合わず、さらに前述の系図は比羅夫の子孫に伝わったものと想定され、比羅夫の系統を阿倍氏の宗族に位置づけようとした意図が考えられることから、比羅夫を目の子とするのは疑問とする。また、阿倍氏の庶流にあたる阿倍浄足とする系図もある。一方、太田亮は越国守であることを根拠に越国造家の一族の可能性を指摘している。なお、『日本書紀』で比羅夫の活動を記す部分は、当時の阿倍氏宗家(阿倍御主人の布勢氏)が提出した家記によると推定されているが、「阿倍臣(名を欠く)」と人名は記されていない。歴史学者の坂本太郎は、書紀編纂時の阿倍宗家が引田氏を快く思わなかったために、敢えて名を隠して阿倍氏の活躍とだけ記した史料を提出したのではないかと推定している。『日本書紀』によれば、658年に水軍180隻を率いて蝦夷(北海道)を討ち、さらに粛慎(樺太)を平らげた。粛慎は本来中国の文献上で満州東部に住むツングース系民族(樺太中部以北のはウィルタ)を指すが、阿倍比羅夫に討たれた粛慎と異なるとみられ『日本書紀』がどのような意味でこの語を使用しているのか不明である。蝦夷以外のオホーツク文化人とも推測され、樺太中部以北に住むニヴフを粛慎の末裔とする説もある。翌年には再び蝦夷を討って、後方羊蹄(シリベシ)に至り、郡領を任命して帰った。「後方羊蹄(シリベシ)」が現在のどこを指すのかはわかっていないが、江戸時代末期の探検家・松浦武四郎により、北海道の尻別川(アイヌ語で「シリ・ペッ」=上流が至って高い川、山に沿って下る、山の川)流域と推測され、同地は「後志国(しりべしのくに)」、同地の山(アイヌ語で「マッカリ・ヌプリ」)は「後方羊蹄山(しりべしやま)」と名付けられた。また、幣賄弁島については粛慎の本拠地である樺太とする説や、奥尻島とする説などがある。662年に中大兄皇子(後の天智天皇)の命により、征新羅将軍として百済救援のために朝鮮半島に向かったが、翌663年新羅と唐の連合軍に大敗した(白村江の戦い)。この敗北により百済再興はならなかった。
出典:wikipedia
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