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相模国

相模国(さがみのくに)は、かつて日本の地方行政区分だった令制国の一つ。東海道に属する。「相模」の模という文字について、現存する律令時代の公文書に捺されている国印では「莫」の下に「手」を配した文字「」が使用されており、手へんの「摸」による相摸とするのが本来の表記である。7世紀に成立。相武(さがむ)国造の領域(相模川流域、県中央部)と師長(しなが)国造の領域(酒匂川流域と中村川流域、県西部)を合したとされる。さらに、ヤマトタケルの子孫鎌倉別(かまくらわけ)の支配する鎌倉・三浦も加わる。なお、もとは武蔵国と一つだったという説がある。賀茂真淵や『倭訓栞』には、身狭(ムサ)国があり、のち身狭上・身狭下に分かれ、語の欠落などでそれぞれ相模・武蔵となったとする。本居宣長は『古事記伝』で、佐斯(サシ)国を仮定し、佐斯上、身佐斯と分かれ、そののち相模・武蔵となったという。近藤芳樹『陸路廼記』などによれば総(フサ)国の一部が総上・総下となり、のち相模・武蔵となったとされる。しかしこれらの説は、武蔵国がかつては毛野国(群馬県・栃木県)地域と一体であったとする考古学の成果と合わない。国名の語源は不明。前身とされる身狭上(ムサガミ)・佐斯上(サシガミ)が由来とする真淵や宣長の説もあれば、古代この地域の産物であったカラムシ(苧・麻布などの種)が訛った「ムシ」に由来するという説や、「坂見」の転訛(箱根の坂の上から見える地域)という説なども存在し、定説が確定できなくなっている(『神奈川県史』通史編1)。明治維新の直前の領域は現在以下のようになっている。現在の行政区域で言うと、神奈川県のうち川崎市・横浜市を除いた地域が旧相模国に該当する。ただし、旧武蔵国を過半とする横浜市のうち一部の地域は旧相模国の鎌倉郡にあたる。境川はその上流部において、現在では神奈川県と東京都の都県境であり、かつては武相国境(武蔵国との境)となっていた。境川を過ぎた後は、「武相国境道」と呼ばれる尾根道が聖マリアンナ医科大学横浜市西部病院の辺りから金沢区と鎌倉市の境まで続いていた。相模国の国府所在地は、未だ明らかでない。史料では、『和名類聚抄』および『拾芥抄』において「大住郡」、『伊呂波字類抄』では「餘綾郡」と見えるが、いずれも国分寺の所在地(高座郡)と異なるため、最低でも3遷したと推測される。以上のほか、現在の小田原市千代で見つかった千代廃寺(千代寺院跡)を国分寺と見なし、その付近に初期の国府があったとする説(足柄国府説)もある。なお、小田原市千代では古代寺院跡が見つかっており、これを初期国分寺と見る説がある。ただし近年では、その寺院跡は地元豪族による8世紀初頭の建立と見る説が有力視される。また、同寺院跡を国分寺跡とする説の根拠の1つは、その伽藍配置が諸国国分寺で採用される東大寺式と推測されたためであったが、近年では法隆寺式の可能性が指摘されている延喜式内社総社・一宮以下寒川神社は古くから現代に至るまで一宮とされている。一方で鶴岡八幡宮(鎌倉市雪ノ下)も全国一の宮会に加盟しており、一宮として扱われることがある。同宮は鎌倉時代の創建で、式内社ではないにもかかわらず一宮と同格の扱いを受けた。これは、当時の将軍である源氏の氏神を京都の石清水八幡宮から勧請した宮であり、鎌倉幕府が特別扱いしたためと考えられる。また、一宮から四宮までの4社と共に国司巡拝の神社で「一国一社の八幡宮」として平塚八幡宮(平塚市浅間町)があるが、同宮は四宮以上の4社と違って式内社ではない。平塚八幡宮を「五宮」と呼ぶことはなく神社側も五宮とは名乗っていないが、5月5日の国府祭(こうのまち)では一宮から四宮と平塚八幡宮の五社が神揃山(かみそろいやま)に集まる神事があることから、五宮格と考えられている。一方、室町時代の兵火に合うまで権勢を誇った有鹿神社は五宮とされることもある(諸説あり)が、国府祭には参加していない。中世、後北条氏は、相模国を西郡(足柄上郡・足柄下郡)、中郡(餘綾郡・大住郡・愛甲郡)、東郡(高座郡・鎌倉郡)とし、近世初頭まで用いられたようである。※日付=旧暦※在任期間中、「 」内は、史書で在任が確認できる最後の年月日を指す。

出典:wikipedia

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