死六臣(しろくしん)は、李氏朝鮮時代前期における6人の政治家である。彼らは世祖によって王位を追われた端宗の復位を図るものの露見し、鞭打ちの拷問の後、凌遅刑(牛を用いた八つ裂きの刑)で残酷に処刑された。しかし、後年忠臣として顕彰されている。6人の数え方には異説もあり、兪応孚または柳誠源の代わりに世宗の長男にして世祖の兄である文宗は生来病弱ゆえ在位2年で早世し、その息子である幼い端宗が跡を継いだ。端宗の叔父である首陽大君は、1453年10月に端宗の重臣を殺害して権力を掌握し(癸酉靖難)、その後、譲寧大君(世宗の実兄)や權擥、韓明澮らの後押しにより1455年閏6月に王に即位した(世祖)。世宗によって集賢殿に抜擢された学者・政治家であり、文宗から幼い端宗を補佐するよう遺命を受けていた成三問らは、端宗の復位を図って同志を募った。しかし世祖を殺害して復位を実現しようとする計画は成三問らと共に行動するはずであった金礩の裏切りと密告によって発覚し、関与した者たちは世祖に捕らえられた。かれらは拷問にも屈することなく処刑された。このとき処刑された者は成三問の父である成勝なども含め70余名に上る。その後、朝鮮王朝で成宗の時代より士林派が台頭し、名分論に基づいて世祖の権力掌握が簒奪と見なされるようになると、これに抗して忠義に殉じた臣下たちが顕彰されるようになり、端宗復位事件で処刑されたうちの主要な6人が「死六臣」として讃えられるようになった。粛宗の時代の1691年に、かれらの名誉も回復されて漢江の南・鷺梁津に愍節書院が建てられた(現・銅雀区の死六臣公園)。かれらは忠節を尽くして非命に倒れた悲劇の主人公として人気が高く、現代でも韓国のテレビの時代劇ドラマの題材などになることも決して少なくない。また、世祖の即位を認めず官職を辞してその後も一切官職につかなかった「生六臣」(せいろくしん)も、死六臣と一対の忠臣たちとして顕彰されている。
出典:wikipedia
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