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水俣駅

水俣駅(みなまたえき)は、熊本県水俣市桜井町一丁目1番地にある肥薩おれんじ鉄道線の駅。かつては九州旅客鉄道(JR九州)鹿児島本線の駅であった。また、JR九州山野線が分岐していた。開業時の地名(葦北郡水俣村)が由来。「水俣」とは「川が二股になったところ」、あるいは「川が2つに分かれたところ」と言う意味で、この地が水俣川と湯出川の合流地点にある事から付いた地名である。島式1面2線と相対式1面1線のホームで中線(通過線)もある。ただし、現在は中線と島式ホーム外側の3番線は使用停止状態になっており、相対式2面2線のように運用されている。有人駅である。トイレは駅舎内にあり、男女別の水洗式。駅舎落成から60年が経ち老朽化が著しくなってきたため、2014年11月より総事業費1億1400万円をかけて駅舎改装工事が行われた。事業費は全額環境省と水俣市の補助金で賄われている。工事開始に伴い、2015年1月10日より国鉄時代から使用されてきた改札口と待合室が閉鎖され、旧改札口の横に仮改札口とプレハブの仮待合室が設けられた。その後、同年4月29日にリニューアルオープンした。駅舎のデザインは当路線のおれんじ食堂や阿久根駅駅舎のデザインを手掛けた水戸岡鋭治が担当している。駅構内にはカフェ・レストランの「旬菜カフェ水俣屋」が入居し、水俣の伝統工芸の一つである「イワシかご(竹籠)」を設置した待合室やキッズルームなども設けられた。オープン当日は記念式典が開催された。なお、旬菜カフェ水俣屋は2015年11月15日限りで閉店し、2016年2月から別の店舗(喫茶店)が入店している。なお、駅舎リニューアルに伴い防犯上の理由から夜20:00から翌朝6:20までは館内が閉鎖され、駅舎横の通路(工事中だった当時の仮改札口)が出入口となる。前述の理由で、早朝と深夜は券売機で乗車券を買うことができず、当該時間帯は整理券を取り乗車することになる。列車の発着は基本的に駅舎側の1番線で、列車交換がある時に2番線も使用する。水俣市の中心駅であり、普通列車、快速列車、観光列車と肥薩おれんじ鉄道の全ての列車が停車する。また、2016年4月7日からはクルーズトレイン「ななつ星in九州」の乗り入れ開始に伴い、当駅も停車駅となった。JR鹿児島本線だった2004年3月12日までは全ての優等列車が停車していたほか、3番線や中線も使用され当駅折り返しの列車も数多く設定されていた。改札口に行先発車標(反転フラップ式案内表示機)や行灯式の座席案内標が設置され、特急有明も始発列車の10号(小倉行き)と終列車の49号(小倉発)の1往復が当駅発着で中線を使って夜間滞泊も行われていた。なお、廃止された山野線は主に3番線で発着していた。また、駅舎内にはみどりの窓口、待合室にキヨスクがあり、駅弁販売も行われていた。さらにジョイロード(現 JR九州旅行)水俣旅行センターが隣接して設置されていたが、どちらも経営移管時に閉店した。当駅のみどりの窓口はマルスが撤去され隣の新水俣駅に機能を移転したが、現在も出札窓口として使用されている。キヨスクも同じく新水俣駅に移転し、当駅のキヨスクを含むかつての待合室跡はパン工房「風季のとう」に改装された後、2015年から水俣屋に、旅行センター跡は待合室にそれぞれ改装されている。肥薩おれんじ鉄道に経営移管された際、発車標や座席案内標は撤去された。開業時は八代方面から当駅折り返しの区間列車が3本設定されていたが、2005年3月1日のダイヤ改正で八代方面からの列車は全て出水方面に延長されたため、以降は設定されておらず、当駅発着の区間列車は早朝6時台に当駅始発隈之城駅行き(出水駅 - 水俣駅間は回送運転)が1本設定されているのみである。国鉄時代は、山野線が発着していた3番線の隣に貨車入換用の側線群、駅の北西側にチッソ水俣工場への入換線と専用線を持ち、1985年頃に全ての貨物取取り扱いが廃止されるまでは八代駅・出水駅・川内駅などと並ぶ鹿児島本線の主要貨物取扱駅・支線中継駅の一つであった。貨物取扱廃止後、側線は廃車予定の貨車の留置などに使用するためにしばらくは遺されたものの、国鉄の分割民営化後に全て撤去され、跡地は住宅地や水俣自動車学校の敷地に転用されている。現在では駅構内の上り線(八代方面)側に機関車入換線の跡や入換線に通じていた渡り線のポイントレールが遺っており、入換線跡は安全側線として使われているほかすぐ後ろにある新地踏切にも遺構が遺り、下り線(出水方面)側に当時機関車の入換に使われていたシーサスクロッシングのポイントレールや機関車留置線が撤去されずにそのまま遺されており、かろうじて賑やかだった当時の駅構内の姿を垣間見ることが出来る。北東側は水俣市の中心市街地で、駅周辺も市街地が広がっている。至近遠方水俣病関連施設熊本県内を営業エリアとする産交バスと、鹿児島県から乗り入れる南国交通のバスが利用できる。近隣の水俣港と天草諸島の本渡市や牛深市(現天草市)を結んでいた牛深・本渡航路のフェリーの連絡駅としての面も持っており、休日を中心に天草諸島を訪れる観光客や島に里帰りする利用客で大変混雑し賑わっていた。そのため当駅発着列車と産交バス、フェリーの連絡運輸も行っていたが、水俣 - 牛深航路が2006年8月31日限りで運航廃止、水俣 - 本渡航路のカーフェリーも2007年5月6日の運航を最後に廃止され、列車連絡バスの運行も終了した。水俣港は現在も獅子島汽船による水俣 - 幣串航路が4往復運航されているが、水俣駅 - 水俣港間のバス連絡のみで列車連絡は行われていない。かつては駅の北西側に所在するチッソ水俣工場(水俣本部)への専用線があり、原材料や製品の化学薬品の貨物輸送が行われていた。当時は駅の南西側に入換機関車の車庫や小規模な入換線があり、本線からの貨物列車は側線や中線から一旦この入換線に引き込んだ後、スイッチバックする形で専用線に入り、駅前通りと国道3号の踏切、用水路を渡って工場に向かっていた。1980年代頃からチッソ自体の製造品目・生産体制の見直しで輸送量が減少したほか、国鉄の労働争議やチッソへの抗議行動による輸送混乱などを受けて安定性や安全性の面で輸送体制の見直しも図られ、輸送手段は道路輸送などに転換し、専用線は1985年(昭和60年)頃に廃止された。専用線跡は廃止後30年以上が経過しているため宅地化や駐車場化されており、工場内を含めて遺構はほとんど残っていないが、駅構内から工場に向かう曲線部がクロックス株式会社の駐車場と一般道路に転用されて面影を残しているほか、駅構内の入換線跡や入換線と専用線の分岐跡も一部は駐車場になったものの大部分が空き地のままで小さな木造の橋梁跡などの遺構が遺っており、駅南西の八ノ窪踏切前にも入換線があった事を示す車止めが遺されている。駅と工場内との間の貨車入換用として、ニチユ製の小型蓄電池機関車が使用されていた。原料搬入、製品出荷用の貨車が、水俣駅常備として配属されており、チッソ所有の私有タンク車(専用種別は、濃硫酸、希硝酸、酢酸及び無水酢酸、酢酸エチルなど)が主体だったが、他に国鉄のトラ40000形無蓋車の一部にも、小ロットのタンクコンテナ輸送専用運用として水俣駅常備とされたものが存在した。チッソの私有タンク車(酢酸及び無水酢酸専用)のうち、タキ3700形については、同形式の中でも特異な構造・形態の車両が多く含まれ、貨車研究者からは注目された。グループ企業のチッソ石油化学五井工場(浜五井駅付近)や、設立の経緯から関連の深い旭化成工業薬品工場(南延岡駅付近)をはじめとする化学工業メーカーとの間で、原材料や製品の輸送が行われた。貨車は、上記の水俣駅常備の貨車のほか、チッソ石油化学の私有タンク車(浜五井駅常備)も入線した。また、上記以外の需要先への製品発送等もあり、国鉄の有蓋車も使用された。コンテナ貨物の取扱いもあった。専用線が使用されていた当時はチッソが引き起こした水俣病が世界的に深刻な社会問題になっており、会社側と患者側の損害賠償交渉も決裂状態だったことから水俣病被害者家族や患者支援団体の市民グループ(市民運動家)、社会運動家などによる専用線の座り込みやデモ活動、線路敷地内でのチッソ社員や警備員、水俣警察署の警官隊との揉み合いや衝突、列車への投石や置き石、バリケードによる線路封鎖など嫌がらせや運行妨害が絶えず、安定的な原料納入や製品出荷が出来ず問題化していた。時には大勢の被害者グループが専用線から水俣駅構内やホームまでなだれ込んできたり、構内の貨物列車の入れ換え作業を妨害することもあったと言う。このためチッソ側は専用線廃止時まで常時厳戒態勢を敷き、線路、施設、踏切、工場入口(ゲート)付近と言った専用線敷地に柵を設けて警備を厳重に行うとともに工場関係者以外の専用線敷地内の立ち入りや報道、撮影を一切禁止としたほか、混乱やトラブルを避けるために貨物出荷量、列車編成、工場内の線路配線などの詳細を一切公表せず列車の運行本数や時間も常に不定期扱いであった。また、非常時に備えて多数のチッソ社員や警備員が昼夜問わず頻繁に専用線の見回りや見張りを行い、敷地内や線路際で部外者や報道関係者などによる無断立ち入りや無断撮影などを見つけ次第即刻妨害するなど被害者家族や市民グループ、報道関係者とは常に対峙しており、その都度両者から罵声や怒号が飛び交うなど一触即発の険悪な状態で大変殺伐としていたと言う。特に貨物列車運行時は沿線が緊迫した雰囲気になり、多数の社員や警備員、国鉄職員が運行妨害防止のために貨車の荷台などに乗り込んだり列車の周りを取り囲み、大勢の警官隊や警備員が線路際の公衆や報道関係者を強制的に列車から遠ざけたり走行中の列車の撮影を厳禁(撮影の強制阻止や撮影者のカメラやフィルムの没収)とするなど、当時としては異例かつ徹底的とも言えるほどの厳重な警備態勢が敷かれていた。こうした経緯もあり、晩年は貨物輸送は大半がトラックやタンクローリーによる輸送で専用線はほとんど使用されていなかった。廃止後は直ちに敷地内の線路や施設が撤去され、全て更地にされて水俣市などに売却された。被害者グループへの妨害などにより、専用線の現役当時の資料や写真・動画は少ない。

出典:wikipedia

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