熊本県立済々黌高等学校(くまもとけんりつ せいせいこうこうとうがっこう)は、熊本県熊本市中央区黒髪二丁目にある公立高等学校。学校名は、「詩経」の一節「濟濟たる多士、文王以て寧んず」から採られている(「黌」は「学校」を意味する)。そのため卒業生を「多士」と呼び、現在でも「校長」を「黌長」、「校門」を「黌門」などと表記する伝統がある。「済済黌」、「濟々黌」とも表記する。ちなみに黌長印には「熊本県立済済黌高等学校長」とある。「黌」は非常に画数の多い難字であり、野球部が甲子園に出場した際、甲子園球場のビジョンに映し出される「本日の試合結果」の校名表記が第3試合までゴシック体表記だった時代(1984年~1992年)に「済々こう」となっていたことがある(明朝体による表記は可能)。現在、以下の「教育方針」が定められているが、いずれも明治以来の「三綱領」「八条目」がベースに存在している。正倫理 明大義(倫理を正しうし 大義を明らかにす)重廉恥 振元氣(廉恥を重んじ 元気を振るう)磨知識 進文明(知識を磨き 文明を進む)一.清明仁愛剛健ノ三徳ヲ修メ以テ人格ノ完成ヲ期スヘシ一.光輝アル我黌ノ歴史ニ鑑ミ以テ愛黌ノ精神ヲ發揮スヘシ一.孝悌ノ道ヲ厚ウシ忠愛ノ念ヲ長養スヘシ一.師弟ノ倫ヲ重ンジ學友ノ信公共ノ宜ヲ厚ウスヘシ一.儉(倹)素以テ己ヲ持シ禮(礼)文以テ其ノ身ヲ修ムヘシ一.規律ノ習慣ヲ尚ヒ向上ノ志ヲ壮ニシ發憤以テ其ノ業ヲ励ムヘシ一.高尚純潔ノ情操ヲ涵養シ精確周匝ノ知能ヲ啓發スヘシ一.齊整強健ノ身體(体)ヲ鍛錬シ耐久旺盛ノ氣力ヲ修養スヘシ明治時代に制定された黌歌の歌詞は非常に難解で、4拍子の曲が途中2拍子(行進曲風)に変わるという珍しい構成を持つ。1931年に昭和天皇が行幸した際には、これを記念して3番が追加され、全部で5番となったが、戦後になってからは歌詞の内容からこの3番が歌われることは滅多にない。また、「恩賜記念式歌」(明治35年の第19回恩賜記念大運動会で発表)、岡野貞一による「創立記念式歌」(明治45年、黌歌と同時に制定)があるが、いずれも現在は歌われることはない。2012年夏に野球部が甲子園に出場した際、ABCテレビの中継では校歌斉唱時に「済々黌高等学校 校歌」ではなく「済々黌 黌歌」とクレジットされた。2013年春出場時のGAORAの中継でも「熊本県立済々黌高等学校 黌歌」とクレジット。スクールカラーは黄色で、学帽、学生服、本館には黄色(実際は山吹色に近い)の線がデザインされている。このため熊本では「黄線」(キナセン)といえば済々黌の代名詞ともなっている。男子の制服は学生服であるが、詰襟に白い襟カラーはつけない。以前は、生徒は入学早々から部活の先輩などに言われ襟カラーを取り去りバンカラなアイデンティティを自主的に表現していた。これは、他高では生活指導の対象だが、本黌は伝統として公認、かつノーカラーでの制服着用を促すため、襟の内側からカラーを留めるボタンを取り去った。このため、生徒ほぼ全員が、入学式からカラーのない制服姿で参列する。制服の裏地には校章の大きな刺繍が縫いこまれ、胸ポケットの縁にキナセン、桜が刻まれた金ボタンで前を留め、黒襟には、左に校章、右に学年組章をつける。ただし、胸ポケットのキナセンは、旧来からのものではなく、普段学生帽をかぶらない生徒が多く、一見本黌の特徴が制服上全く見えなくなってしまうため、新たにつけることになったものである。夏季は、胸に「済々黌」と刺繍された白のカッターシャツに黒の学生ズボンという略装になる。女子の制服は冬季は紺ブレザーに緑ネクタイ。夏季はグレーのセーラーに白リボン。また中間服として、「済々黌」と刺繍された紺のカーディガンを夏服の上から着ることができる。校章・学年組章は胸ポケットにつける。戦前の剣道部は全国制覇を何度も達成、漕艇部、体操部、陸上競技部、ハンドボール部、水泳部がそれぞれ過去に全国制覇を達成している。野球部は1958年(昭和33年)の第30回選抜高等学校野球大会での優勝を経験(熊本県勢唯一の優勝)。水球部はインターハイ優勝5回を数え、多数のオリンピック選手を輩出している。また、ラグビー部(くりぃむしちゅーも在籍)が1998年(平成10年)の全国高等学校ラグビーフットボール大会(花園)に出場している。卒業式では、卒業生が最後に学生帽を一斉に投げ上げて退場するのが恒例となっているが、防衛大学校の卒業式を真似て昭和50年代に始まったものとされている。熊本電鉄バス(北4・北5・北6・北9系統) 済々黌前・男女共同参画センター入口バス停徒歩2分。熊本大学(旧制第五高等学校)が隣接している。熊本県内でもっとも古い1879年(明治12年)創立の高等学校。創立の中心人物である熊本県士族佐々友房は肥後熊本藩藩校時習館の出身で、保守佐幕派の思想グループである「学校党」に属していたことから、1877年(明治10年)、23歳のとき、西南戦争に熊本隊の池辺吉十郎らとともに一番小隊長として転戦。田原坂近くの吉次峠で重傷を負い、同年10月、除族・懲役10年の刑を言い渡され宮崎の監獄に収監された。佐々は獄中で青年子弟の育成、教育こそ急務であると痛感、1879年(明治12年)1月に病気のため出獄すると、同年12月、古荘嘉門、高橋長秋ら48名の同志とともに熊本市高田原相撲町に「同心学舎」を設立。建学精神を「皇室中心、国家主義」とした。後に「同心学舎」は1882年(明治15年)2月11日、儒教的要素の強い「三綱領」を教育方針の中心に据えた「済々黌」として発足、佐々も自ら第二代黌長に就任する傍ら、教育界だけでなく政界・言論界にも熊本の「保守本流」として進出していくことになる。「済々黌」は1901年(明治34年)旧制熊本県立中学済々黌、1948年(昭和23年)新制熊本県立済々黌高等学校と変遷を辿り現在に至る。職域別、地域別にも同窓会が置かれており、熊本県内外に多数の人材を輩出している。累計卒業者数は40,000人を超える。PTAは「同心会」と称して活動している。
出典:wikipedia
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