太陽の塔(たいようのとう)は、1970年に大阪府吹田市で開催された日本万国博覧会(EXPO'70・大阪万博)の会場に、芸術家の岡本太郎が制作した芸術作品であり建造物である。岡本太郎の代表作の1つである。太陽の塔は、大阪万博のテーマ館のシンボルとして建造され、万博終了後も引き続き万博記念公園に残された。モデルは、岡本太郎が飼っていたカラス。塔の高さ70m、基底部の直径20m、腕の長さ25m。未来を表す上部の黄金の顔(直径10.6m、目の直径2m)、現在を表す正面胴体部の太陽の顔(直径12m)、過去を表す背面に描かれた黒い太陽(直径8m)の3つの顔を持つ。大手ゼネコン3社が手を組み、造船技術を用いて鉄骨鉄筋コンクリート構造で建設されているが、太陽の顔は軽量化のためガラス繊維強化プラスチックで造られている。制作はスーパーレジン工業(現:セブンドリーマーズ)。岡本はこの顔に特にこだわり、自身の手で削り修正を加え続けた。顔の表面の凹凸は創業者渡邊源雄のアイデアで、硬質ウレタンを粉砕したものを接着し表現している。赤い稲妻と黒い太陽のコロナはタイル製で平田タイルが制作。黒い太陽は陶板製で、岡本と小嶋太郎の共同制作となっている。太陽の塔はその複雑かつ独特な形から、当初は70mの建築にした時に耐震基準を満たせるのか、そもそも立つのかも分からなかったため、建築士のプロジェクトチームは岡本の制作した雛形を厚さ1cmの輪切りにし計算をしたとチームの一員だった植田昌吾は語っている。万博当時は、黄金の顔の目にはサーチライトのように光を放つキセノン投光器が取り付けられ、万博期間中は、博覧会協会が運輸省(現・国土交通省)に特別な許可を得て期間限定で点灯していた。万博終了後に、雨漏りによって地下室が浸水し電気系統が故障し、また、近隣に位置する大阪国際空港を利用する飛行機の発着に支障をきたす可能性があることなどの理由により、点灯されることはなかった。しかし、2005年に行った愛・地球博のイベントでは、外部からコードで引き込んだ自動車用のライトとバッテリーを用いて、一時的に点灯が行われた。また、2010年3月27日からは、日本万国博覧会開催40周年記念事業の一環として、日没から23時まで毎夜点灯されることとなった。なお、投光器は、大阪国際空港を発着する飛行機の運航に支障が出ないよう、計148個のLEDを使用した輝度の低いものに交換されている。中空になっており、「生命の樹」と呼ばれる巨大なモニュメントが中心に位置している。万博開催中はパビリオンのひとつとして塔の内部に入ることができ、さながら胎内巡りの様に音楽やナレーションを聞きながら鑑賞するという趣向になっていた。万博終了後は永らく一般非公開とされていた。しかし、2003年に日本万国博覧会記念機構が独立行政法人となったのを記念して、誘導や避難などの災害対策をすることを条件とし、消防署から特別に許可が下り、33年ぶりに限定公開された。はがきによる応募者を抽選で、万博博覧会開催の年にちなんだ1970人を招待した。、以降も不定期に一般公開された。この公開は2007年3月31日をもっていったん終了した。一般公開の際は著作権の関係から内部の撮影は禁止となっていた。また、消防法の関係上(上層階に非常口がないため)、塔内の見学は1階のみで上層階へは上がれなかった。このあと改修の上、2010年の40周年事業の一環として再公開される予定となっていた。しかし耐震診断の結果、建築基準法上の耐震基準を満たしておらず、上半身や腕が特に危険という結果が出た。このため、40周年の2010年の再公開は見送られた。日本万国博覧会記念機構では、2011年度に耐震補強工事の設計をおこない、早ければ2012年度に着工して再公開を実施する方針と報じられた。しかし、2012年度末に当たる2013年3月に実施された工事の入札は、いずれも予定価格が上限を超えて不成立となった。日本万国博覧会記念機構は2013年度(2014年3月)で解散して管理を大阪府に移すことがすでに決まっていたが、大阪府は2013年8月に耐震工事は承認するものの内部公開に必要な改修への不承諾を機構側に返答しており、再公開の見通しは不明確な状況となった。しかし、同年11月になって大阪府の松井一郎知事は、日本万国博覧会記念機構が保有する積立金(修繕積立金18億、繰り越し積立金7億)を府が引き継ぐことで国と合意したとして、内部公開を進める意向を明らかにした。公開時期は、2013年の段階では工事が順調に進めば2015年(平成27年)内にも可能とみられていた。しかし、後述の通り2014年の段階で「2016年度末」となり、その後構造上の理由で工事費が高騰し、工事業者の入札が不調に終わったことから2016年4月以降に入札を再度実施するため、公開時期はさらに1年遅れの2018年3月となる見込みであると2016年2月に報じられた。大阪府は内部公開に向けての耐震化工事の予算を2016年度分と2017年度分で合わせて約17億円を計上した。このほか、地下空間も設けられており、そこにも「地底の太陽(太古の太陽)人間の祈りや心の源を表す」と呼ばれる第4の「顔」(直径3m、全長13m)が設置されていた。ただし、生命の樹同様万博終了後は閉鎖され、1993年を最後に様々な処理のドサクサで行方不明となってしまった。2009年には、40周年事業の一環として再展示することを目指し、情報提供が呼びかけられたが、2010年3月13日のEXPO'70パビリオンの開館には間に合わなかった。現在も手がかりとなる情報はなく、引き続き情報提供が呼びかけられている。しかし、2014年7月30日、府の有識者会議は第4の顔を復元し2016年度末の公開を目指す意向を明らかにした。前記の通り、2016年2月現在、公開予定は1年延期となっている。太陽の塔の内部につくられている高さ45mの『生命の樹』は、生命を支えるエネルギーの象徴であり、未来に向かって伸びてゆく生命の力強さを表現している。この「生命の樹」は、単細胞生物から人類が誕生するまでを、下から順に<原生類時代>、<三葉虫時代>、<魚類時代>、<両生類時代>、<爬虫類時代>、<哺乳類時代>にわけて、その年代ごとに代表的な生物の模型によって表していた。当時「生命の樹」の枝には約300体の模型が取り付けられており、これらのうちの一部は電子制御装置により、動いていた。なお、これらの模型は円谷プロが製作を行った。内部はエスカレーター、もしくは展望エレベーター(国賓専用)で一階から上層部まで、登りながら見学することができた。現在の塔内は、これら模型の大多数は散逸してしまったが一部と幹は健在。「ここから並んで60分です」と示されたサインボードなども存在しており、当時の賑わいを密閉された空間内に封印している。(塔内演出スコア 工業調査会刊、1970年より)太陽の塔は、丹下健三が設計した「お祭り広場」中央(やや南寄り)に、広場を覆う銀色のトラスで構築された大屋根から塔の上半分がつき出す形で建てられ、テーマ館の一部となっていた。1967年の最初の公式記者会見において岡本は高さ60mの「(仮称)生命の樹」を制作し、その内部は過去・現在・未来の三層構造になることを発表している(『読売新聞』1967年10月22日付)。この基本構想の思想的背景として岡本が愛読した世界的宗教学者ミルチャ・エリアーデの著書の存在が指摘されている。岡本は大屋根の下に万博のテーマを紹介する展示プロデューサーに就任していたが、就任以前からテーマである「人類の進歩と調和」に反発。そして先に設計が完成していた大屋根の模型を見るなり「70mだな」と呟き、穴の空いた大屋根から顔を出す太陽の塔を設計した。なお『当然ながら反発した丹下や部下に対し「頭を下げあって馴れ合うだけの調和なんて卑しい」という信念を曲げず大喧嘩した末に大屋根に穴を開けさせ太陽の塔を建てた』といった様な話が流布され有名であるが、平野暁臣によれば、丹下健三の権力を考えれば太陽の塔を白紙にすることは簡単であり、万博全体として見れば太陽の塔はあったほうが良いので白紙にはしなかった。そもそも二人は万博以前から関わりがありプロデューサーに推薦したのも丹下のため、太陽の塔が建ったのは丹下のおかげと語っている。テーマ館サブプロデューサーであった小松左京(SF作家)が石原慎太郎の小説『太陽の季節』の中の障子を破る場面を連想し、それを聞いた岡本太郎が「太陽の〜」と命名したとの証言を、ノンフィクション作家の松浦晋也が小松から直接聞いたとして伝聞を記しているが、岡本がどのレベルで述べたのかについては熟考が必要である。一方で「前年の1969年にプレ作品『若い太陽の塔』が製作公開されている。小松の談話は、完成した塔を見た発言のように聞こえるが、それだと時系列的に矛盾する」「1952年に岡本は『太陽の神話』という作品を作っている。太陽がモチーフなのはそのかなり前から」という学説(同上)がある。万博会期中は、観客は「過去」の展示部分であるテーマ館の地下部分から、透明のトンネル状の通路を通って太陽の塔内に進入した。万博終了後この通路は撤去され、通路跡はコンクリートでふさがれているが、その跡は今でもはっきりと確認できる。塔の右腕の内部に設置されたエスカレーターは、大屋根(空中テーマ館)につながっていた(現在、腕の開口部はふさがれている)。また、塔の西側と東側には、同じく岡本太郎作のオブジェ「母の塔」、「青春の塔」が建てられていた。太陽の塔は万博終了後に取り壊される予定であったが、撤去反対の署名運動があり、施設処理委員会(委員長・茅誠司東京大学名誉教授)が1975年1月23日に永久保存を決めた。その後、老朽化の進行と共に維持費が増加し、その確保も難しくなっている。しかし太陽の塔はもはや大阪城や通天閣に並ぶ大阪のシンボルとなっており、維持管理に懸命の努力が払われている。1994年には、万博開催25周年記念の目玉として、表面の汚れを落とすなどの大規模改修が行われた。資金は公園へのアクセスとなる大阪高速鉄道(大阪モノレール)の万博記念公園駅西側に整備された車庫用地の売却益で賄われた。なお、この改修の際に取り外された赤色の稲妻と緑色のコロナにあたるタイルは、2006年7月に大阪城公園で開催されたイベントでストラップとして限定販売され、2007年10月にも万博公園の中にある鉄鋼館で開催されたイベントで限定で販売された。また、2007年からは、40周年事業の一環として、再び内部・外部の改修・補強が行われた。前記の通り、2016年以降、内部の再公開に向けた耐震補強工事が実施される予定。海洋堂は2005年にタイムスリップグリコ大阪万博編で太陽の塔をフィギュア化し、その後も1/350、1/500、1/144と様々なスケールのフィギュアを発売している。1/350スケールは一度、1/144スケールは二度再発売されるヒット商品となった。バンダイは2014年に超合金フィギュアの発売開始40周年の記念企画として、この太陽の塔をモチーフにした「超合金・太陽の塔のロボ」なる商品を数量・予約限定で9月27日から発売した。玩具デザイナーの野中剛が海洋堂製1/350太陽の塔を元に制作した可動フィギュアを商品化したもの。この商品の開発に当たっては岡本太郎記念館館長の平野暁臣も公認・監修に携わっている。日本おもちゃ大賞2015【ハイターゲット・トイ部門】優秀賞受賞。2015年には奇譚クラブの人気カプセルトイ・コップのフチ子とのコラボレーションで「コップのフチの太陽の塔」が発売された。発売まもなく品薄となり、同年4月末に再発売された。
出典:wikipedia
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