高宗(こうそう)は、南宋の初代皇帝(在位:1127年6月12日 - 1162年7月24日)。北宋の第8代皇帝であった徽宗の九男。太宗の血統では最後の皇帝となった。北宋時代には康王に冊封され、1126年には大元帥に任じられている。翌1127年、金軍の侵攻により、父である徽宗と長兄の欽宗、そして生母の韋氏、妻の邢氏らが金軍により北方に連れ去られる靖康の変が発生した際に、南京(現在の商丘市)へ逃れた。その地で、哲宗の皇后であった元祐皇后(廃立されており、当時たまたま実家にいたため、金に捕らえられず無事であった)を利用し、その指名を得て皇帝に即位した。これが南宋の起源である。しかしこの即位の手続きについては、宮廷の一部からその正当性に疑問があるとされ、即位した帝位は宮廷で確立したものではなかった。このため兄・欽宗を金側が送還させようと申し出て来た時も、高宗は帝位が動揺すると考え、帰国を許可しなかったとされる。その一方、正妻の邢氏(憲節皇后、金に抑留されたまま皇后に立てた)に関しては積極的であったが、願いは成就しなかった。金人は高宗に屈辱を与えるため、母の韋賢妃、妻の邢氏、及び娘の趙仏佑、趙神佑の4人を洗衣院と呼ばれる金の皇族・官吏用の妓楼に送っており(他にも多くの趙氏の女性が同様の辱めを受けた)、邢氏は五国城(現在の黒竜江省依蘭県)で病没した(韋氏と邢氏は一旦は後宮に送られた後、洗衣院に下げられた)。その後、呉氏(憲聖慈烈皇后)を皇后に立てた。即位の正統性に問題があった高宗の地位は安定せず、国内では即位反対派による反乱、国外では金の南下など、内憂外患の時代であった。そのため国内各地の移動が続き、1132年にようやく首都を臨安に定め、南宋の統治体制を確立するに至った。高宗は金軍の南下を恐れ、和平派に傾いていた。1138年、和平派を代表する秦檜を宰相に任用し、同年には金と和睦条約を締結することになった。このため、主戦派である岳飛と秦檜の対立を生み、1141年には岳飛が秦檜によって処刑されている。統治後半には金と再度和睦条約を締結し、外敵の侵入を防ぐ一方で、江南の開発が進められた。皇太子である趙旉が3歳で夭折した。高宗には他に男子がなく、兄弟など近縁の男子はことごとく金に連行されていたため、1162年に太祖の系統の族子である趙(孝宗)を立太子、同年に譲位して自らは太上皇(上皇)となった。高宗はその後、20年余りも余命を保ち、81歳で崩御した。高宗は能書家で、多くの書を遺している。そのうち『徽宗文集序』は日本の文化庁が保有し、国宝に指定されている。「徽宗文集序」(きそう ぶんしゅうのじょ)は、紹興24年(1154年)の書で、先帝・徽宗の文集百巻に、高宗自ら小楷で書した序文である。前半部分が失われ、現在32行が存在している。書風は温雅で気品が高く、極めて自然に悠々と筆を運んでいる。高宗は黄庭堅、次に米芾に学び、最後に二王を学んだといわれるが、この序文は黄庭堅や米芾の影響を脱し、唐人以上の激跡と評される高宗の代表作である。紙本・縦27.4cm、全長137cm。康王時代に5人の娘がおり、いずれも靖康の変に際し北遷された。光宗の時代、高宗の息女を自称する1人の老婦が南宋に突然現われた。連行途中で脱落し、鄧元亮に養われて江西で成長したという。光宗は彼女の身分を認め、郡主の位を授けた。本物であるとすれば、康三宗姫、康四宗姫、康五宗姫の3人のいずれかである。
出典:wikipedia
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