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トラバント

トラバント(')は、ドイツ民主共和国(東ドイツ)の社が生産していた小型乗用車である。「トラビ」 (') の愛称で親しまれた。名称はドイツ語で「衛星」「仲間」「随伴者」などを意味する語。1957年に打ち上げに成功したソ連の人工衛星「スプートニク1号」を賞賛して命名された。1958年から1991年までの長期にわたって大規模なモデルチェンジは行われないまま生産されたが、大まかには1958年 - 1964年のP50・P60と、1964年以降のP601に分けられる。1990年のベルリンの壁崩壊の直後からは、最新式のフォルクスワーゲン・ゴルフやオペル・アストラなどの西ドイツ製の車と、古色蒼然としたトラバントが、同じ通りで肩を並べて走るようになり、双方のドライバーとそれらを見比べた者に強烈なカルチャーショックを与えた。それまで移動の自由を束縛されていた東側諸国の人々が、トラバントに乗って国境検問所を続々と越える光景は、東欧における共産主義体制終焉の一つの象徴的シーンともなった。共産主義政権時代、東ドイツでは膨大なバックオーダーを抱えていたが、一般国民が他に入手できる大衆車が実質存在せず、一方で生産工場には需要に見合った適正な生産能力がないという、閉鎖性と停滞の反映に過ぎず、東ドイツの体制をも物語る歴史的なモニュメントとも言える自動車であった。走行性能・安全性・環境性能が数十年前の水準ということもあって、旧東ドイツ地域および周辺諸国においては、急激に淘汰されている。ドイツ国内においても、排ガス規制が強化されたことで、2008年1月からはベルリンなどの市街地では、歴史文化財として特別に許可を得た車両以外は走行できなくなっている。しかし、それ以降もドイツ人の旧車に対する視線の変化の為か、ベルリンでもこの特別許可を得て走行を続けるトラバントが増加してきているという。2010年11月現在、トラバントの特別許可取得台数はフォルクスワーゲン・ビートルの約5万台に次ぐ約3万台。愛嬌のある外見と誰でも修理が可能な単純さが人気の秘訣だという。「ボール紙のボディの車」と言われることがあるが、これは東ドイツ末期に製造品質が下がって表面の質感がボール紙のように見えたことから西側が仕上げ品質の低さを揶揄した表現であり、実際は長いモデルライフを通じボディの基本材料は綿の繊維を使った繊維強化プラスチック (FRP) である。ただし、製造期間末期はレーガン政権下のドル・ルーブルの為替レート操作による共産圏の財政悪化のため、製造コスト低減を図って実際にプラスチックに紙パルプを混ぜ込んでいた。メーカーは、東ドイツ時代にカール=マルクス=シュタット県(現在のザクセン州)にあったツヴィッカウに所在した、東ドイツ国営企業のVEBザクセンリンク ("VEB Sachsenring Automobilwerke Zwickau") である。第二次世界大戦前のドイツを代表する民族系自動車メーカーアウトウニオンの旧工場のうち、高級車ホルヒの生産拠点で、第二次世界大戦後、東ドイツ地域に含まれたツヴィッカウ工場がその前身であった。アウトウニオンは元々ドイツの民族系自動車メーカー4社が、外資対抗のため1932年に大合同して成立したメーカーである。オートバイ及び廉価な大衆車をDKW、上級小型車をヴァンダラー、中型車をアウディ、大型高級車をホルヒという形で分担した。このうち1904年創業のDKWは、第一次世界大戦後に自転車補助動力用の2ストロークエンジンを開発して以来、1920年代にはオートバイメーカーとして急成長、1928年からは2ストロークエンジン搭載の小型乗用車生産にも進出して、アウトウニオン結成の中核ともなった企業である。DKWは1931年に、大衆車としては史上初の量産型前輪駆動車である500 cc車「DKW・F1」を発表、以来前輪駆動方式を得意とし、同じアウトウニオン系のアウディにも前輪駆動を導入するなどの進歩性を見せていた。VEBザクセンリンクは、ホルヒ工場を引き継いだ1949年以来、戦前形DKWの同型車および第二次大戦直前の試作車であったDKW・F9をベースにした800ccクラスの2ストローク前輪駆動車を製造していた。しかし1956年以降、このクラスのモデルについてはBMWアイゼナハ工場の後身であるアイゼナハー・モトーレンヴェルクが生産することになり、1957年にモデルチェンジでアイゼナハから3気筒900cc車のヴァルトブルクが登場した。ザクセンリンクはより小型のモデルを担当することになり、戦前のDKW系ベーシックカーのリバイバルともいうべきクラスのトラバントを開発することになった。全長3.5 m、車幅1.5 mのコンパクトなサイズである。定員は4名。エンジンは直列2気筒2ストロークの空冷エンジン横置き配置で、前輪駆動方式であった。四輪自動車のエンジン横置き配置は2気筒クラスでは珍しいことではなく、1931年のDKW・F1からして2気筒横置きエンジンである。一般に横置きエンジンの最初とされるイギリスのミニ(1959年、アレック・イシゴニス設計)は、長い4気筒エンジンを横置きにしたことに意義があった。ブレーキは全期間を通して4輪ドラムブレーキであったが、明らかに性能不足であった。ラダーフレーム上に別体のボディを載せる古典的構造で、大きな強度を必要としないことから、ボディの一部はFRPで造られていた。このため軽量に仕上がり、車重は600kg強に過ぎない。東ドイツで物資が不足するようになるとボディ材料の繊維がボール紙様となり、末期には粗悪な製品となっていた。2ドア3ボックスのリムジーネ(セダンボディ)のほか、ユニバーサル(ステーションワゴン形)もあった。1964年以前のP50・P60は丸みの強いボディでフロントグリルがなかったが、1964年以降のP601はやや直線化されて屋根が浅くなり、フロントグリルも設けられた。前照灯の上下切り換えスイッチは灯体の真下にあり、切り換え操作は一旦降りて行なう必要があった。クランクケース圧縮式2ストローク空冷直列2気筒エンジン。初期形P50(1958年 - 1962年)では500cc、その排気量拡大型P60(1962年 - 1964年)では600ccとなり、ボディ回りなどをマイナーチェンジした1964年以降のP601でもこれが踏襲された。P601のエンジンスペックは594cc、最大出力23HP/3,800rpm(DIN.26 HP/4,200rpmというデータもある)、最大トルク5.5kgm/3,000rpmで、1970年代の日本の軽自動車にやや劣る程度の内容である。公称最高速度はP601の場合で95 - 105km/hといわれる。到底連続走行できるようなものではなかったが、4人乗せて80km/h以上のスピードは出た。ただし、加速時間は相応なものが必要である。なお、P601の生産期間後期(1970年代以降)は、西側先進諸国において環境対策のため、自動車の排気ガス浄化が法制化されるようになった。だが同時期の東ドイツにおいては自動車の排気ガス浄化施策はなおざりのままで、トラバントやヴァルトブルクの2ストロークエンジンにも根本対策は為されず、東側諸国の大気汚染問題を拡大する一因となった。古典的2ストローク機関の例に漏れず、エンジンオイルをガソリンに混合給油する方式である。24リットルの燃料タンクは、ボンネット内のダッシュボード前方に置かれていた。これは1930年代以前の小型自動車に多く見られた配置で、給油に際してボンネットフードを開く必要があるのも同様である。タンクは登坂・降坂走行であってもエンジンより高い位置にあるため、燃料供給は重力による自然流下で、燃料ポンプは不要であった。このレイアウトは簡潔ではあるが、エンジンと燃料タンクが近接する構造は正面衝突時やエンジンの異常過熱時に発火するおそれがあり、安全性の面では極めて不利である。燃料計は付いていないので、4サイクル車におけるエンジンオイルのように給油口から棒を入れて残量を確認したり、燃料を入れた際のトリップメーターの数値を覚えて、日頃の燃料消費率を勘案し次回給油時期を推測する必要があった。ギアボックスはコンスタントメッシュ(常時噛み合い式)の4速型であるが、ノン・シンクロメッシュであり、スムーズな変速にはダブルクラッチが必要であった。1970年代以降はほとんど採用例がない古典的変速機であった。シフトレバーはコラムシフトであった。1930年代に大型のアメリカ車から普及し始めたコラムシフトは、1950年代にはヨーロッパでもブームとなり、小型車での採用も珍しくなくなっていた。トラバントもその流れに乗ったといえる。狭い車内幅を有効に使う一策として、コラムシフト採用にはそれなりの意味があった。しかし、1960年代後半以降の西側自動車界では、シフトレバー位置はコラムからフロアタイプに回帰するようになった。それでもトラバントは最後までコラムシフトを堅持し続けた。前後とも横置きリーフスプリングで吊られた独立懸架(フロントはウィッシュボーン、リアはトレーリングアームとトランスバース・リンク支持)。独立懸架としては旧式な設計である。トラバントは1958年の登場時点では、一見、さほど時流に遅れた自動車ではなかった。当時の西独ではメッサーシュミット・KR200やBMW・イセッタ等のマイクロカーが生産されており、前輪駆動の3ボックスボディを持つ2ストローク600cc級ミニカーというディメンションは、同時期の西側諸国にも散見された。しかし、トラバントの基本構成は1930年代のDKWと大差ないもので、大きな進歩を遂げたとは言い難かった。またFRPなど複合材料による車体構築は、戦前のDKWにおけるプラスチックボディでの軽量化の試みを引き継いだものであったが、ラダーフレームとFRPボディの組み合わせは鉄モノコックボディに比して強度や衝突安全性に劣り、生産性も低く、大量生産される大衆車には適さなかった。西側諸国での自動車ボディ全体へのFRP活用例は、少数生産のスポーツカーなど特殊な限定生産車がほとんどである。これらトラバントの問題点は早期に明らかになっていたはずであるが、社会主義体制下の計画経済においてはこれを再検証し、抜本的改良を加えるまでに至らなかった。P60系からP601系へのモデルチェンジも、当時流行のイタリアン・デザイン風に屋根を薄くリデザインするなどの表面的な手直しでしかなかった。競合メーカーのない体制では、一度完成された設計を敢えて積極的に変更する必要がなかったのである。なお、VEBザクセンリンクがモデルチェンジをする気がなかったわけではない。ヴァルトブルクを製造していたアイゼナハー・モトーレンヴェルクや、チェコスロヴァキアのシュコダと共同でモデルチェンジする計画が何度か立てられたが、試作品止まりか、社会主義統一党 (SED) の命令による中止等で実現しなかったのである。同時代の西側諸国では安全・環境規制の厳格化や企業間競争、技術革新によって小型大衆車は年々改良され、長足の進歩を遂げたが、トラバントはそのような「進歩」とは無縁なままに時代から取り残された状態で生産続行され、ついには社会主義体制の硬直性の象徴ともいうべき存在となってしまった。このような代物でも、東ドイツの庶民にとっては贅沢品である上に、注文から納車までには途方もない年月がかかった。1989年4月の段階で620万台の受注があったが、当時東ドイツ国内での生産台数は年間15万台(ちなみに当時西ドイツの年間の自動車製造台数は398万台)しかなかった。東ドイツ政府は自動車が国家の発展と社会の豊かさを国民が実感するために必要なものだという認識を持っていたが、積極的に製造し国内に普及させようとはしなかったのである。その理由としてはトラバントを他の共産圏諸国への輸出品としていたこと、余剰を産まず消費への欲望を抑えて経済的平等を目指す社会主義のイデオロギー上「贅沢品」である自動車を普及させることよりも日用品の流通に力を入れていたこと、シュタージに代表される国民監視体制を敷いていた東ドイツ政府が自動車によって個人が「移動の自由」を得ることを嫌っていたことが挙げられている。このような状態であったために10から12年待ちが当たり前ですらあった。そのため「買う予定はないがとりあえず注文をする」ということも普通に行なわれており、それが実需以上に注文数を膨張させることとなった。注文してから実際に購入するまでの期間があまりに長いために、すぐ手に入る中古車の方が新車よりも高値で取引されていた。なお東西自由化後に行われた最後のモデルチェンジでは、旧東側の生産体制(つまり雇用体制)を確保することから、フォルクスワーゲン製エンジンを搭載した、西側対応モデル(トラバント1.1)が発表された。このモデルには、カブリオレ仕様や、カーステレオのオプションなど、旧来の東側の体制では考えられなかったような豪華装備バージョンも登場し、主に話のネタのために西側の住人が購入したという。最後まで冷戦を象徴する存在であった。東西融合の象徴的なクルマであったことから、1990年前後には日本でも輸入を試みるショップが存在したが、排出ガス規制をクリアできず断念したようである。排気温度の低いエンジンの排ガス対策が困難であったとの記述が多く残っているが、2ストエンジン用の触媒をヒーターで加熱することで対応可能であった。最大の要因はエンジン直上に搭載される燃料タンクが衝突や腐食時の安全を欠く為だったという。なお、日本にも複数台が輸入されているが公道を走行可能なナンバー取得に至った車両は無いとされる。 この車を題材にした『ゴー・トラビ・ゴー』(") というコメディ映画が1991年に製作され、翌年には続編も作られた。ヨーロッパでは統一ドイツのみならず、21世紀初頭になって人気を博している。わざわざ程度の良い中古車を調達し、レーシングカーやラリー仕様に改造するマニアまでいる。実際に過去にはプライベータ参戦ながらもP601においてラリー・モンテカルロにグループAのクラス5へエントリーし、完走している。近年では徹底したチューニングを施したトラバントで旧東独製自動車最高速度記録の235km/hを樹立した者まで現れている。トラバント P800 RSとは、トラバントP601をベースに開発されたラリー専用車両である。RSはRallysportの略である。1986年から1988年に掛けて3台のみが製造された。エンジンはP601の2ストローク機関をベースに771ccまでボアアップされたものが使用された。このエンジンはノーマルの約19kwに対して倍以上高出力の48kwを発揮した。WRCでの活躍では、1986年から1989年、スポット参戦ではあるものの1000湖ラリーへグループAに3台体制でエントリー。強豪各社のホットモデルが参戦している中ポイント圏内に入ることはほぼなかったものの、86年は完走2台、87・88年完走1台、89年はクラス0で2・3・4位と1000cc以下のクラス0自体、出走車は少なかったものの健闘している。トラバント1.1は東西ドイツ統一後の1990年5月より発売されたトラバントシリーズ最後の市販車両である。ある意味ではVEBザクセンリンクの雇用維持の目的の為だけに製造されたモデルとも言えるが、その内実はかなりの近代化改修が施されていた。エンジンはフォルクスワーゲン・ポロの1100cc31kwの4ストロークエンジンに換装され、燃料タンクの位置も車体の右後方に変更された。また、グリルやバンパーもプラスチック製の近代的なものに変更された。エンジンと並ぶ最大の改良点は、従来のエンジンに比べて一挙に重量・出力共に向上したフォルクスワーゲンエンジンの出力を受け止める為に、フロントブレーキにはディスクブレーキが採用され、前車軸のサスペンションもコイルスプリングに変更されている点であろう。内装、電装系も大幅に近代化が施されたが、皮肉なことにこの車両は旧東ドイツ市民にとっては余りにも車輌価格が高価になりすぎた(18,600マルク)うえ、ベルリンの壁崩壊後西ドイツの中古車が大量に東ドイツに流入しており、それに比べてブランドイメージ、性能、値段が劣るトラバント1.1は東ドイツ市民にも全く受け入れられなかった。また、西ドイツ市民にとってはこれでも旧態依然は隠しきれない程の設計の古さも相まって、1年の間にセダン・ステーションワゴン・ジープタイプ・ピックアップ各型約4万台を製造したのを最後に、トラバントシリーズ33年の歴史に幕を下ろした。2007年に、トラバント生産開始50年を記念して、ドイツの大手模型メーカーのヘルパがトラバントの名称の権利を購入して新型による復活計画を発表した。同年9月、第62回フランクフルト・モーターショー (IAA) でヘルパはコンセプトカーである"New Trabi"ミニチュアモデルを展示。居住性向上のため室内が延長されて4ドアとなり、トランクは逆にP601より短くなった。当時はBMWのエンジンを搭載する計画だった。新しい トラバント nTのモデルは2009年のフランクフルト・モーターショーで公開された。また、ルーフにはソーラーパネルを搭載するほか、車内にはカーナビや携帯電話、携帯型デジタル音楽プレイヤー「iPod」の接続端子も標準装備するなど、その内蔵機能の豊富さも話題となった。2009年9月のIAAで「nT」というモデル名で公開された。リチウムイオン電池で駆動する45kWの誘導モーターを搭載する電気自動車となり、ドアは再び2枚に戻った。航続距離は100マイル(約180km)、最高速度は80mph(約128 km/h)に達する。トラバントnT 共同事業体にはヘルパ、ドイツの自動車部品専門メーカーの IndiKarとドイツの自動車技術企業のIAVが参加する。事業体は投資、設計、生産をトラバントの拠点であるZwickauで実施、"2012年"に販売する予定だった。ヘルパが中心となっている開発元では、2012年までの市場投入を目指して出資者を募っており、生産に至った場合は29,000ドル前後(19,600ユーロ)での販売を予定している。

出典:wikipedia

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