長浜 忠夫(ながはま ただお、1932年9月26日 - 1980年11月4日)は、鹿児島県出身のアニメ・人形劇の監督・演出家・脚本家・作詞家。中学生時代から演劇部で活動し、鹿児島放送劇団に所属して演出を担当する。日本大学芸術学部演劇学科に進学し、舞台芸術学院、キリン座、青年俳優クラブ、劇団民藝(宇野重吉に師事)で演劇を学びながら、演劇雑誌『テアトロ』編集部でアルバイトをする。人形劇団ひとみ座の演出部に所属していたとき、NHKのテレビ人形劇『ひょっこりひょうたん島』、TBSテレビの人形劇『伊賀の影丸』の演出を担当する。『ひょっこりひょうたん島』の経験はのちにギャグアニメの仕事をするとき役立った、と長浜は述べている。なお、後に妻となる三井淳子もひとみ座に所属していた。また、ひとみ座の同期で『伊賀の影丸』の製作者でもある藤岡豊は、のちにアニメ制作会社東京ムービーを設立しており、このことが長浜のアニメ演出家への転身に繋がった。東京ムービーのアニメ制作を担当していたAプロダクションへ入社し、『巨人の星』で一世を風靡したほか、コメディからロボットものまで幅広い作品を手がけた。『侍ジャイアンツ』を最後に1975年に同社を退社、アニメ業界に見切りをつけ、日本記録映像社を設立し、1年ほどCM製作などを行なった。『勇者ライディーン』でアニメ界に復帰し、サンライズとの関係を築く。続く『超電磁ロボ コン・バトラーV』、『超電磁マシーン ボルテスV』、『闘将ダイモス』は「長浜ロマンロボシリーズ」と呼ばれ、『巨人の星』と並ぶ代表作となっている。特に『超電磁マシーンボルテスV』は海外でも放送され、映画化も検討されたが結局実現に至らなかった。『未来ロボ ダルタニアス』を途中降板し、『ベルサイユのばら』で古巣の東京ムービーに復帰するも、後述の理由から途中降板した。フランスとの合作作品『宇宙伝説ユリシーズ31』の製作中に劇症肝炎の発症により急逝(後年、妻もこれに罹るが一命を取り留めている)、これが遺作となった。情熱家で自信家という性格は、ときにスポンサーの絶大な信頼を得たが、ときに周囲と衝突した。『ベルサイユのばら』での声優との演技を巡る対立は、長浜の途中降板にまで発展した。『侍ジャイアンツ』では、作画監督の大塚康生との演出論の食い違いが、大塚の実質的な降板につながった。長浜とも交流のあった山崎敬之(東京ムービー文芸部所属)によると、長浜は「(東京)ムービーの天皇」の異名を取っていたと言う。映画界で天皇の異名をとった黒澤明になぞらえた呼称である。その一方、ファンとの交流を大事にしたことで知られ、以後のアニメファンダムの基礎を作った。『闘将ダイモス』のゲストデザインでアニメデビューを果たしたメカニックデザイナーの出渕裕、アニメーターの内田順久、脚本家の塚本裕美子は、ファン時代に交流した長浜によって見出された。スタジオ見学に来るファンを歓待し、ファンレターには必ず目を通し、まめに返事を出したという。作中の登場人物が殺された放映のあとに「なぜ殺したのか」というファンの問い合わせにも、アニメ雑誌などを通じて返答を長文で掲載するなど、その姿勢が垣間見られることもあった。自作の脚本、演出に関しては並々ならぬ拘りがあり、安彦良和によると絵コンテの修正指示が他の作品に比べて非常に多く、そのやり方に関して「こちらを絞り出すような感じで音を上げる寸前まで追い込むんですよね」と語っており、アフレコ台本はぎりぎりまでの台詞の改訂のため黒線で埋め尽くされていたと言う。多くの長浜作品に参加している富野由悠季は、著書『だから 僕は…』で多大な影響を受けたと語り、吉川惣司は『ドキュメント・ボトムズ』の中で、真の意味でガンダムの出現を準備した人と評価している。舞台出身の声優三ツ矢雄二は、アニメデビュー時に同じく舞台演劇の経験がある長浜の演技指導に助けられた、と語っている。長浜が産み出した作品の重厚なドラマ性や、舞台演劇の理論を応用したケレン味溢れる演出形式は、アニメ界に絶大な影響を与えている。あおいあきらのペンネームで、自作の主題歌(エンディング)の作詞も手がけた。
出典:wikipedia
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