簡文帝(かんぶんてい)は、東晋の第8代皇帝。初代皇帝元帝の末子。利発であったことから父に愛された。即位前は会稽王の地位にあり、皇族の長老として数代に渡って若き皇帝を補佐する立場にあった。太和4年(369年)、前燕に北伐に出た桓温が慕容垂に大敗した。このため桓温の威勢が失墜したため、桓温は威勢を取り戻すために太和6年(371年)に又甥の皇帝司馬奕を男色に溺れているとして皇太后に進言して廃した後、司馬昱を皇帝として擁立した。このような経緯から簡文帝は桓温の傀儡であり、桓温の言うままに皇族や官吏の任免や賞罰が行なわれた。即位の翌年である咸安2年(372年)に早くも病に倒れ、53歳で死に臨んで桓温に皇位を禅譲しようと考えた。そして遺詔として「太子(司馬曜)が輔けるに足る人物なら輔佐してもらいたい。もしだめなら、温自ら位を取るがよい」とした(蜀漢の劉備が諸葛亮にした遺詔と同じである)。しかし侍中の王坦之がその詔を簡文帝の前で破ってしまい「天下は伝えられたもので、陛下がご勝手になさる事はできませぬ」と述べた。すると簡文帝は「運命が晋に味方するなら、その方が詔を破らずとも無事にすむであろうが、運命に見放されているならば、破ったとて何になろう」と述べた。そして謝安の奇策により、「諸葛武侯(諸葛亮)、王丞相(王導)の如くせよ」と改めて崩御した。このような経緯から次の皇位をどうするかで意見は紛糾したが、謝安・王坦之・王彪之らの尽力で簡文帝の六男で12歳の司馬曜(孝武帝)が世襲した。
出典:wikipedia
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