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全日本女子プロレス

全日本女子プロレス(ぜんにほんじょしプロレス)は、かつて存在した日本の女子プロレス団体。正式名称は全日本女子プロレス興業株式会社(ぜんにほんじょしプロレスこうぎょうかぶしきがいしゃ)。1968年6月4日、東京都品川区の品川公会堂で旗揚げ戦を開催。テレビ中継はフジテレビとFIGHTING TV サムライで定期もしくは不定期放送されていた。2005年4月17日、後楽園ホールの興行を最後に解散。経営陣との対立から日本女子プロレスを退社した松永高司と松永と共に退団した元所属選手達が設立。初代会長には大日本一誠会会長の万年東一が就任。設立当初は暴力団と関係があるとする中傷がなされて興行のための施設借用に困難をきたした。このため興行は野外リングを設営し旅回りをすることが多かった。この時に全日本女子を支援して、その身元を保証したのがデイリースポーツ。以降、1990年代まで全日本女子の主だった興行には「後援・デイリースポーツ」のクレジットがなされてフジテレビによる試合中継にもデイリースポーツ記者が解説者として派遣された。また全日本女子旗揚げ時にデイリースポーツ編集局長を務めていた植田信治は後の全日本女子のタイトル運営機関である全日本女子プロレスリング協会のコミッショナーに就任。興行は大都市の大会場、地方の県立体育館や市民会館、スーパーの駐車場など様々な場所で開催されて最盛期には年間200を超えて300を超える年もあるなど全プロレス団体でも最多だった。ジャパン女子プロレス旗揚げ以前は長らく国内唯一の女子プロレス団体だったため興行ポスターは単に「女子プロレス」と表記しておりスタッフも電話口で「はい女子プロレスです」と応対していた。東京都目黒区下目黒にプロレス団体としては珍しく自社ビルを所有して2階に事務所が置かれていた。練習拠点となる道場及び選手寮も自社ビル内にあった。2004年まで使用していたビルは1985年7月に完成。完成以前は東京都目黒区内の4階建てのビルの1階に事務所が置かれたが選手寮はそのビルの屋上にバラックで建てらてたものであった。自社ビル1階は車庫として使われていたが天井が高いこともあり沿道が歩行者天国となる日曜日に車庫内の車をすべて外に出して「ガレージマッチ」と呼ばれる興行を開催したこともある。自社ビル内には自社で経営していた飲食店「目黒SUN族」(全日本女子解散後に旗揚げされた団体「CHICK FIGHTS SUN」とは無関係)が入居しており練習生や若手選手が試合の無い日に働いていたほかイベントも行われていたが閉店後はグッズショップ「Ring Star」(全日本女子のプログラム名と同一)となった。自社ビルは1997年の経営破綻で債権者へ所有権が移転した後も賃貸料を支払いながら使用してきたが全日本女子解散前年の2004年に引き払い、全日本女子解散時は品川区小山のビルの一角に事務所を構えていた。移転後の自社ビルは解体されて現在はコインパーキングとなっている。全日本女子は松永家による同族会社だった。三男の松永高司を中心とする次男の松永健司、四男の松永国松、五男の松永俊国の4人で全日本女子を設立して運営していた(長男は経営に加わらず)。また高司と国松の間の長女の吉葉礼子と次女の山口洋子も所属選手だった。さらに松永正嗣ら兄弟の子息もスタッフに名を連ねていた。松永兄弟には格闘技出身者が多く今で言う総合格闘技の原型に当たる柔拳興行(ボクシングと柔道の異種格闘技戦が売り物の格闘技興行)の経験者もいる。試合に出場した松永健司は講道館を破門されている。そのことからしばしば全日本女子では異種格闘技戦が行われた。初代会長の万年東一の時代は松永高司が社長となり万年東一の会長退任後は松永高司が会長を継いで社長は他の兄弟3人が持ち回りに近い形で就任していた(会社解散時は国松が社長だった)。山口洋子は1989年10月に膀胱がんにより50歳で俊国は2002年9月22日に心不全により57歳で松永国松は2005年8月17日に自殺により63歳で吉葉礼子は2008年9月18日に肺がんにより70歳で松永高司は2009年7月11日に間質性肺炎により73歳で、それぞれ亡くなっている。同族経営が故、全日本女子プロレスリング協会コミッショナーだった植田信治は松永家と対立して全日本女子を離れた他にプロデュース責任者だった小川宏も退社後に松永家の同族経営を糾弾している。全日本女子の社是は「来るものは拒まず」であった。社是に現れているように全日本女子のスタッフになった人には事務所に直接足を運んだり試合会場に足を運んで会長の松永高司に直談判しかつ即決で採用に至ったスタッフが多かった他に全日本女子プロレス中継の実況を担当していた志生野温夫やプロレスライターの須山浩継も1人で事務所を数時間留守番していたこともあった。一般にはプロレス団体が募集を掛けてプロテストを行い、その合格者がトレーニングを経てそのままデビューへ進むが全日本女子でデビューするにはオーディションとプロテストの2段階を踏む必要があった。まずオーディションで候補者が篩いに掛けられて合格者してもその時点ではデビューが保障されるわけでなく、その後は候補生として入門した上で道場でトレーニングを積み一定期間後に行われるプロテストを通過することで初めてデビューへの道が開かれる。そのためオーディションを通過してもプロテストで受からず退団したり複数回受けて合格に至った者もいた。オーディションはタッグチーム「ビューティ・ペア」のブーム真っ只中の1977年に候補者が多数集まったため、この年に第1回を行い以来年1回実施していた。第1回合格者にはジャガー横田らがいる。タッグチーム「クラッシュ・ギャルズ」の全盛期にあった1985年は応募総数が4,000人、オーディション参加者が2,000人にも上りオーディションを通過してもプロテストで合格しなければならないため非常に狭き門だった。オーディションは主に事務所やテレビ放映局だったフジテレビにて実施されていた。一方で中高生を対象とした練習生制度も確立させた。これは地方巡業で空いた道場を練習生に開放して様々なトレーニングを積ませるもので所定の選考は通過する必要があるものの基礎を身に付けることで選考で有利になるため多くの練習生がデビューを掴むようになった。今日では多くの女子プロレス団体や元全日本女子所属選手の北斗晶が代表取締役を務める健介オフィスなどで、このシステムを採用している。会長の松永高司が日本女子プロレス協会よりNWAの名義人だったため全日本女子は当初、NWAのラインを利用して外国人選手を招聘。男子選手での日本プロレスや黎明期の全日本プロレスのように日本人選手対外国人選手を主軸としたマッチメイクを行っていた。その後、WWWAの管理権を得るとWWWA会長のミルドレッド・バークを窓口として彼女の弟子を招聘する。国際プロレスの女子部崩壊後に弟子の1人であるファビュラス・ムーラが参戦してからはバークからムーラへと移りつつあった。ムーラがWWFに参戦した後に全日本女子とWWFの間での相互参戦としてWWF所属選手が全日本女子に来日している。またWWFと業務提携を結んでいたUWAからルチャドーラも参戦。全日本女子は日本全国津々浦々を巡業するスタイルで体育館以外の特設リングや野外興行も多く年間250試合前後と言われた。2リーグ制を取っていた時期には両リーグ併せて305試合にも達した。これは男子選手とくらべてもかなり多い数である。所属選手の知名度のみならず緻密なスケジューリング地元とのパイプがなければ難しく既存の女子プロレス団体でこれを行えるのは全日本女子くらいしかいなかった。ハードな巡業は所属選手に雑草魂を植え付けるといわれていた。全日本女子解散後は全日本女子から分化したネオ・レディースが引き継いだが2010年12月31日に解散して実質後継たるワールド女子プロレス・ディアナが継承するも地方興行は大幅縮小された。一方で全日本女子の地方興行に関わったプロモーターの中にも自主興行を行う所が存在する。野外興行は全日本女子の名物の一つだった。当初は前述のように、公共施設の使用を断る自治体が多く、サーキットの編成の障害にもなっており、全日本女子プロレスは野外興行を増やすという方針を取ることにした。経費は会場を取り囲むシート、パイプ椅子、売店用のテントも自前であったため、屋内会場よりも経費が掛かったという。雨が降っても雨天強行で行われていた。会場近くの商店などに割引優待券を置かせてもらったところ、会場に気軽に運んでくれる客が増えた他、会場でも松永高司会長が直接焼く焼きそばが人気を博していた。さらに、前半戦が終わると、ミゼットレスラーが自由席の客に対し、「500円を払えば自由席から指定席への変更ができる」と声をかけていたこともあった。1997年の全日本女子の経営破綻後は、屋外会場での興行は減少したが、野外興行は2004年まで継続された。男、酒、たばこを嗜んではいけないという掟。女子選手が酒と、たばこをたしなむ様子は風俗嬢そのものであると考えた松永兄弟が禁止させたという。また所属選手には未成年も多いことも関係している。「男が出来ると股を開くのを嫌がるして怪我をすることを嫌がってファイトに精彩がなくなる」と公式に回答していた頃もある。ただし酒に関してはトップ女子選手に限り、ある程度までは黙認されていたらしい(当時、全日本プロレスの阿修羅・原が長与千種の同郷の先輩という縁で試合会場が近いときなどは女子選手を労うべく頻繁に飲み会を開いていたことを語り井上京子は、新人女子選手時代に先輩女子選手達の飲み会の席へ呼ばれ同席した事を全日本女子を退団した後にインタビューで答えている)。北斗晶が新日本プロレスの佐々木健介と結婚するに際して、この三禁の掟が焦点となったが会社に認められて北斗晶の結婚後の現役続行がOKになったというエピソードがある。この三禁はGAEA JAPANでも採用して、そのGAEAからデビューした里村明衣子が代表取締役を務めるセンダイガールズプロレスリングでも入門3年間は三禁としている。また2012年に設立された東京女子プロレスでも採用されることになった。現存する大半の女子プロレス団体では「競技に支障がない範囲」で解かれているが長らく定着していた慣習と言うこともあり愛川ゆず季のように会社の意向とは無関係に自らに三禁を課した女子選手は存在する。かつては「25歳(ないしは在籍10年)に達した選手は引退する」という暗黙の了解があった。理由としては世代交代を潤滑に行うためと、もし引退しても25歳くらいなら結婚や他の仕事を探す等、新しい生活が出来るだろうというフロントの考えからである。年を取り人気の落ちた所属選手には会社から「ポスターの扱いが小さくなる」などと有形無形のプレッシャーが掛けられ引退への道を進むこととなった。1993年にはエース格として全日本女子を牽引するブル中野が25歳に達したことから、その去就が注目されたが団体対抗戦の渦中だった状況もあり会社は現役続行を容認。この結果「25歳定年」は事実上はなくなった。なお全日本女子を25歳までに退いた選手のうち数名は、フリーで現役続行したり新団体を旗揚げするなどしたケースも見られてデビル雅美も25歳定年制により全日本女子を退団した後にフリーとしてジャパン女子プロレスに参戦していた。後にフリーとして復帰した長与千種も「結婚する」と嘘をついて引退したほどであった。「後輩女子選手は先輩女子選手の得意技を、その先輩女子選手が引退するまで使ってはいけない」という暗黙の了解があり、そのため所属選手は知恵を絞ってオリジナル技を開発して、それが各所属選手の個性になっていった。例外として1995年に行われた豊田真奈美(昭和62年組)対北斗晶(昭和60年組)戦で豊田真奈美が北斗晶の得意技「ノーザンライトボム」を2発喰らわせ勝利したケースがある。また引退する先輩女子選手が自分の後継者を指名するという意味合いもあって後輩女子選手に自分の得意技を譲るということがあった。毎年のように入団する女子選手がいた昭和60年代以降は入団年によって昭和(平成)xx年組と分けて呼称されていたが入門希望者の減少等が要因になりそういった呼称はあまり見られなくなった。全日本女子では多くの興行で前座としてミゼットプロレス(全日本女子では小人プロレスとも呼ばれた)を組み込んでおりミゼットレスラーも所属選手として抱えていた。1990年代中頃まで行われていた試合形式。格闘技戦と銘打っているがバーリトゥードではなく女子選手同士がグローブを着用し殴ったり蹴ったりするキックボクシング形式の試合である。後にキックボクシングやシュートボクシングの選手を招いて所属選手と対戦させている。松永兄弟がボクシングの経験者で、この形式を思いついたらしい。1976年には「世界三大格闘技戦」と銘打った興行が田園コロシアムで開催されて池下ユミ対ピンポン・ロカムヘンの異種格闘技戦やユカリ・レンチ対キム・メイビーのボクシング戦等が行われた。一方で日本初の女子総合格闘家である高橋洋子は全日本女子で女子プロレスラーとして活動した後に全日本女子のリングで総合格闘技ルールを戦って総合格闘技の転向に成功。また全日本女子で格闘技戦を経験した伊藤薫も総合格闘技の試合に参戦しており全日本女子解散後に設立した伊藤薫プロレス教室は総合格闘技の道場も兼ねている。さらに2003年にはデビュー前の水嶋なつみと高橋裕美を総合格闘技戦に参戦させた。プロレス団体が相次いで設立された1990年代前半には全日本女子が、これらのプロレス団体の設立を支援していた。例えば旗揚げ前のパンクラスには東京都目黒区の道場を練習の場として提供していた。ユニバーサル・プロレスリングやW★INGプロモーションにはリングの貸し出しだけでなく所属選手を派遣して対戦カード編成を補助している。このことが、それまで女子プロレスを見たことの無かった男性ファンを全日本女子に呼び寄せてブームを巻き起こすきっかけになっている。女子レスリングについても全日本女子は日本レスリング協会と協力体制を採っていた。1980年代の旗揚げの際に女子レスリング普及に努めていた日本レスリング協会の福田富昭は全日本女子の承認を得た上でオーディションの不合格者を女子レスリングにスカウトして吉村祥子ら多くのトップ女子レスリング選手を育て上げた。一方で全日本女子もジャガー横田がコーチに就任して練習生をレスリングの練習に参加させたり合同練習やエキシビションマッチを組んで女子レスリング国内外公式戦に練習生や新人選手を派遣させるなどしていた。さらに第1回「全日本女子レスリング選手権」は全日本女子とレスリング協会の合同興行として開かれた。これにより女子レスリングの知名度向上に一役買う一方、全日本女子から参戦した多くの所属選手もレスリング技術を身に付けて後のトップ女子選手に成長することができた。中でも豊田真奈美や井上京子らは国内大会優勝を経験している。また斉藤和枝や中見川志保のようにアマチュアで活躍した女子レスリング選手がプロ入り後も参戦を続けるケースや三田寺由香のように全日本女子の練習生として参加後はプロにならずアマチュアの実力者となるケースもあった。1990年代に入っても東京ドーム大会にトップ女子レスリング選手の山本美憂や新人女子レスリング選手の浜口京子も参戦しており以降もレスリングルールのエキシビションを行った。一方で府川唯未らレスリング出身者も全日本女子に入門。1999年にも日本レスリング協会主催の「レスリングフェスティバル99」が開催されて第1部でレスリング全日本選手権(全女からは中西百重が参加)、第2部で女子プロレスが行われた。なお全日本女子解散後はプロアマ協調路線をエスオベーションが引き継いでいる。全日本女子が全国的人気を獲得できたのはフジテレビによる試合中継番組の影響力も大きい。1975年からの放映開始以来、全日本女子プロレス中継、格闘女神ATHENAと引き継がれて2002年まで長きにわたって放映されてきた。さらに試合中継を放映するにとどまらず所属選手のテレビ番組出演やオリジナル楽曲発表などフジテレビの全面的バックアップで所属選手は全国的人気を獲得。これらの施策により「女子プロレスブーム」が幾度となく起こり全日本女子への入門希望者が激増するということも起こった。フジテレビによる中継終了後も解散までお台場のフジテレビ社屋で興行が行われるなど全日本女子とフジテレビの関係は維持されていた(後にリング横幕からはフジテレビの名前は外されて最末期のリング横幕スポンサーはAVメーカーであるソフト・オン・デマンドであった)。フジテレビでの定期中継番組開始前は東京12チャンネルの番組「女子プロレス中継 世界選手権シリーズ」、NETテレビの番組「23時ショー」、日本テレビの番組「11PM」の中で不定期に中継していた時期もあった。フジテレビにおける中継終了後はFIGHTING TV サムライが中継を引き継いだ。FIGHTING TV サムライでは全女CLASSICSと題した過去の名勝負を放送している。所属選手は歌手や女優など芸能活動も積極的に行ったことで、これも人気獲得に一役買っている。それまでプロレスの試合中継と取材以外でメディアに登場することは男女とも団体の看板選手を除けば皆無に等しかったがマッハ文朱が元々歌手志願だったことから全日本女子の事務所内に芸能部を設置してマッハ文朱を筆頭に多くの所属選手に歌手デビューさせてレコードを発売するとともに歌番組にも出演させてそれまで女子プロレスに興味を示さなかった一般層の獲得に成功している。また所属選手のドラマや映画などへの出演も多く特に女子プロレスを題材としたものや中継局であったフジテレビの番組「オレたちひょうきん族」のコーナー「ひょうきんプロレスアワー」と「めちゃ×2イケてるッ!」のコーナー「格闘女神MECHA」は全日本女子が団体として全面協力していた(格闘女神MECHAは格闘女神ATHENA終了と同時に他団体協力へ変更)。プロレス興業だけでなく松永家における浪費、飲食業経営、土地転がし、株の投資に手を出したことが経営を著しく悪化させた最大の要因である。ただし不動産事業に関しては外部から不動産業務のプロを招き入れたため、この事業のみ黒字で1番の原因は博打的な株の投資で大損害を負ったからとも言われている。しかし実際は興行面で利益確保が難しくタッグチーム「クラッシュ・ギャルズ」の全盛期は数十億円程度の収入があったが地方興行は立見券(1,000円)や自由席券(末期は前売りで3,000円)での入場者がかなり目立ち指定席券に空席が多く見られた他に当日券は指定席券が1,000円割引、自由席券が半額となる優待券やネット割引クーポン(ネット割引クーポンは事務所の車庫で開催するガレージマッチ、後楽園ホール、一部試合会場では使用不可)で集客に努めていた。アジャ・コングや北斗晶が在籍していた頃でさえ地方興行のほとんどが赤字遠征であった。2003年9月11日に開催した山口県小野田市の小野田市民館体育ホール大会ではプロモーターによるチケット代金持ち逃げが原因で前払いから後払いに急遽変更した試合会場使用料の未払い額である約32万5000円を滞納したため(使用料約35万2000円の内、3万円は支払い済み)、施設を管理する小野田市は全日本女子を相手取り、船木簡易裁判所に告訴した(後に全日本女子と小野田市の間で和解)。それゆえに1996年秋ごろからプロレス興業以外における巨額の借金の返済に追われていたことにより所属選手とスタッフに対しての給料の未払いや遅配が発生して所属選手はサーキットや練習に追われていたためアルバイトも出来ず最終的にはサーキット中に無償で食事などを提供するプロモーターを頼らざろう得なかった。下田美馬は貯金は底を尽き給料袋には千円札一枚の時もあった事を明かしている他にある中堅選手も年間300万円の給料の未払いがあり水嶋なつみも給料未払いを理由に全日本女子を退団している。1997年の日本武道館大会直後には選手全員が事務所前で給料の支払いを求めてストライキを敢行している。経営改善策として1997年初めから選手を交代で間引く公休制を試験導入したもののファンやプロモーターから反発があったため公休制はすぐに頓挫している。さらにスタッフには全日本女子の運転資金にするため消費者金融から50万円を借りるよう促された他に(返済は当然、スタッフが行った)リングアナウンサーの今井良晴のようにアルバイトを掛け持ちしたスタッフもいたという。経営破綻と同時に所有権が移動した自社ビルに関しても経営破綻前から売却を検討していたという。事務所移転前後には全盛期のような20戦前後かつ全国を回るサーキットは殆ど組めず関東地方中心でかつ10戦前後のサーキットとなっていた。2004年12月時点では負債が約30億円あったという。結局、飲食産業部の売上げでプロレス興行の赤字分を補填して倒産するまでの5年以上前から自転車操業状態だった。最終興行でも正式な「解散宣言」はなく、その後、渉外担当の松永正嗣(松永俊国の子息)が中心となって新たな興行主を探して全日本女子の継続を模索していたが多額の負債がネックとなり断念。譲渡先には最終興行をプロモートしたファースト・オン・ステージも挙がっていた。なお最終興行となった後楽園ホール大会後もかなくぼ総合体育館大会が4月27日に予定されていた。2005年8月17日に社長の松永国松が東京都品川区内のビルで飛び降り自殺をしていたことが判明。女子プロレス関係者に衝撃を与える最悪の事態となった。松永高司は全日本女子解散後に東京都千代田区神田で飲食店を経営して柴田恵陽との共著で2008年に著書「女子プロレス終わらない夢 全日本女子プロレス元会長松永高司」を出版。2009年7月11日に帰らぬ人となった。全日本女子解散後も多額の負債を返済できず全日本女子の借金の保証人となっていた悪徳レフェリーの阿部四郎は松永家に対する売掛金の回収難も相まって2008年に自宅を差し押さえられている。全日本女子解散時の所属選手7人はフリーとして選手活動を継続。そのうち高橋奈苗、Hikaru、前村早紀が自主興行「ドリームキャッチャー」を開催。2005年9月に業務停止になったメジャー女子プロレスAtoZ所属選手と共にKOプロダクションと契約するも2006年1月に契約解消。その後、2004年まで全日本女子に所属して我闘姑娘に移籍していた夏樹☆ヘッドも合流して10月1日よりファースト・オン・ステージの下でプロレスリングSUNを設立したが高橋は後に退団してHikaruと前村もSUN解散と同時に引退。フリーとして活動を継続していた前川久美子は2006年に藤井巳幸は2009年にそれぞれ引退。ミゼットレスラーはJWP女子プロレス、NEO女子プロレス、AtoZなどを転戦して現在は単発興行に参戦している。全日本女子が管理していた王座は解散と同時に封印されたがWWWA世界シングル王座のみ前川久美子が高橋奈苗とのタイトルマッチを希望していたため管理権を引き継ぐ形で引き続き保持していた(前川久美子は最終興行でWWWA世界シングル王座防衛戦を行って引退する予定だったが高橋奈苗が怪我で離脱していたため先延ばしに)。そして全日本女子解散から約1年が経過しようとした2006年3月26日に後楽園ホール大会での自身にとって最初で最後の自主興行(主催は当時、アパッチプロレス軍の親会社だったキャッシュボックス)で最後のタイトルマッチが行われて勝利した高橋奈苗が最後のWWWA世界シングル王者となり元会長の松永高司にWWWA世界シングル王座を返還して封印された。この引退興行は全日本女子最終興行同様に全日本女子OGを集めてスタッフも元全日本女子で構成されるなど事実上の全日本女子最終興行とも言える興行となった。2006年7月には旧全日本女子のプロモーターの1つの田島企画によるニュー全日本女子プロレスが設立されて不定期で興行を開催している。当初、松永高司は「ニュー全日本女子は全日本女子と一切関係がない」の見解を示していたが後に田島企画は松永家から許可をもらい「全日本女子プロレス」の名称を復活させた。ただし所属選手を持たないプロモーションであり参戦選手もJWP所属選手を中心に旧全日本女子所属歴のない選手が多い。また2006年にお台場で開催された「レッスルエキスポ2006」の女子プロレスでは「女子プロレスがお台場に帰ってきた」と題して開催された。全日本女子解散まで後援に当たっていたデイリースポーツは、その後、全日本女子に代わり現存する最古の女子プロレス団体となったJWPの主要大会の後援として女子プロレスに関わり続けている。また2011年には全日本女子で行われていた「タッグリーグ・ザ・ベスト」と同名の大会がJWPで復活している。全日本女子解散後の全日本女子の映像版権は力道山OB会に譲渡されてネット配信などに利用されているが2009年から2010年まで「全日本女子プロレス・メモリアルDVDシリーズ」と題してエースデュースより順次発売された。2009年6月24日に第1弾として1993年4月2日の横浜アリーナ大会が収録されたDVDが発売されて2009年内発売分は1990年代のいわゆる「対抗戦ブーム」に行われたビッグイベントがそれぞれBOXとして収録されている。2010年にはそれぞれ単品として発売。一方、JWP女子プロレスとの団体対抗戦を収録したDVDはクエストのJWP激闘史シリーズより「JWP激闘史〜団体対抗戦 vs 全女編〜」として発売されている。2011年にはベースボール・マガジン社より「週刊プロレスDVD増刊 超戦士伝説1」と題した1990年代初頭(メモリアルDVDシリーズより以前)を収録したDVDが発売される。WWWAはWorld Women's Wrestling Association(世界女子レスリング協会)の略。全日本女子が認定する王座。創設当初の挑戦資格は全日本女子所属選手に限られていたが多団体化により全日本女子所属選手以外の日本の団体に所属する選手にも開放。全日本女子黎明期の王座でAmerican Girls Wrestling Association(全米女子レスリング協会)の頭文字からAGWAと呼ばれる。後にWWWAに吸収される。メキシコのUWAが認定していた王座。カナダのスタンピード・レスリングが認定していた王座。全日本女子はNWA加盟団体だったためNWA公認のNWA世界女子王座とNWA世界女子タッグ王座に挑戦していた。しかし全日本女子所属選手からNWA世界女子王座を獲得した選手は現れなかった。なお巴ゆき子は日本女子プロレス協会所属選手時代にNWA世界女子王座を獲得している。NWA世界女子王座以外ではジャガー横田&奥村ひとみ組がNWAインターナショナルガールズ・タッグ王座を獲得している。全日本女子でのデビュー年別。1998年11月29日、横浜アリーナで開催した全日本女子創立30周年記念大会で女子プロレス殿堂を創設。以来、全日本女子の歴史に貢献した所属選手及び関係者のみならず日本の女子プロレス史に多大な功績を残した人物が顕彰された。なお池下ユミとモンスター・リッパーは1999年以降に殿堂入りとなった。また顕彰当時現役選手も存在したが、いずれも既に全日本女子は退団していた。

出典:wikipedia

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