ジョニー・デビッド・デイモン(Johnny David Damon, 1973年11月5日 - )は、アメリカ合衆国カンザス州フォートライリー出身のプロ野球選手(外野手)。1973年、アメリカ陸軍フォートライリー基地において、白人で軍人の父親とタイ人の母親の間に生まれる。のドラフトでカンザスシティ・ロイヤルズから1巡目(全体35位)指名され入団。、マイナーリーグで59盗塁を記録した。8月12日にメジャーデビューし、45試合に出場し、打率.282を記録した。、初めて1年を通してメジャーでプレーをした。145試合に出場し、打率.271、リーグ8位の25盗塁を記録した、8月10日エンゼルス戦では自身初の満塁本塁打を放った。は全161試合(メジャーは162試合制であるが、1998年ロイヤルズは161試合だった)に出場し、打率.277、リーグ2位の10三塁打を記録した。は打率.307で初めで打率が3割台を記録したが、9月14日、エンゼルスとのダブルヘッダー第2戦で欠場したため球団記録を更新し続けていた連続試合出場が305で途切れた。は開幕から4月下旬まで打率が2割を下回るなど極度のスランプに陥り、4月19日のツインズ戦ではトニー・ミューサー監督が彼らしいスイングが全くできていないからと、試合を休ませた。本人はこの欠場が復調のきっかけとなったと認めており、翌日から5月7日にかけて14試合連続安打を記録し、その間に達成した10試合連続先頭打者安打は、25年前にこの記録を付けるようになってからで最長となった。 7月には打率.436を記録し、18日のカブス戦ではメジャータイ記録となる4二塁打を放ち、月間MVPに選出された。この年のレギュラーシーズンは自己最高となる打率.327・214安打・136得点・42二塁打・88打点・46盗塁を記録し、得点は球団新記録となった。シーズン終了後にロイヤルズは5年総額3,200万ドルで契約を提示したが、デイモンの代理人スコット・ボラスは契約せず1年待ち、FA市場で試すことにした。そして1月8日にロイヤルズ、アスレチックス、デビルレイズによる三角トレードでオークランド・アスレチックスへ移籍した。155試合に出場し、打率.256、9本塁打、27盗塁と前年より成績が悪化したものの、チームは2年連続でプレーオフに進出し自身初めてポストシーズンへ出場。ディビジョンシリーズでヤンキースに負け、シーズン終了後の11月5日にFA宣言をした。2001年12月21日、ボストン・レッドソックスに4年3,200万ドルで移籍した。、オールスターにファイナルボートで選出され、初出場を果たした。打率.286、リーグ5位の118得点、自己最多の11三塁打を記録した。は打率.304・123得点・初の20本塁打・自己最多の94打点を記録し、チームの86年振りの世界一に貢献。ヤンキースとのリーグチャンピオンシップの第7戦では、優勝を決定付ける満塁本塁打を放ち、カージナルスとのワールドシリーズの第4戦では、先制のソロ本塁打を放つ活躍を見せた。キリストを意識した長髪と顔の下半分を覆うヒゲがトレードマークで、当時のあだ名は原始人 caveman だった。シーズンオフのファン感謝イベントではファンの目の前で髭と長髪をばっさり切り落とし、それをチャリティー商品として販売したこともある。2005年秋、4年総額5,200万ドルでのニューヨーク・ヤンキースへ移籍。歴史的な因縁の多いライバルチームへの移籍とあって、大きな話題を呼んだ。それに伴い、その長髪と髭を切り落とした。はレギュラーシーズン開幕前に2006 ワールド・ベースボール・クラシック・アメリカ合衆国代表に選出された。5月2日には古巣ボストンのフェンウェイ・パークで先発出場。凄まじいブーイングと大歓声に迎えられ、ヘルメットを振って応えた。同年は出塁率こそ前年より下がったものの、打率.285・25盗塁、自己最多となる24本塁打を記録し、初めて20本塁打・20盗塁を達成。デレク・ジーターと共にタブルチャンスメーカーとなり、効率よく得点をあげやすい打線を形成。チームの得点は前年より44点上回りリーグ1位の930得点で、それに対しデイモンを失ったレッドソックスは90点減の820点となった。は開幕戦で両膝を痛め、指名打者として出場する機会が増えた。センターの守備範囲も狭まり、若手のメルキー・カブレラにセンターの定位置を奪われ、終盤はセンターよりレフトで出場する試合が増えた。成績も打率.270、12本塁打と前年を下回る成績で、30二塁打・100得点が9年で途切れたが、ルー・ゲーリッグとスタン・ミュージアルに並ぶMLBタイ記録となった。は開幕から安定した成績を残し、6月7日のロイヤルズ戦でヤンキースの選手では1934年のマイリル・ホーグ外野手以来74年ぶりとなる1試合6打数6安打を記録した。しかし、7月4日のレッドソックス戦でボールを追ってフェンスに激突して右肩を負傷し、初めて故障者リストに入った。は右翼が狭い新ヤンキースタジアムにも助けられ、自己最多タイの24本塁打を記録(本拠地で17本塁打)。デレク・ジーターと入れ替わる形で2番打者を務め、チームの9年ぶり世界一に貢献した。ワールドシリーズ第4戦では、同点で迎えた9回表にヒットで出塁し、二盗を決めると、がら空きになっていた三塁を一気に陥れ、「1球で2盗塁」を記録した。シーズン終了後、ヤンキースとの残留交渉がまとまらずにFAとなった。2月22日、年俸800万ドルの1年契約で、デトロイト・タイガースへ移籍。タイガースでは、主に指名打者として15年連続となる140試合以上に出場したが、それまで8年連続、15年間で11度記録していた2ケタ本塁打・2ケタ盗塁の同時達成はならず、特に本塁打は自身のキャリアを通じて下から3番目タイ、盗塁は下から2番目に低い数字であった。一方で、メジャー16年目を迎えた事もあり、通算記録部門では1500得点・2500安打・100三塁打・1000打点などを次々に達成した。1月31日にタンパベイ・レイズと525万ドルの1年契約を結び、2月3日にはレッドソックス時代の同僚であり、同じくレイズと1年契約を結んだマニー・ラミレスと共に入団会見を行った。4月にマニー・ラミレスが引退したために、5番指名打者での起用が主になった。史上2人目の200本塁打、100三塁打、400盗塁を達成。シーズン終了後、FAになった。4月13日、怪我で1年間欠場する事になったグレイディ・サイズモアの代役としてクリーブランド・インディアンスと125万ドルの1年契約を結んだ。成績不振のため、2012年8月3日戦力外通告を受け、8月9日に解雇された。11月には第3回WBC予選にタイ代表として出場した。ボールカウントを多く稼ぐスタイルを特徴とし、構えがやや大きいにも関わらずバットスピードは非常に速い。従来のパワーも強く、ボールに強烈なバックスピンをかけるため打球を遠くへ飛ばすこともできる。一塁到達まで4.05秒のスピードを備え、一塁から三塁まででも巧みな走塁を見せる。盗塁の際には一歩目がとても早いため、加速するのが速く、2000年には盗塁王を獲得している。外野守備では持ち前の俊足である程度カバーしてきたものの、横方向へ走る軌道の捕り方と後方の打球を処理する能力に欠けている。肩の強さにも欠け、2006年の選手投票で『最も肩の弱い外野手』の1位となったこともある。過去に務めたことがある一塁の守備もあまりうまくはないようで、味方の投げた球を後ろに逸らしかけるなど(デレク・ジーターは失笑していた)、安定感がない。
出典:wikipedia
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