千葉 真一(ちば しんいち、JJ Sonny Chiba , 1939年1月22日 - )は、日本の俳優・体操選手・空手家・歌手・芸能プロモーター・アクション監督・映画監督・映画プロデューサー・作詞家・作曲家・ナレーター・声優。日本を代表する映画スターとして海外ではSonny Chiba (サニー ちば)の名で知られている。特技の器械体操や極真カラテ四段・少林寺拳法弐段・乗馬・スキーを活かしたアクロバティックなスタント・擬斗・殺陣に定評がある。吹き替えに頼らないで自ら演じるアクションスターの元祖ともいえる存在で、映画・テレビドラマ・演劇・コマーシャルメッセージと半世紀以上にわたり、幅広く活躍している。愛称 : 千葉ちゃん。ジャパンアクションクラブ ("JAC" ) の創始者。本名 : 前田 禎穂 (まえだ さだほ)、所属事務所 :アストライア。福岡県福岡市博多区雑餉隈で二男三女の長男(第二子)として生誕。父親は大刀洗町に在った陸軍飛行戦隊に所属する軍人で、母親は熊本県出身で学生時代に陸上競技をしていた。4歳の時、千葉県君津市へ転居。(⇒ #家族)中学生から器械体操を始め、オリンピックで日の丸を掲げたいという夢を抱くようになり、千葉県立木更津一高へ入学後、1年生で全国大会上位入賞、3年生で全国大会優勝を成し遂げた。1957年、日本体育大学体育学部体育学科に進学。二年生の時に、跳馬を練習中に着地で失敗し、腰・両膝を痛めてしまう。練習とアルバイトの掛け持ちで身体を酷使していたことも加わり悪化し、医者から「1年間運動禁止」と宣告された。1週間も練習を休めば差がつくこの時期に、選手を続けることが困難となる。休学も検討したが、学費を工面できないので余儀なく退学した。(⇒ #器械体操)将来を模索し始めた千葉は実家に帰る途中の代々木駅で「東映第6期ニューフェイス募集!」のポスターを偶然見かける。地元に戻り、相談した親友も賛成してくれたことや、かつてミスタースポーツウエア・コンテストに入賞し、東映ニューフェイスを受験するよう勧められていたことから応募した。日本体育大学で器械体操をしていた経歴を珍しがられたが、2万6千人の応募からトップの成績で合格を果たす。1959年、大学を中退して、東映へ入社。男性6名・女性14名の同期生には亀石征一郎・新井茂子・茅島成美・太地喜和子・真山知子・都築克子らがおり、俳優座で6か月の研修を受けた。1960年1月7日にテレビドラマ『新 七色仮面』の二代目・蘭光太郎として主演デビューし、続けてテレビドラマ『アラーの使者』にも主演した。(⇒ #変身ヒーロー)1961年、中山昭二の代役で映画『警視庁物語 不在証明(ありばい)』に出演後、深作欣二の初監督映画『風来坊探偵 赤い谷の惨劇』に主演して、2期先輩の曽根晴美と「拳銃コンビ」のキャッチコピーで売り出された。吹き替えなしでスタントをこなすことから、「アクションができる素材に演技の磨きを増せば」と期待される新人であった。(⇒ #アクション映画)1962年は映画『事件記者シリーズ』の第1作『恐怖の魔女』に主演したほか、1963年には映画『八州遊侠伝 男の盃』で時代劇初出演や『事件記者シリーズ』の第2作『殺人鬼の誘惑』と『柔道一代シリーズ』第一作に主演。シングル「男一匹生きるなら」をリリースして歌手デビューも果たした。(⇒ #音楽)1966年、映画『カミカゼ野郎 真昼の決斗』(日台合作)、映画『海底大戦争』(日米合作)にそれぞれ主演し、国際的にも活動し始め、後に『東京-ソウル-バンコック 実録麻薬地帯』(1973年、日香泰韓合作)、『激殺! 邪道拳』(1977年、日香泰合作)、『ゴルゴ13 九竜の首』(1977年、日香合作)など、諸外国との共同作品に主演するきっかけになった。その合間に前年のテレビドラマ『くらやみ五段』、遠藤実の自伝を映画化した『太陽に突っ走れ』、『子守唄シリーズ』、『河内遊侠伝』、『陸軍諜報33』など次々と主演していた。(⇒ #アクション映画)1968年からテレビドラマ『キイハンター』に主演。これまで誰も見たことのないスーパーアクションで人気をさらい、千葉ちゃんの愛称で一躍国民的アイドルとして親しまれた。(⇒ #キイハンター・#ファン)1969年、オールスターキャスト映画『日本暗殺秘録』では小沼正に扮して主演。同年の京都市民映画祭では本作で演技賞を獲得。1970年、アクション・擬斗を演じる相手やスタントマンの不足に悩み、アメリカ映画で活躍するような俳優・スタントマンの育成、若年層の教育に関心を持っていたことから、ジャパンアクションクラブ ("JAC" ) を設立。(⇒ "#JAC" )1973年の映画『仁義なき戦い 広島死闘篇』で演じた大友勝利はシリーズ中1, 2を争う名キャラクターとして人気をつかんでおり、後のヤクザ映画でも「『仁義なき戦い』の千葉真一さんがやった大友勝利のような」と影響を与え続け、ヤクザ役のひな型となっている。『広島死闘篇』と同時進行で『柔道一代シリーズ』以来、10年ぶりの格闘映画となる主演作品『ボディガード牙シリーズ』(1973年)の撮影に入り、続けて主演映画『殺人拳シリーズ』もクランクインしたため、『仁義なき戦いシリーズ』の再出演は実現しなかった。これ以降は格闘映画で主演作品が製作されていき、学生時代から極真カラテを修行して、黒帯を允許された技量が生かされることとなった。(⇒ #ヤクザ映画・#空手道)1973年に封切公開された映画『ボディガード牙シリーズ』を皮切りに、『殺人拳シリーズ』(1974年 - 1976年)、『地獄拳シリーズ』(1974年)、『少林寺拳法』(1975年)、『けんか空手シリーズ』(1975年 - 1977年)、『激殺! 邪道拳』(1977年)と、前後して『やくざ刑事シリーズ』(1970年 - 1971年)、『狼やくざシリーズ』(1971年 - 1972年)、『麻薬売春Gメンシリーズ』(1972年)や、小説・劇画を映画化した『ウルフガイ 燃えろ狼男』(1975年)、1977年は『空手バカ一代』、『ドーベルマン刑事』、『ゴルゴ13 九竜の首』など数々の映画に主演。テレビドラマ『キイハンター』と同様のスタントに、空手道・拳法・器械体操などが加わり、アクロバティックでスリリングとシャープな演技は好評を博した。とりわけカラテをメインにした格闘映画は世界的に大ヒットをして、海外の著名人のファンが多い。この頃から海外ではSonny Chiba (サニー ちば)というネーミングで認知されていく。アメリカ合衆国では最も権威のある総合情報週刊誌・Varietyの1974年12月18日付にもこの出来事が掲載され、同誌が初めて日本映画を取り上げるという快挙を成し遂げた。(⇒ #格闘映画・#ファン)上記以外の映画やテレビドラマ『ザ・ボディガード』、『ザ★ゴリラ7』、『燃える捜査網』、『大非常線』にも主演し、若手の育成に追われる日々となったが、1976年の映画『沖縄やくざ戦争』では京都市民映画祭の主演男優賞を受賞した。1977年4月にハワイで開催された「日本代表極真会館チーム対ハワイ代表チーム」というフルコンタクト空手の対抗戦に参戦。「前アメリカ東海岸空手チャンピオンのグレッグ・カーフマン」という180cm以上ある黒人で対戦相手を、第2ラウンドに二段蹴りでKO勝ちを収めた。(⇒ #空手道)名実共に日本を代表するアクションスターとして活躍していたが、1978年から本格的に時代劇へ進出する。主演映画『柳生一族の陰謀』は興行収入30億円以上の記録的大ヒットし、1979年に第2回日本アカデミー賞の優秀助演男優賞を受賞した。柳生但馬守宗矩(若山富三郎)・宮本武蔵(緒形拳)と華麗で凄みのある一騎討ちを披露した主演映画『魔界転生』(1981年)は観客動員数200万人・配給収入10.5億円を超し、映画『赤穂城断絶』(1978年)、『里見八犬伝』(1983年)などにも出演。特に『柳生一族の陰謀』、『魔界転生』、テレビドラマ『柳生あばれ旅シリーズ』(1980年 - 1983年)の柳生十兵衛三厳と、傑作と評価されている『影の軍団シリーズ』(1980年 - 1985年)の服部半蔵は、十八番である。(⇒ #時代劇)1979年には芸能生活20周年記念作品である映画『戦国自衛隊』で、主演と日本映画初のアクション監督を兼務し、配給収入で13.5億円のヒットをした。その演出が評価され、1980年にブルーリボン賞のスタッフ賞を受賞した。1981年の主演映画『冒険者カミカゼ -ADVENTURER KAMIKAZE-』は自ら企画し、前年の『忍者武芸帖 百地三太夫』と『吼えろ鉄拳』(1981年)は俳優とアクション監督を兼ね、『燃える勇者』ではアクション監督に専念。1989年の『将軍家光の乱心 激突』では再びアクション監督と俳優を兼務したが、この作品は第39回ベルリン国際映画祭に招待された。1990年にはプロデューサーと初の監督を兼ねた映画『リメインズ 美しき勇者たち』を手がけ、アクション映画の全盛期を牽引していた。(⇒ #アクション映画)この頃は演劇にも進出し、3年間にわたって満員御礼となる記録的な成功を収めたミュージカル『ゆかいな海賊大冒険』(1982年 - 1984年)、『酔いどれ公爵』(1985年)など複数の作品を企画・演出・主演し、"JAC" ミュージカルとして定期的に公演した。(⇒ #演劇)1970年代から1980年代にかけて、テレビドラマ『七色とんがらし』(1976年)や『十字路』(1978年)、『深夜にようこそ』(1986年)、『夢に見た日々』(1989年)のホームドラマにも主演。1982年には楽曲「誓い(JACのテーマ)」を作詞、1985年には10年ぶりに歌手としてリリースした「曠野」の作曲も手がけ、俳優・歌手に留まらない映画監督・映画プロデューサー・作詞家・作曲家など、その活躍ぶりはジャンルを越えて幅広いものであった。(⇒ #音楽)日本と諸外国との合作映画『カミカゼ野郎 真昼の決斗』、『海底大戦争』、『東京-ソウル-バンコック 実録麻薬地帯』、『激殺! 邪道拳』、『ゴルゴ13 九竜の首』などに主演し、『武士道ブレード』(1981年、英米合作)にも出演していたが、既述のとおり本格的な海外作品への出演を認めてもらえず、関係者に「あきらめた」と思われていた。しかし水面下のアピールや主演映画の評判などで、1990年頃からアメリカ映画の出演依頼が届き始めていた。折しもロサンゼルスでは映画『激突! 殺人拳』(1974年)、『子連れ殺人拳』(1976年)など、14本の主演格闘映画がリバイバル公開されていた。(⇒ #格闘映画)1991年、ジャパンアクションクラブ ("JAC" ) の売却を経て、1992年にアメリカ映画『エイセス / 大空の誓い』に出演。これを機に拠点をロサンゼルスへ移して、アメリカでも俳優活動をするようになり、グリーンカードも取得した。日本未公開作品のアクション映画もあるが、長年の経験で培ったそのアクションは高く評価されている。(⇒ #ハリウッド)1998年に出演した香港映画『風雲 ストームライダーズ / 雄覇天下』では、ラスボス“雄覇(ホンパ / ホンファ)”を演じた。原作のイメージを彷彿とさせるその演技は話題に上り、翌年の第18回香港電影金像奨では、外国人として初めて優秀主演男優賞にもノミネートされた。2001年には台湾でも連続ドラマ化された。2003年、友人でもあるクエンティン・タランティーノのアメリカ映画『キル・ビル』シリーズでは出演と、ユマ・サーマン、ルーシー・リューらハリウッドスターへ剣術指導をした。第30回サターン賞では『キル・ビル』で助演男優賞にノミネートされた。(⇒ #ハリウッド)2005年10月29日に開催されたハワイ国際映画祭では、これまでの功績を讃えた"MAVERICK AWARD" を受賞した。2006年3月、福島県会津若松市にある會津藩校 日新館を運営する会社の取締役に就任し、9月には映画撮影所「日新館会津撮影所 武士乃陣」をオープンさせた。2007年には英国放送協会 ("BBC" )製作の、日本をテーマにしたドキュメンタリー番組『"Japanorama" 』に出演。「"Densetsu" ("Legends" )」(伝説)をテーマにした回で取り上げられ、4月9日に放送された。11月には海外で通称としていたJJ Sonny Chiba (JJ サニー チバ)を日本でも使うようになり、和千永 倫道(わちなが りんどう)の名で、映画監督業への進出を表明した。母親の旧姓・和智永(わちなが)と千葉を併せ、「人の道」を由来としたものである。11月26日には厚生労働省から「健康大使」にも任命された。2008年10月から2009年3月まで京都造形芸術大学の教授を務めた。2010年10月22日には東京・グランドプリンスホテル赤坂で、結婚披露宴を兼ねた芸能生活50周年記念式典を開いた。もともとはアントニオ猪木・池谷幸雄・石田純一・市川亀治郎・今井雅之・内野聖陽・梅宮辰夫・岡崎二朗・ガッツ石松・川地民夫・神取忍・樹木希林・北の湖敏満・京本政樹・具志堅用高・郷田勇三・小林幸子・コロッケ・高橋英樹・竹本直一・田中好子・谷村新司・津川雅彦・十朱幸代・夏八木勲・白竜・張本勲・布施明・風吹ジュン・松井章圭・松坂慶子・美川憲一・三田佳子・やまさき十三・山本KID徳郁・横峯良郎・ラモス瑠偉ら計60名を発起人とした芸能生活50周年記念式典が先に決まっていたところ、現妻と挙式や披露宴をしていなかったため、千葉の要望で記念式典と合わせて企画された。前半の披露宴には家族でキャンドル点灯のほか、長男の俳優・真剣佑と次男からも千葉夫妻へスピーチが行われた。後半の記念式典では出演した260本の映画・テレビドラマなどが順に紹介され、息子達と空手道の演武で型と杉板の試割りを、まな娘の女優・真瀬樹里とは殺陣を披露した。勝野洋・小堺一機・夏樹陽子らは花環を贈呈し、出席者に上記発起人ほか、太田昭宏・北島三郎・関根勤・高岡早紀・高橋和也、デヴィ・スカルノ、南部虎弾、ビリー・ブランクス、堀田眞三・魔裟斗・松木安太郎ら、多数の芸能人を含む各界から約600人がお祝いに集まった。千葉は「あっという間の50年だった。まだまだ、やり残したことがあるので精進したいと思う。ハリウッドで日本の俳優を育てたい」と新たな目標を掲げた。2011年以降、芸名を日本のみ千葉 真一に戻し、海外では"JJ Sonny Chiba" としている。同年9月29日から10月2日にロサンゼルス・ウエストウッドのビッグフット・クレスト・シアターにて開催された、アジア - アメリカ映画を祝す国際フィルムフェスティバル「"SINGAFEST 2011" 」(ビッグフット・エンターテインメント主催)では、"LIFETIME ACHIEVEMENT AWARD" を受賞し、代表作の一つである『魔界転生』が上映された。授賞式には長女の真瀬樹里、長男・真剣佑、次男も駆けつけ、息子たちは空手を、千葉と真瀬は殺陣を披露し、集まった多くのファンをわかせた。同年11月、徳島県鳴門市で生産・販売されている「本格焼き芋焼酎“斬”」の監修をした。(⇒ #ハリウッド)2013年3月10日、日本体育大学から正式に卒業を授与され、これにより最終学歴は「日本体育大学体育学部体育学科卒業」となり、学校教育法第104条および学位規則第2条の規定に従って「学士(体育学)」の学位が与えられた。2014年のテレビドラマ『おわこんTV』に主演し、テレビ業界のウラのウラまで知り尽くす名物社長を、存在感醸し出しながらも軽いタッチで演じた。同ドラマは文化庁芸術祭参加作品となっている。デビュー作が1960年1月7日から放送された『新 七色仮面』で、次の『アラーの使者』にも主演し、まずはテレビドラマで人気を得る。『新 七色仮面』は『七色仮面』から引き継がれた作品だが、蘭光太郎は波島進、七色仮面はスーツアクターが演じていた。千葉真一は初代の波島が演じた古典的な仮面ヒーローとは異なるヒーロー像を作り上げ、スーツアクターも兼務した。その演技・スタント・擬斗は後に製作されていく変身ヒーローを題材とした特撮作品に大きな影響を与えている。『アラーの使者』も児童向け活劇だがアクションは本格的で、翌年の主演映画『宇宙快速船』のアクションヒーローに繋がっていく。(⇒ #アクションスター)1961年に深作欣二の初監督映画『風来坊探偵 赤い谷の惨劇』に主演。危ないシーンはスタントマンに任せるのが主流な時代に、「吹き替えせずにできる」とスタッフへ言ったので、「さすが日体大だけに凄いことをやる」と評された。深作は文芸作品よりアクションものを好み「肉体こそ俳優の言葉」が口ぐせだったので、第二作『風来坊探偵 岬を渡る黒い風』でも千葉を主演に据え、更に危険な吹き替え無しのスタントを演じさせた。ニュー東映のホープとして主演した映画『ファンキーハットの快男児シリーズ』では、カーチェイス、左右に開脚して2人の敵を同時に倒す跳び蹴り、器械体操で培った筋骨隆々な肉体美を大車輪で披露している。こののち千葉と深作は17の映画でコンビを組み、ヒットを連発していく。(⇒ #キイハンター)深作欣二の評価とは対照的に高倉健から「アクションスターにはアクションしかできないという評価もあるから、そのイメージを世間に持たれないほうがいい」と同年にアドバイスされ、ドンパチの活劇だけでなく青春ものをやりたいなとも思っていた。宣伝担当の福永邦昭は「体操で鍛え上げた肉体と抜群の運動神経で、新しいアクション俳優の誕生と騒がれたが、東映が彼を生かしきれなかった」と振り返っており、それでも東映は映画・テレビドラマとジャンルを問わず、アクションスターであることを千葉へ常に求めていくこととなる。3, 4年ほど悩んだ末、やる以上、誰にも負けない完全にアクションのできる役者に成ろうと決意した。(⇒ #格闘映画)1966年の映画『カミカゼ野郎 真昼の決斗』(日台合作)は台湾でロケーション撮影され、離陸する軽飛行機の翼に飛びつき乗り込むスタントをした。疾走する自動車を追いかけアンテナに飛びつくスタントでは、後輪の跳ねた石が脛に突き刺さり、台湾で一週間入院する代償を払っている。傷だらけになりながらもスタントを演じきったが、『柔道一代 講道館の鬼』(1964年)に続いてケガしたため、父親を受取人にして傷害保険・生命保険に加入している。(⇒ #キイハンター・#格闘映画)1979年には芸能生活20周年記念作品である映画『戦国自衛隊』で、主演と日本映画初のアクション監督を兼務した。時速100kmで飛ぶヘリコプターにロープ1本でぶら下がり、乗馬では地面にある矢と弓を左右に傾き、拾い上げるスタントを演じたほか、ヘリコプターから宙吊りになるシーンは自前のハイスピードカメラを足に括りつけて撮影し、騎手の目線を写すためにカメラを取り付けたヘルメットを被り乗馬するなど、アクション監督として撮影を自ら行っており、これらの敢行はスタッフをとても心配させた。馬の脇腹に隠れての乗馬は、テレビドラマ『柳生一族の陰謀』第27話「美女と野獣」で千葉が既に演じていたものをジャパンアクションクラブ ("JAC" ) のメンバーに再現させている。演出時には『戦略大作戦』を意識していた。本作は1980年にブルーリボン賞のスタッフ賞を受賞した。東映から「好きな映画を作っていい」と許可され、企画した1981年の主演映画『冒険者カミカゼ -ADVENTURER KAMIKAZE-』はフランス映画『冒険者たち』をオマージュした作品で、空手・拳法の達人や剣豪・忍者とは異なるしがない大学職員に扮して活劇を演じた。前年の『忍者武芸帖 百地三太夫』ではワイヤーアクションを初めて取り入れ、『吼えろ鉄拳』と同様に俳優とアクション監督を兼ね、『燃える勇者』ではアクション監督に専念。1989年の『将軍家光の乱心 激突』では再び、アクション監督と俳優を兼務したが、この作品は第39回ベルリン国際映画祭に招待された。1990年にはプロデューサーと初の監督を兼ねた映画『リメインズ 美しき勇者たち』を手がけ、アクション映画の全盛期を牽引していた。これまで話題作に数多く主演してきたが、それとは裏腹に「アメリカで撮影が始まるときには『"Ready camera. Action!" 』と声がかかる。“アクション”は本来『あらゆる演技』を意味するものだけど、『体が動くからアクション俳優をやれ』と要望通りに何でも演じてきたことで、日本では逆にアクションのみが先行してしまい、あまり良くないイメージを持たれた」と複雑な心情を吐露している。(⇒ #アクションスター・#ジャンルを越えた活躍)1963年にシングル「男一匹生きるなら」をリリースして歌手デビューを果たした。1967年にグループ・サウンズの「ザ・サタンズ」というエレキバンドを結成。夜は音楽喫茶で歌い、地方公演もしていた。バンド名は漫画『悪魔くん』が好きな千葉が名付けたもの。映画やドラマの主題歌も歌い、作詞・作曲もしている。(⇒ #ディスコグラフィ・#ジャンルを越えた活躍)『キイハンター』は瞬く間に視聴率は30パーセントを超え、1年の放送予定が5年に延ばされた。山頂駅を出発した谷を行き来するロープウェイにワイヤを投げてぶら下がってからよじ登り、走行する列車やバスに飛び降りて屋根で敵と格闘、自動車から並走する軽飛行機に飛び移る、雪渓から回転しながら転落、滑落しそうな滝の前で格闘など数々のスタントを演じてるがケガを絶えず負い、大きなものでは左足首骨折や日本刀で腕を斬られていた。脚本で映画ほどアクションを細かく指定されていなかったぶん、いいものを作りたいと積極的にアイデアを出すが、経費を気にするスタッフと対立することもあった。しかし視聴率が上がっていくので、アイデアはどんどん採用されていくこととなる。国内では1969年の近代映画10月号臨時増刊では『千葉真一特集号』を刊行され、週刊マーガレットでは同年のNo.17から『千葉真一物語』が連載されるなど、人気はさらに上昇していった。海外でもオンエアされ、ブルース・リーは千葉の大ファンとなり、その活躍に深い興味を示して共演の申し入れをしてきたが、リーの突然の死により実現しなかった。千葉のアクションやスタントを観てから熱狂的なファンとなったジャッキー・チェンは、千葉のようなアクションスターになる夢を抱いていた。香港・タイ王国で映画『東京-ソウル-バンコック 実録麻薬地帯』(1973年)、『激殺! 邪道拳』(1977年)、『ゴルゴ13 九竜の首』(1977年)、『HAKEN 覇拳 ふりむけば修羅』(1992年)、『地雷原 A mine field.』(1992年)など、千葉主演・監督作品がロケーション撮影された際には現地で大歓迎されている。中島貞夫は『東京-ソウル-バンコック 実録麻薬地帯』をタイの製作会社から資本参加してもらってロケができた理由の一つに、『キイハンター』が放送されて当地で千葉の人気が高いことを挙げている。(⇒ #ファン)共演者の谷隼人は「千葉さんは『キイハンター』で身体障害者のファンが増えた。“あなたのアクションは私たちの夢です”と言われ、自分のアクションが希望を与えるならと一層刺激を受けていた。彼らの施設にも寄付をしていた」、大川栄子は「俳優にならなかったら、体育の先生になっていたと、よく基本を教えてくれる」、野際陽子は「ともかく熱意が凄くて、ケガすると普通はビビるのがそれ位以上のことに挑戦して成功する“怖いもの知らず”。でもサボテンだけは怖いですって」と証言している。千葉に比べると役者として駆け出しだった野際だが、放映し始めた頃のギャラは多くの映画に主演経験のある千葉より高かったので、「追い越してやる」と奮起させてくれる間柄でもあった。宮内洋は「千葉さんにはアクションのことでいろいろ教わり、それを仮面ライダーV3で生かした。その一つにアクションシーンで必ず手袋を着用したのも怪我を防ぐためだが、これは千葉さんのアイデアを取り入れたものだ」と語っている。(⇒ #音楽)1969年、オールスターキャスト映画『日本暗殺秘録』では小沼正に扮して主演。『キイハンター』を休んだため、TBSやファンから復帰の要望が高まっていたが、ドラマのイメージから脱皮しようと本作に賭ける思いはとても強かった。中島貞夫と協議しながら小沼を創り上げていき、撮影見学に来ていた小沼本人からもその演技は太鼓判を押された。喜びと共に「人気者になるだけでなく、様々な作品に出演していかなくてはいけない。『キイハンター』を卒業しよう」と決意する転機になった。降板をボス役の丹波哲郎に申し入れ、丹波と東映は続けたかったが、丹波は「千葉が居ないのでは『キイハンター』は成り立たない。だったら一度番組を終わらせよう」と理解を示し、大ヒットしていた同ドラマは1973年に終焉。千葉は「丹波さんの決断にとても感謝している」と述懐している。1970年、アクション・擬斗を演じる相手やスタントマンの不足に悩み、アメリカ映画で活躍するような俳優・スタントマンの育成、若年層の教育に関心を持っていたことから、ジャパンアクションクラブ ("JAC" ) を設立。結成式には若山富三郎が駆けつけてお祝いをしていた。主な門下生には大葉健二・金田治・斉藤一之・西本良治郎・春田純一・山岡淳二・志穂美悦子・真田広之・黒崎輝・崎津隆介・関根大学・山本亨・渡洋史・高木淳也・伊原剛志・堤真一・真矢武・土家歩・村松美香・山口祥行らがおり、俳優・アクション監督・スタントマン・スーツアクターで活躍する人材を輩出。千葉の親友である夏八木勲や、桜木健一、ら所属していない俳優も練習に通っていた。トップスターでありながら、志穂美悦子の『女必殺拳シリーズ』、真田広之の『忍者武芸帖 百地三太夫』『吼えろ鉄拳』『伊賀忍法帖』、大葉健二の『宇宙刑事ギャバン』、黒崎輝の『伊賀野カバ丸』、『コータローまかりとおる』、村松美香の『旅少女』など、教え子たちの主演作品に助演として出演することも多い。共に格闘映画を製作してきた橋本新一(脚本家・助監督)は「東映の大部屋俳優だけでは彼の擬斗を活かせることができなかったから、"JAC" を作ったことで格闘映画の質は向上した」と評している。(⇒ #演劇・#転機)任侠映画『子守唄シリーズ』をヒットさせていたが、1973年の映画『仁義なき戦い 広島死闘篇』がこれまでのイメージをかえることとなる。配役は予科練出身のヤクザ・山中正治に決まり、セリフも全て覚えて撮影に入る直前だった。しかし狂犬のようなヤクザ・大友勝利を演じることが決まっていた北大路欣也が「大友は粗暴で下品すぎて、どうしても自分では演じられない。山中をやらせてほしい」と言い出したことから、プロデューサーの日下部五朗と宣伝担当者らは千葉を突然訪ね、「山中と大友を交代してもらえないか」と依頼してきた。『日本暗殺秘録』に続いて『広島死闘篇』の脚本を執筆した笠原和夫は、小沼正の一面を山中のキャラクターに取り込んでいたこともあり、東映と笠原は「小沼を好演して受賞した千葉に、山中を演じさせよう」とキャスティングしていた。このような経緯から千葉も、小沼と山中に共通点を見出して役作りしてきたため、初めは交代に難色を示した。ほどなくして深作欣二が会議で唯一「千葉に大友を演じさせたほうが、絶対おもしろくなる」と主張していたことを知り、似たような役を再び演じることは俳優として停滞するのではないかと再考し、「役作りし直すから、出番を少し後にずらしてほしい」と交代を了承した。この時、中島貞夫も「大友をやるべき」と説得しており、「千葉ちゃんはサクさん(深作欣二)ともよく付き合っていたけど、肝心なところでは僕の意見を聞いてくれた」と話している。北大路に役を譲ったのはこれが初めてでなく、1963年の映画『海軍』に続いて二度目であった。当時の千葉はブロマイドの売上げが俳優部門で4年連続No.1のアイドルでもあったが、過激なセリフに悩みながら「これまで良いと思ったものを全て捨てる」という姿勢で、サングラスを常時掛けて眼を隠し、唇を裏返しにして糊付けするなど、役柄にふさわしい演技・扮装を工夫した。そして作り上げた大友勝利はシリーズ中1, 2を争う名キャラクターとして人気をつかんでおり、後のヤクザ映画でも「『仁義なき戦い』の千葉真一さんがやった大友勝利のような」と影響を与え続け、ヤクザ役のひな型となっている。封切り公開されると千葉のイメージチェンジは話題となり、俳優座養成所1期生で千葉と何度か共演している岩崎加根子などからも絶賛され、それを聞いた千葉は「とても自信がついた。悪役の妙味を知ることができ、実に大きなものを与えてくれた作品だった」と語っている。大友勝利は人気キャラクターだけあって主人公にした企画が出され、『仁義なき戦い 頂上作戦』にも大友で出演する予定だったが、『広島死闘篇』と同時進行で『柔道一代シリーズ』以来、10年ぶりの格闘映画にクランクインしたため、『仁義なき戦いシリーズ』の再出演は実現しなかった。(⇒ #転機)多くのヤクザ映画を手掛けてきた俊藤浩滋は「役者でいうと高倉健タイプかな。(ヤクザ映画で)行動派を演じさせれば、ピッと光るものがある」と評している。1963年から始まる『柔道一代シリーズ』に主演したのが最初の格闘映画である。第二作『柔道一代 講道館の鬼』(1964年)の乱闘シーンで肩を骨折してしまった。1973年の映画『ボディガード牙シリーズ』に主演後、1974年に主演した映画『激突! 殺人拳』は、ヤクザ映画が下火になっていた東映にとって、久々の大ヒットをとばした作品となった。アメリカ合衆国・ヨーロッパ・オーストラリア・カナダの映画会社も『激突! 殺人拳』を買い付けに来ていた。なかでもアメリカのニュー・ライン・シネマは「ブルース・リー以上だ。素晴らしい」と評して興行権を買い取り、『"The Street Fighter" 』とタイトルをつけ、千葉をSonny Chiba (サニー ちば)とネーミング。同年11月12日から主にアメリカ中南部の都市18館で封切られ、3週間でベスト5に躍り出て千葉の代表作となった。アメリカで最も権威のある総合情報週刊誌・Varietyの12月18日付にもこの出来事が掲載され、同誌が初めて日本映画を取り上げるという快挙を成し遂げた。大ヒットした要因として「リーの舞踊劇的な功夫と違い、ワザと力もより本物に近く、迫力がある」、「器械体操を利用した、トランジスター的器用さが面白い」が挙げられている。すぐシリーズ化され、全四作の『殺人拳シリーズ』になっている。忍者の末裔に扮した同年の主演映画『直撃! 地獄拳』は、千葉のスピードあるアクションと石井輝男のユーモアとウィットを盛り込んだ演出が組み合わされた作品となった。1974年度に4億1700万円の配給収入を上げ、同年度の日本映画配給収入ランキング第5位に入り、アメリカでは『"The Executioner" 』というタイトルで1999年現在、10万本以上のビデオが売れている。(⇒ "#Sonny Chiba" ・#海外進出)海外ではマーシャルアーツの大スターである"Sonny Chiba" の熱狂的な人気は根強く、谷川貞治は「千葉さんの映画のおかげで格闘技人口がかなり増え、格闘技界の宝だ」と述べている。(⇒ #ファン)岡田茂は「(主人公と)牛との格闘を欧州ではびっくりして、えらく受けている。ショウ・ブラザーズが千葉真一の空手映画を購入してシンガポールでも大ヒット。東南アジア映画祭でジャカルタへ行ったときも、抜群の動員力と人気を上げていた。千葉くんの空手が入って、東南アジア全域で当たり、すごい人気だ。東洋でナンバーワンなんだから、あのアクションをやらせたら世界に(千葉真一以外)いないんじゃないかな」と世界各地の人気・商況・反響を語っている。この頃フランシス・フォード・コッポラは「千葉真一とアル・パチーノの共演で映画を製作したい」と東映へオファーし、千葉も「海外で勝負させてください」と岡田に懇望したが、「まだその時期ではない」と認められなかった。『けんか空手シリーズ』や『子連れ殺人拳』で千葉とタッグを組んだ山口和彦は「常に自分しかできないアクションを見せることに徹していた。熱心な男で現場でいろいろなアイデアを出してくる。全てのアイデアを聞き入れることはできなかったが、自分がアクション映画を変えるんだという、その意気込みは凄かった。そうやって彼は自分の代わりが居ないところまで到達したからね。千葉真一というアクションスターは永遠に残っていくよ」と評している。(⇒ #空手道・"#Sonny Chiba" )1978年から本格的に時代劇へ進出するが、1963年の『八州遊侠伝 男の盃』以来であった。木刀で殺陣の練習を1日8時間行い臨み、主演映画『柳生一族の陰謀』では20mの崖から川へ飛び込むスタントをした。この作品は千葉が『裏柳生』というタイトルで深作欣二へ提出した企画がベースになっている。深作は従来の時代劇でなく、もっとテンポのあるアクション時代劇を作りたかったので、その期待に応えられる俳優は千葉真一、ただ一人しかないと見定めていた。千葉が演じる剣豪は・忍者は、空手・器械体操の技を取り入れたアクロバティックな殺陣で人気を得ていた。プロゴルファーの尾崎将司は試合でパターを打つ際に、『影の軍団シリーズ』で千葉演ずる頭領(おかしら)が敵を倒す直前に言う「天魔覆滅」を唱えてから打つと語っている。2012年のハリウッド映画『アベンジャーズ』のサミュエル・L・ジャクソンが扮した役柄は千葉の柳生十兵衛を参考としているなど後の作品にも影響を与え、福岡ソフトバンクホークスの監督・秋山幸二は「あなたにとってサムライとは?」という問いに「千葉真一の柳生十兵衛は、生きるか死ぬか究極の真剣勝負というイメージがいい」と評し、根強い人気がある。しかし十兵衛で長時間、左目に眼帯をしていたため千葉の右目は酷使され、視力を失い、人工レンズを入れる代償も払っていた。(⇒ #ジャンルを越えた活躍)『風林火山』で共演した内野聖陽はと語っている。演劇にも進出し、3年間にわたって満員御礼となる記録的な成功を収めたミュージカル『ゆかいな海賊大冒険』(1982年 - 1984年)、『酔いどれ公爵』(1985年)など複数の作品を企画・演出・主演し、"JAC" ミュージカルとして定期的に公演した。"JAC" 設立当初は吹き替えしないでアクションを演じられる俳優、スタントマンを育成する場だったが、ウエスト・サイド物語に感動して「いつかはミュージカルをやりたい」という夢を抱いていた、「肉体は俳優の言葉」というポリシーに「五体で喜怒哀楽を表現する」を加えて生徒を育てていく、役者を育てるにはミュージカルが一番だと気づいた、など、ミュージカル公演は悲願のひとつであった。高平哲郎は1980年代後半からミュージカルやショー関係の舞台が多くなってきたときに「脇を固めてくれるダンサーや役者は、ほとんどが"JAC" 出身者か劇団四季の退団者だった」と述べている。(⇒ "#JAC" )高校在学中にハリウッド映画のファンで、アラン・ラッドの『シェーン』やゲイリー・クーパーの『真昼の決闘』など、西部劇・アメリカ映画を夢中で観ていた。友人であるサミュエル・L・ジャクソン、クエンティン・タランティーノのほかには、スティーヴン・セガール、デニス・ヘイスバート、映画プロデューサーのデスティン・パフ、らと親交がある。セガールは流暢な大阪弁で「千葉先生、居てはりまっか?」などと頻繁に連絡してきており、パフは「Sonny Chiba (サニー ちば)のような伝説の俳優と組めるなんて、これ以上の幸せはない」と語っている。(⇒ #格闘映画・#ファン)2003年、クエンティン・タランティーノのアメリカ映画『キル・ビル』では出演と、ユマ・サーマン、ルーシー・リューらハリウッドスターへ剣術指導をした。サーマンは「"Sonny" (サニー)は大好きよ。私にとって彼は大スターだし、偉大な俳優だと思う」と、一方のリューは「"Sonny" は本当にいろいろなことを教えてくれた」と、それぞれ語っている。松方弘樹は千葉が海外で活躍している要因をと評している。君津市君津中学校へ進学すると、千葉の進路に影響を与えることとなる体育教師の松本と出会う。松本は千葉を陸上競技・バレーボール・野球(投手で4番打者)など、複数の大会に出場させていた。この頃ヘルシンキオリンピックが開催され、日本勢が体操競技でメダルを獲得したことにより、体操競技の一大ブームが発生する。松本はその時勢に乗り、千葉を「体操部を創るから部員になれ」と勧誘したので、運動部を掛け持ちしながら練習し始める日々となった。勧められての体操競技だったが、やがてオリンピックで日の丸を掲げたいという夢を抱くようになり、松本に相談すると「体操するなら木更津一高へ行け」とアドバイスされた。進学校のため躊躇していると松本は練習後にも勉強をみてくれる先生を手配し、その甲斐有って合格。入学後は体操競技に専念し、1年生で全国大会上位入賞、3年生で全国大会優勝を成し遂げた。1957年、日本体育大学体育学部体育学科へ進学。同級生には東京オリンピックの跳馬金メダリストの山下治広がおり、ヘルシンキオリンピックの跳馬銀メダリスト・竹本正男に指導を受けた。オリンピック出場を目指して練習に明け暮れていたが、独力で通学することが条件だったので、学費を稼ぐために時給が高い土工や引越しのアルバイトを、身体鍛錬も兼ねて並行していた。大学2年生の夏、跳馬を練習中に着地で失敗し、腰・両膝を痛めてしまう。練習とアルバイトの掛け持ちで身体を酷使していたことも加わり悪化し、医者から「1年間運動禁止」と宣告された。1週間も練習を休めば差がつくこの時期に、選手を続けることが困難となる。山下はその実力を「日本の体操選手が不得意にしているあん馬が彼は得意だった。でも大学二年の秋、跳馬の練習中に着地を失敗してアキレス腱と腰を痛めてしまって…。あのまま体操を続けていれば、間違いなく東京オリンピックでメダルを獲得できたのに惜しかった」と評し、才能を惜しんでいる。(⇒ #オリンピックを目指して)東映に入る前から大山道場(後の極真会館)に通っており、きっかけは大学生の時に大山倍達を知っている韓国人から紹介を受けて入門。格闘映画で千葉の敵役を演じた石橋雅史は極真カラテの先輩にあたる。大山は「千葉は学生時分から道場へ通ってきており、仕事の関係でまとまった稽古をしていないまでも、門下生の序列で言うと相当古い方になるんだよ」と語っている。千葉は名誉段位ではなく、一般門下生と同様に昇段審査を受け、1965年10月15日に黒帯(初段)を允許、1977年2月3日に弐段を越えて飛び段で参段、1984年1月20日に四段へ昇段した。1977年3月16日に空手道による真剣勝負をすることが発表され、4月にハワイで開催された「日本代表極真会館チーム対ハワイ代表チーム」というフルコンタクト空手の対抗戦に参戦した。他の日本代表メンバーには大石代悟・二宮城光・東孝・中村誠などがおり、対戦相手は「前アメリカ東海岸空手チャンピオンのグレッグ・カーフマン」という180cm以上ある黒人であった。千葉は通常の空手技の他に、跳び右後ろ回し蹴りや胴回し回転蹴りの元となった前方宙返りして踵で蹴るなど攻撃して、第2ラウンドに二段蹴りでKO勝ちを収めた。結果的に同年5月14日に封切り公開された映画『空手バカ一代』の宣伝にもなった。大山倍達は「千葉真一の空手映画は欧米で非常なブームとなっており、本職の空手家らの『"Sonny Chiba" (サニー ちば)の空手は本物』という批評が聞かれていた。極真カラテの黒帯である千葉だからそれも当然で、この対抗試合に出場してその実力を示したのは立派と言うしかない」と述べている。(⇒ "#Sonny Chiba" )1984年1月20日 - 22日に開催された極真会館主催の第3回オープントーナメント全世界空手道選手権大会では志穂美悦子・真田広之らジャパンアクションクラブ ("JAC" ) メンバーを率い、演武とテレビのゲスト解説をした。同年8月、極真会館ブラジル支部長・磯部清次の招待により、志穂美・真田・大葉健二を連れてサンパウロへ行き、25日 - 26日に開催された第1回日伯・第8回ブラジル極真空手道選手権大会でも演武を行った。日本・アメリカ・東南アジアと世界各国で、後進の育成・空手道の普及に活動しており、毎年10月には旧武徳殿がある京都市武道センターで少年少女オープン空手道選手権大会「千葉真一総裁杯」を催している。『新 影の軍団シリーズ』で共演した高野八誠は「最終章のラストシーンで千葉さんと殺陣をするんですが、休憩中に千葉さんが後ろ回し蹴りを見せてくれて、すっごい感動しましたね。動きは昔と変わってないなって、改めてビックリさせてもらいました」と、当時66歳の千葉について語っている。(⇒ #格闘映画)スポーツニッポン文化部次長だった脇田巧彦は「何事においても、とことん、のめりこむ性質で、適度ということを知らない熱血漢である」と評し、娘の真瀬樹里は「何があっても進んでいく前向きさと、映画への情熱は世界一。パパは私の誇り」と話している。高平哲郎は「打ち合わせ相手を待っていると、後ろのテーブルには千葉さんが女性と仕事の話をしながら食事していた。思わず『高平です。ご無沙汰しています』と声をかけると、千葉さんは立ち上がり、笑顔で『お元気ですか』と答えてくれた。2回しか会ってない私にきちんと挨拶をしてくれるのが、千葉さんの真面目さと優しさなんだと思う」と記している。ピラニア軍団にも特別後援者として関わっており、1975年に軍団の結成式が大阪市の御堂会館で催され、深作欣二・渡瀬恒彦と共に立会った。千葉は舞台へ上がらず、カメラ片手に客席からメンバーに声をかけて裏方に徹し、場を盛り上げていた。そんな千葉に川谷拓三は感謝し「ワシ、生まれて初めてこんな派手なスポットライトを浴びましたわ。ホンマおおきに!」と号泣していた。日刊スポーツの記者は「圧倒的な存在感をオーラと呼ぶが、それを感じた」、東映ニューフェイスの後輩である堀田眞三は「かつて大流行した『カッコいい! 千葉ちゃん!』の言葉通り、“ カッコよさ ” の象徴だった。国中を席巻したカリスマであり、正真正銘の映画スターとして、醸し出す雰囲気や存在感が全然違う。共演俳優や東映の後輩らも、威厳とパワフルで圧倒されるけど明るくて格好良いと言ってるし、滲み出る男を感じさせてくれる」、サミュエル・L・ジャクソンは「タフガイを演じる時には、いつも千葉さんの演技を参考にさせてもらっているんだ。カリスマ的な存在感のある、最高にクールな俳優だと思うよ」、あさ美は「かっこよすぎだし、オーラがすごいし、魅入っちゃった」、大木凡人は「とにかくカッコ良く情熱をもったスターです」、小泉孝太郎は「撮影現場に入られただけで、見えていないのにそれと分かる雰囲気を感じるくらい、ものすごい存在感でした。何かに例えるならば、サッカーコートジボワール代表のディディエ・ドログバのような。千葉さんが画面の前にお立ちになると、一気に何かが激変します」など、異口同音に「(千葉さんには)オーラやカリスマ性がある」と証言している。日本ではいしだあゆみ・今井雅之・尾崎将司・関根勤・園子温・高平哲郎、などのファンがいる。いしだは雑誌の表紙撮影で対面したときに「わたし、千葉さんの大ファンなんです」と伝えていた。いしだ主演のテレビドラマ『雪の朝に』(1987年)で恋人役で念願の共演を果たし、ほかには映画『闇の狩人』(1979年)や千葉主演のテレビドラマ『おわこんTV』(2014年)でも共演している。(⇒ #キイハンター・#2010年以降)ジャパンアクションクラブ ("JAC" ) に1980年代初期までに入団したメンバーのほとんどが千葉の勇姿に憧れた者ばかりで、大葉健二・春田純一・志穂美悦子・関根大学・[[山田一善]]、など。(⇒ "[[#JAC]]" )日本国外での著名人の熱烈なファンには[[サミュエル・L・ジャクソン]]、[[クエンティン・タランティーノ]]、[[ジャッキー・チェン]]、[[ブルース・リー]]、[[キアヌ・リーブス]]、[[インドネシア]]の[[格闘家]]・[[俳優]]の[[:id:Yayan Ruhian|ヤヤン・ルヒアン]]、らがおり、[[世界]]の映画人にも影響を与えている。ジャクソンは初めて千葉に会った時、直立不動で「サインをください」と頼んでいた。タランティーノは[[アメリカ映画]]『[[トゥルー・ロマンス]]』で[[主人公]]が『激突! 殺人拳』を[[映画館]]で観て、部屋には『[[カミカゼ野郎 真昼の決斗]]』、『[[東京-ソウル-バンコック 実録麻薬地帯]]』のポスターを貼るなど、千葉の熱狂的ファンである主人公を描いている。チェンはスターとして認められだした頃に[[東映京都撮影所]]へ出向き、千葉を表敬訪問して念願であった対面を実現した。リーブスは「僕は"Sonny Chiba" の映画とともに育ったようなものなんだ」、「『"[[w:The Street Fighter|The Street Fighter]]" 』からアクションと芝居を学んだ。僕は映画用の[[カンフー]]ならできるけど、サニー千葉は実際に人をボコボコにできる。情熱を感じる」と語り、リーブスの主演映画『[[ジョン・ウィック]]』のプロモーションで来日した2015年10月に千葉と待望の対面を果たした際には、" "Oh my god!" " を連発、固い握手を交わし、「ハジメマシテ、マエストロ!(巨匠)」と千葉へ挨拶。「あなたはキャラクターを演じるだけでなく、そこにアクションを盛り込んだ。屈強なキャラクターにもあなたが演じると心が感じられる」と身振り手振りを交えながら、千葉と会えたことをリーブスは終始嬉しそうに大はしゃぎしていた。ルヒアンは映画『[[ザ・レイド]]』の[[宣伝|プロモーション]]で[[2012年]]に[[来日]]した際、「千葉さんのアクションは本当に勉強になります」と日本が誇る世界のアクションスターに敬意を表した。(⇒ [[#キイハンター]]・[[#格闘映画]]・[[#ハリウッド]])[[大山倍達]]・[[高倉健]]・[[深作欣二]]を「人生で最も影響を受けた特別な存在で最も敬愛する人物」、尊敬する[[俳優]]に「[[ジェームズ・ディーン]]、[[ジャン=ポール・ベルモンド]]、高倉健、[[若山富三郎]]、[[ゲイリー・クーパー]]」、「[[親友]]は[[夏八木勲]]」を挙げている。[[1967年]]の[[映画]]『[[あゝ同期の桜]]』で知己を得て以来、最も共演が多い夏八木勲は、と評しており、千葉と夏八木を知る関係者も「夏八木さんの口からは、千葉さんを絶賛する言葉しか聞いたことがない。千葉さんも夏八木さんを『僕の人生の中で最高の俳優』と認めていて、事あるごとに仕事に誘っていた。互いによき理解者で、尊敬し合えるかけがえのない友だった」と証言している。深作欣二は「ともかく熱心だった。特にアクションシーンになると、自分からアイデアを出して急にイキイキしてくる。[[スティーブ・マックイーン]]みたいになりたいというのが口癖だった」、[[東映ニューフェイス]]の先輩でもある高倉健は「お互いに無口なところが妙に気が合ってね。普通なら男同士、酒でも飲んで語り合うもんだが、酒を飲めない俺に気を使ってか、喫茶店でコーヒーを飲んだりメシを食いに行ったりで、内気な恋人同士のデートみたいだった。それでも楽しいんだなあ」、同期の[[亀石征一郎]]は「[[方言]]が抜けないから研修が終わっても、一人で発音の練習をしていたのが印象的だった」と語る。デビュー当時から相談に乗っていた[[潮健児]]は「[[東京オリンピック (1964年)|東京オリンピック]]のあった昭和39年([[1964年]])前後に一番悩んでいた。[[日本体育大学]]の友人はオリンピックで名を上げ、『[[網走番外地 (東映)|網走番外地]]』で高倉健さんがスターになった。映画をやめたいと漏らしていた」と苦悩する様子を、[[鶴田浩二]]は「融通の利かないところが損しているな。絶対に弁解しないから、誤解されやすい」と、それぞれ慮っている。[[中尾彬]]は[[千葉県立木更津高等学校|千葉県立木更津一校]]の後輩で、千葉に「前田さん(本名)」と挨拶する。日体大に在学していた千葉が[[教育実習]]で指導した生徒が中尾で、教師と教え子の関係でもあったが、理由もなく反抗し、授業をよくサボっていた。芸能界で再会したときに、中尾は非礼を陳謝。千葉は中尾が出演していたドラマ『[[二人の刑事]]』("[[TBSテレビ|TBS]]" )を「観ているぜ」と言うと、中尾は「光栄です」と返事する関係である。趣味は[[水彩画]]。日記をつけている。愛車は白の[[マツダ・コスモ|マツダ・コスモスポーツ]]と[[フォード・マスタング#2代目(1969年~1973年)|フォード・マスタング・Mach1]]。選んだ理由は「小回りが利くから」と実にアクションスターらしい動機である。[[マーキュリー (自動車)#差別化の成功|マーキュリー・クーガー]]へと乗り継いだ。[[福岡県]][[福岡市]][[博多区]][[雑餉隈]]で二男三女の長男(第二子)として生誕。父親は[[大刀洗町]]に在った[[陸軍飛行戦隊]]に所属する[[軍人]]で、母親は[[熊本県]]出身で学生時代に[[陸上競技]]をしていた。[[テストパイロット]]の父親は初めて建造された[[航空母艦|空母]]へ初着艦を成功させるなど、危険な重責業務で給料の半分が飲み代となり、家庭は裕福でなかった。4歳の時、父親が[[千葉県]][[木更津市]]へ異動となったため、家族で千葉県[[君津市]]へ転居した。[[終戦]]後、軍が解体され、父親は漁業組合の役員へ転職したが、家計は厳しかった。小学生の頃から、新聞・牛乳配達をして家計を助けた。しかし「貧乏だったものの大自然に囲まれていたため、[[米]]以外は不自由せずにいろいろな[[食物]]を食べることができ、自分の土台となった」と当時を述懐している。父親は[[芸能界]]入りを猛烈に反対して[[勘当]]していたが、作品を観てからは考えを変え、その後は観るのを楽しんでいる。[[1971年]]初めには地元の[[君津市]]に実家を新築して親孝行をした。(⇒ [[#オリンピックを目指して]])弟の[[矢吹二朗]]が中学生になると[[東京都]]へ呼び寄せ、学校にも通わせ、育ち盛りの矢吹にはご飯を食べさせ、千葉は[[コッペパン]]に水という日々もあった。「ときどき兄貴の腕時計や無理して買った[[テープレコーダー]]が無くなったのは、きっと[[質屋]]へ持って行っていたと思う。僕には心配させまいと、一言も言わなかった」と語る。テレビドラマ『[[キイハンター]]』で共演した[[野際陽子]]と[[1972年]]に結婚し、一人娘の[[真瀬樹里]]を儲ける。おしどり夫婦として有名だったが、[[ハリウッド]]で仕事が増え始めて拠点を移したい千葉と、[[日本]]に居たい野際の意志不一致から、[[1994年]]に離婚。[[記者会見]]を野際と一緒に行うなど憎みあっての離婚ではないため、真瀬共々良好な関係を続けており、真瀬とは[[テレビドラマ|テレビ]][[時代劇]]『[[寺子屋ゆめ指南]]』、『[[風林火山 (NHK大河ドラマ)|風林火山]]』で共演し、複数の[[トーク番組]]へ一緒に出演している。その後、千葉は28歳年下の一般女性と[[1996年]]に再婚して長男・[[真剣佑]]と次男を授かり、[[アメリカ合衆国]][[カリフォルニア州]][[ビバリーヒルズ]]に在住している。[[2015年]]に離婚した。[[File:宇宙快速船.jpg|thumb|220px|[[1961年]]の主演映画『[[宇宙快速船]]』]][[Category:千葉真一|*]][[Category:日本の俳優]][[Category:日本の体操競技選手]][[Category:日本の空手家]][[Category:日本のスタントマン]][[Category:スーツアクター]][[Category:日本の歌手]][[Category:日本の実業家]][[Category:日本の映画プロデューサー]][[Category:日本の映画監督]][[Category:日本の作詞家]][[Category:日本の作曲家]][[Category:日本の男性声優]][[Category:アクション俳優]][[Category:剣劇俳優]][[Category:剣戟俳優]][[Category:ヤクザ映画の俳優]][[Category:日本のミュージカル俳優]][[Category:日本の舞台俳優]][[Category:Vシネマ俳優]][[Category:日本体育大学出身の人物]][[Category:極真会館]][[Category:東映の俳優]][[Category:東映時代劇]][[Category:ピラニア軍団]][[Category:浅井企画]][[Category:日本クラウンのアーティスト]][[Category:キングレコードのアーティスト]][[Category:テイチクエンタテインメントのアーティスト]][[Category:複数のスポーツで活躍した選手]][[Category:京都造形芸術大学の教員]][[Category:福岡市出身の人物]][[Category:千葉県出身の人物]][[Category:1939年生]][[Category:存命人物]]
出典:wikipedia
LINEスタンプ制作に興味がある場合は、
下記よりスタンプファクトリーのホームページをご覧ください。