カール5世(Karl V., 1500年2月24日 - 1558年9月21日)は、ハプスブルク家出身の神聖ローマ皇帝(在位:1519年 - 1556年)であり、スペイン国王(在位:1516年 - 1556年)としてはカルロス1世(Carlos I)と呼ばれる。ハプスブルク帝国の絶頂期に君臨し、その治世は、ヨーロッパ統合を果たしたカール大帝以来の歴史的ヨーロッパ概念の体現者とも言われる。さらに当時は大航海時代の真っ只中にあったため、「太陽の沈まない国」と称されたようにヨーロッパから新大陸、アジア(フィリピン)に至る世界帝国を築き上げた。彼の理想はオットー1世以来有名無実化していた神聖ローマ帝国を統一し、最終的には西ヨーロッパの統一とカトリック的世界帝国の構築であったが、覇権を争うフランス王国との戦い、宗教改革の嵐、スレイマン1世が率いるオスマン帝国の伸張など相次ぐ戦いに阻まれ、あと一歩のところで目的は果たせなかった。晩年は長年の痛風と相次ぐ戦争に疲れ果て自ら退位し、修道院に隠棲した。ネーデルラントの領主フィリップ美公とカスティーリャ女王フアナの間に生まれた。母方の祖父母は結婚によって統一スペイン王国を誕生させたアラゴン王フェルナンド2世(カスティーリャ王フェルナンド5世)とカスティーリャ女王イサベル1世であった。さらに父方の祖父母は神聖ローマ皇帝マクシミリアン1世とブルゴーニュ女公マリーという、当時のヨーロッパ王族のサラブレットともいうべき血筋の生まれであった。「カール5世は~国の人間である」と言い切るのは難しい。なぜなら、統治領域の中心はスペインであり母フアナもスペイン出身であったが、カール5世本人は自分の生まれ故郷の低地諸国に愛着を持っており、言葉の問題から当初は馴染めなかったからである。それでもカール5世はスペイン王位についてから熱心にスペイン語を覚え、スペインを統治した。ちなみに弟のフェルナンドは兄とは対照的に、スペイン生まれのスペイン育ちであるが中欧の神聖ローマ帝国の帝位に就くこととなった。また、父方からハプスブルク家の血を受け継いだ神聖ローマ皇帝であるものの、ドイツ人とも言いがたい。カール5世はフランドルのガン(ヘント、現在はベルギーの都市)で生まれ、母語は当時のフランドル貴族の公用語であったフランス語であった。カール5世はフランス人の血を色濃く引いているわけではなかったが、フランスとパリをこよなく愛した。当時の貴族の常として、西欧最大の都市にして西ヨーロッパ社交界の中心都市であったパリに数回滞在しており、フランス社交界でも「シャルル・カン」(Charles Quint)として知られていた。父フィリップも親仏派だったといわれるが、カール5世は「パリはもはや都市というより、一つの世界だ」(ラテン語:Lutetia non urbs, sed orbis.)と言ったと伝えられる。最もよく使ったのもフランス語だったが、皮肉なことに政治的にはフランス王と生涯にわたり激しい対立関係にあった。スペイン王として、また神聖ローマ皇帝として、生涯かけてヨーロッパ全土を回り、北アフリカにまで足を伸ばしている。多言語話者であったと言われており、カール5世の言葉として伝えられる有名なものに"I speak Spanish to God, Italian to women, French to men and German to my horse." 「スペイン語は神への言葉、イタリア語は女性への言葉、フランス語は男性への言葉、ドイツ語は馬への言葉」というものがある。しかし、実際にカール5世が不自由なく完璧に話すことができたのは、母語のフランス語のほかは、スペイン統治者として本格的に学習・使用したスペイン語くらいであった。ドイツ語とイタリア語については完全ではなく、ラテン語も話せたが不十分であった。[1]の父はドゥアルテ1世 (ポルトガル王)。ジョアン1世 (ポルトガル王)の子で、弟にエンリケ航海王子や[3]の父ジョアン、妹に[2]の母イザベルがいる。よって、[1]と[2]と[3]は、共にジョアン1世を祖父とするいとこ同士となる。1500年にフランドルのガン(ヘント)で生まれ、1517年までネーデルラントで育った。名前は曾祖父シャルル豪胆公にちなむ。共に暮らしていた両親は、1506年にカスティーリャ王位を継承するためスペインへ渡った。残されたカールは叔母のネーデルラント総督マルグリットに育てられた。少年時代の個人教師には、後に教皇ハドリアヌス6世となったオランダ人、ユトレヒトのアドリアンがおり、恵まれた環境で帝王学を学んだ。さらに側近としてシェブレ侯やジャン・ル・ソヴージュ、メルクリノ・ガッティナラらが従っていた。1506年、スペインに渡ったばかりの父が急死すると、幼くしてネーデルラントの継承者ブルゴーニュ公となった。1516年に外祖父フェルナンド2世が死去すると、スペイン語を解さなかったカールはブリュッセルにいながらにして母フアナと共同統治という形でカスティーリャ王になった。それは同時にアラゴン、ナバーラ、グラナダ、ナポリ、シチリア、サルデーニャ、さらにスペイン領アメリカにいたる広大な領域の統治者となったことを意味していた。1515年、父方の祖父マクシミリアンによりハンガリーとボヘミアの王家であるヤギェウォ家との二重結婚が取り決められたが、アンナ王女がカールと弟フェルディナントのどちらの妃となるかはその時点では未定だった。結婚相手を将来の皇帝であるカールではなくフェルディナントに決めると、ハンガリー側からは猛反発を受けた。しかしフェルディナントとアンナにとっては幸福な結婚となった。1517年に初めて「本国」スペイン入りし、トルデシリャスで母と再会すると、バリャドリッドで摂政ヒメネス・デ・シスネロス枢機卿を解任して親政を開始した。1519年にマクシミリアン1世が死去すると、オーストリアをはじめとするハプスブルク家の領土を継承した。さらに叔母のマルグリット・ドートリッシュやフッガー家の支援を得て1519年6月28日には生涯の宿敵・フランソワ1世を破り、フランクフルトに集まった選帝侯達が全票をカールに投じて神聖ローマ皇帝に選出した。しかしこの選挙資金のために莫大な負債を負っている。1520年には戴冠式の途上、イングランドに立ち寄ってヘンリー8世夫妻と対面している。ヘンリー8世の王妃キャサリンはカール5世の叔母だったからである。その後、伝統に従ってアーヘンで神聖ローマ皇帝としての戴冠を受けた。しかし戴冠式の最中に、皇帝選挙に使用する懐柔工作資金(スペイン王国の国家予算5年分)の国外持ち出し、「外国人君主と外国人顧問、側近」の統治に反発していたトレドやセゴビアなどカスティーリャの諸都市が、カール5世がコルテスで新たに3年毎の40万ドゥカットの上納金と商品売上に対する税を課したことを端緒に一揆契約を結び、コムネロスの反乱が勃発した。コムネロスの反乱は外国人幹部によるスペイン支配への抵抗から、貴族の特権に対する反乱へと変質していった 。1521年にカール5世は1年余り続いたこの内乱を鎮圧したことで名実共にスペインの支配者となり、強大な兵力を率いて生涯各地を転戦した。しかし、これ以降スペインはハプスブルク家の進める戦争への財物供出を余儀なくされ、カスティーリャやアラゴンからの税収やインディオの奴隷労働によってポトシなどから収奪された金銀はスペインの為に使われる事はなく、ハプスブルク家の利害のために使われ諸外国に流出した。カール5世は生涯フランス国王フランソワ1世・アンリ2世父子との戦争を繰り返すことになる。初めは1521年に北イタリアで争い、後にイタリア全土を戦火に投じることになる(イタリア戦争)。1527年にはカール5世のドイツ人傭兵(ランツクネヒト)達がローマで狼藉を働いた。これがローマ略奪である。このような行為はカール5世の意図するところではなかったとされるが、結果的にカール5世の軍勢を恐れた教皇クレメンス7世がイングランド王ヘンリー8世の結婚無効の申請を却下し、イングランドのローマ教会からの離反へとつながっていく。神聖ローマ皇帝として、カール5世は当時論議の的となっていたマルティン・ルターの扱いにも苦慮し、身の安全を保障してヴォルムス帝国議会に召喚している。結果的にルターの主張を認めず、同調者達と共に法の保護を剥奪(帝国追放)するが、プロテスタントの興隆を食い止めることにはならなかった。ヘンリー8世と同盟して行った対フランス戦争では1525年にパヴィアの戦いでフランス王フランソワ1世を捕虜とすることに成功し、1526年にフランスの北イタリアにおける権益を全面放棄するというマドリード講和条約を承認させた。しかし、フランソワ1世は釈放されるとすぐに前言を翻してこの条約を破棄した。そこで1528年、サン・ジョルジョ銀行から融資を受けて、再び抗争した(この間にローマ劫掠事件も起こった)。1529年にあらためてフランスとの間に貴婦人の和約と称されるカンブレー講和条約を、ローマ教皇庁との間にバルセロナ和約を結んで、北イタリアにおける権益を確保した。1524年に起きたドイツ農民戦争とシュマルカルデン同盟の成立に際しては、手一杯だったカール5世は弟のフェルディナントを代行としてドイツ地方における政務を委託している(フェルディナントは1531年にローマ王に即位)。やがてカール5世は、ヨーロッパを圧迫していたオスマン帝国スルタン・スレイマン1世との戦いにも身を投じるようになる。当時、地中海ではオスマン帝国艦隊が制海権を握り、陸上では1529年にウィーンが包囲されるまでになっていた(第一次ウィーン包囲)。しかしカール5世は1535年のチュニスにおいて勝利し、1536年には宿敵フランソワ1世と対オスマン帝国同盟を結んだ。フランスがやがてオスマン帝国と単独講和してもカール5世は和睦しなかったが、1538年のプレヴェザの海戦ではローマ教皇・ヴェネツィア共和国と結ぶも敗退し、地中海の制海権を失う。最終的に1543年にフランスとはクレピーの和約を結び、戦費の増大のためにオスマン帝国とも講和せざるを得なくなった。これにより、オスマン帝国との決着は息子のフェリペ2世に引き継がれることとなった。カール5世は宗教問題解決のため、公会議の実施に尽力し、1545年のトリエント公会議の開会でその努力は実を結んだ。公会議はカール5世の意図したルター派のカトリックへの改宗という成果はなかったが、カトリック教会の対抗改革の頂点となり、カトリック教会再生の里程標となった。その間もドイツではシュマルカルデン同盟との戦いが続いていたが、ザクセン公モーリッツを味方に引き入れたことによって、戦況はカール5世に有利に傾き、1547年4月24日のミュールベルクの戦いで決定的な勝利を収めた。同盟の2人の中心的指導者ザクセン選帝侯ヨハン・フリードリヒとヘッセン方伯フィリップを虜囚とすることに成功した。これ以上の内戦の激化を危惧したカール5世は1548年にアウクスブルクで暫定規定(Interim)を発令し、カトリックとプロテスタントのドイツにおける共存を提案した。この結果、1555年にアウクスブルクの和議が結ばれることになる。1548年にはネーデルラント17州のスペイン王国およびフランスからの分離独立を認めている(1548年の国事勅定)。さらに1550年には「バリャドリッド論争」の名で知られる、アメリカ先住民(インディオ)の地位とインディアス問題に関する審議会を開いている。これは、インディオの人権問題をたびたび告発してきたラス・カサス神父らの長年の活動が実ったともいえるものである。最終的にエンコミンダの世襲化の導入が阻止されるなど、ラス・カサスの努力が報われる形となり、アメリカ先住民への不当な行為の撤廃を目指した、当時のヨーロッパ社会では非常に画期的な審議会となった。1555年、長年の痛風及び統治と戦争に疲れたカール5世は、ついに退位を決意する。フェリペだけでなく、弟フェルディナンド、姉エレオノーレ、妹マリアも出席したブリュッセルでの退位式では、「余はドイツへ9回、スペインへ6回、イタリアへ7回、フランドルへ10回、フランスへ4回、イギリス、アフリカへ2回づつ、合計40回におよぶ旅をした。(略)これまで余は、経験不足や、あまりのむこうみずさなどによって、多くの過ちを犯してきた。しかし、けっして誰かを傷つけようという意図はもっていなかった。もし万一、そんなことがあったとすれば、ここに許しを請いたい」と言って、涙で演説がとぎれたという。両親から受け継いだスペイン・ネーデルラント関係の地位と領土は全て息子のフェリペ2世に譲り、父方の祖父から受け継いだオーストリア・神聖ローマ帝国関係の地位と領土は弟のフェルディナント1世に継承させた。これをもって、ハプスブルク家はオーストリア・ハプスブルク系(のちのハプスブルク=ロートリンゲン家)とスペイン・ハプスブルク(アブスブルゴ)系に分裂することとなる。この頃すでに神経衰弱気味であったといわれているカール5世は、スペインのユステ修道院に隠棲し、1558年に亡くなった。晩年の10年ほどは常に痛風の激痛に悩まされていた。称号がすべてついた場合、以下のようになる。カール、神の恩寵による、神聖ローマ皇帝、永遠の尊厳者、ドイツ王、イタリア王、全スペインの王及びカスティーリャ王、アラゴン王、レオン王、ナバラ王、グレナダ王、トレド王、バレンシア王、ガリシア王、マヨルカ王、セビーリャ王、コルドバ王、ムルシア王、ハエン王、アルガルヴェ王、アルヘシラス王、ジブラルタル王、カナリア諸島の王、両シチリア及びサルデーニャ王、コルシカ王、エルサレム王、東インド、西インドの王、大洋と島々の君主、オーストリア大公、ブルゴーニュ公、ブラバント公、ロレーヌ公、シュタイアーマルク公、ケルンテン公、カルニオラ公、リンブルク公、ルクセンブルク公、ヘルダーラント公、アテネ公、ネオパトラス公、ヴュルテンベルク公、アルザス辺境伯、シュヴァーベン公、アストゥリアス公、カタルーニャ公(prince)、フランドル伯、ハプスブルク伯、チロル伯、ゴリツィア伯、バルセロナ伯、アルトワ伯、ブルゴーニュ自由伯、エノー伯、ホラント伯、ゼーラント伯、フェレット伯、キーブルク伯、ナミュール伯、ルシヨン伯、サルダーニャ伯、ズトフェン伯、神聖ローマ帝国の辺境伯、ブルガウ辺境伯、オリスターノ辺境伯、ゴチアーノ辺境伯、フリジア・ヴェンド・ポルデノーネ・バスク・モリン・サラン・トリポリ・メヘレンの領主。両親の血を引いて生まれつきアゴの筋力が弱く、下顎前突症であり、また幼少期の病気により鼻腔が閉塞気味であったため、多くの肖像画でも見られる通り、一見すると非常に下あごが突出してるように見え、常に口の開いた状態だったとされている。1526年にポルトガルの先王マヌエル1世の王女で、互いに母方の従兄妹であるイサベル(イザベル、イザベラ)と結婚した。前年の1525年にイサベルの兄ジョアン3世とカール5世の妹カタリナが結婚するという二重結婚であった。また、カール5世の姉レオノールは1518年にマヌエル1世の3番目の王妃となったが、マヌエル1世とは1521年に死別していた。イサベルとの間には3男2女が生まれた。うち男子2人は夭逝した。人の良い性格であったため、貴族身分の母から庶子が生まれれば認知し、商人・工人身分の母から子が生まれれば修道院などへ入れた。うち有名なのは、ヨハンナ・ファン・デル・ヘインストが儲けたマルガリータ(1522年 - 1586年)と、バルバラ・フォン・ブロンベルクが儲けたレパント海戦の英雄ドン・フアン・デ・アウストリア(1547年 - 1578年)である。事跡の不明な子女としては、祖父フェルナンド2世の後妻ジェルメーヌ・ド・フォワが儲けた女子イサベルと夭折した子、オルソリーナ・デッラ・ペンナが儲けた女子タデア、母不詳の女子フアナ、などが知られている。
出典:wikipedia
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