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玉の海正洋

玉の海 正洋(たまのうみ まさひろ、1944年2月5日 - 1971年10月11日)は、愛知県宝飯郡蒲郡町(現・蒲郡市)出身の元大相撲力士。第51代横綱。本名は谷口→竹内正夫(たけうち まさお)。得意技は突っ張り、右四つ、寄り、吊り、上手投げ。1944年2月5日に大阪府大阪市で生まれるが、大阪大空襲で焼け出されて蒲郡に疎開、以降は蒲郡で育つ。蒲郡市立蒲郡中学校時代は柔道で鳴らしており、柔道部の1年先輩にあたる和晃(後に東前頭筆頭まで昇進)を遥かに凌ぐ実力で知られていた。警察官を目指していたが、竹内家の養子となった後、玉乃海太三郎(後の年寄片男波)に勧誘されて二所ノ関部屋に入門。1959年3月場所で初土俵、四股名は玉乃嶋。幕下時代に片男波の独立騒動が発生した際は片男波について行くことを選んだ。独立が承認された時も、玉乃嶋の素質を高く評価していた二所ノ関からは「どうにか連れて行かず残して欲しい」と言われたこともあるという。1963年9月場所で新十両に昇進、1964年3月場所で新入幕を果たし、この翌場所に玉乃島と改名する。系統別から部屋別総当たり制となった1965年1月場所の初日には、初対戦となった同門の横綱で兄弟子だった大鵬幸喜と対戦して勝利した(この一番が部屋別総当たり制の定着を決定づけたとも言われる)。また、大関昇進までに栃ノ海晃嘉・佐田の山晋松から2個ずつ金星を獲得し、1966年9月場所に関脇で11勝4敗の成績を上げ、ライバルの大関北の冨士勝明(当時)より1場所遅れて大関へ昇進した。しかし大関昇進後の1年間は1桁勝ち星が続き、1967年3月場所には7勝8敗と負け越しを喫した(当時は「3場所連続負け越しで大関陥落」の制度だったため、次の同年5月場所は大関角番とならず)。1967年11月場所に11勝4敗と大関初の二桁勝利を果たして以降、終盤まで優勝争いに加わる好成績を挙げるようになり、1968年5月場所では13勝2敗の成績で、自身念願の幕内初優勝を果たした。同年1月場所と3月場所では連続して12勝を挙げており、同場所後に横綱昇進も期待されたが、横綱審議委員会が相撲協会からの諮問には「時期尚早」との多数意見により反対され、昇進を見送られた。初顔合わせで勝利した大鵬にはその後も大鵬が「精神的に堅くなった」こともあり、一時は3勝1敗とリードしたが、対戦を重ねるにつれて逆に玉の海(玉乃島)が全く勝てなくなり、1965年9月場所から1969年7月場所までは1不戦勝を挟んで16連敗を喫した(最終対戦成績は玉の海の7勝21敗(うち不戦勝1)。他に優勝決定戦で1勝1敗)。大鵬は「玉の海君に上手さえ取らせなければ、左右どちらの四つでも相撲は取れるし、勝てる」と見ており、実際に玉の海が右四つに組んでも左上手が取れず、逆に大鵬が右の差し手からの寄りや掬い投げで玉の海を圧倒した。また、玉の海の大関時代までは大鵬が離れて相撲を取り、玉の海が懐に飛び込むこともできずに敗れる相撲も多く、地力の差を感じさせる内容となっていた。横綱昇進後も玉の海は大鵬に2度にわたり千秋楽に全勝を止められ、最後まで壁となった。1969年9月場所に13勝2敗の成績で2度目の優勝を果たし、1970年1月場所で13勝2敗の成績を挙げて北の富士との優勝決定戦には敗れたが、場所後に2人が揃って横綱に推挙され(審議委員会の評価では玉の海が上だった)、「北玉時代」の到来といわれた。横綱土俵入りは当時から後継者の少なかった「不知火型」を選択、土俵入りの指導は大鵬が務めた。これ以降、性格が正反対の玉の海と北の富士は親友になり、互いに「北さん」「島ちゃん」と呼び合う間柄になった。ちなみに北の富士が玉の海を「島ちゃん」と呼んでいたのは、玉の海のかつての四股名である「玉乃島」にちなんだものであった。新横綱となった1970年3月場所から、師匠である片男波の現役時代の四股名である「玉の海」を継いで玉の海 正洋と改めた。昇進伝達式では、本来「謹んでお受け致します」と言うべきところを「喜んでお受け致します」と言ってしまい、こうした経緯から当時は「現代っ子横綱」と呼ばれることが多かった。横綱昇進以後、横綱3場所目(1970年7月場所)で9勝6敗の他は毎場所優勝を争い、12勝3敗も2場所のみ、1970年9月場所から4場所連続で14勝を挙げ、このうち3度は優勝している。大鵬とは連続して14勝1敗同士の優勝決定戦を行い、大鵬最後の優勝(通算32回目)を許した1971年1月場所には「何のこれしき。(自分が)弱いから負けるんだ」と発言して再起を誓った。地元名古屋での7月場所には夢の全勝優勝を果たし、多くの識者から「まもなく北玉時代から、玉の海独走時代になる」と期待され、双葉山の再来とまで呼ばれるようになる。玉の海の横綱時代の戦績詳細は下記の通りである。また、同時代に横綱を張った北の富士、大鵬の成績も併せて記す。北の富士との対戦は1964年5月場所 - 1971年9月場所の45場所間に43回実現し、千秋楽結びの一番の対戦は8回、千秋楽両者優勝圏内の対戦が2回あった。千秋楽(太字)は、千秋楽結びの一番を示す。全勝優勝を飾った1971年7月場所前後に急性虫垂炎を発症、夏巡業の最中にその痛みに耐えきれずに途中休場するなど容態が芳しくなく、早急な手術が必要だった。しかし横綱としての責任感と、同年9月場所後に大鵬の引退相撲が控えており、手術して本場所を休場すれば大鵬の引退相撲にも出場できなくなるため、痛み止めの薬を刺し続けながら9月場所に強行出場した。この場所は肋骨を折ったにも関わらず12勝を挙げたが、これが結果として玉の海の生命を縮めることとなってしまった。1971年10月2日の大鵬引退相撲では、最後の横綱土俵入りで太刀持ちを務め、翌日に行われた淺瀬川健次の引退相撲にも出場した。出場後直ちに虎の門病院へ入院して虫垂炎の緊急手術を受けたが、腹膜炎寸前の危険な状態だったという。その時点での手術後の経過は順調で、10月12日に退院する予定だった。なお、この時点で11月場所の出場に関しては未定だったこともあり、本人も「退院後すぐに(相撲)は取れないが、(巡業先では)土俵下から挨拶でもしよう」と親しい人たちには伝えていたという。ところが、退院前日の10月11日早朝、起床して洗顔を終えて戻ったところ、突然「苦しい」と右胸部の激痛を訴えてその場に倒れた。その時、既にチアノーゼ反応が起きており、顔は真っ青だったという。意識不明の状態で医師団の懸命な治療が行われ、一時は快方しかけたものの、その甲斐もなく11時30分に死亡が確認された。。その急逝後、玉の海の遺体を病理解剖した結果、直接の死因は虫垂炎手術後に併発した急性冠症候群及び右肺動脈幹血栓症(現在の言い方では術後の肺血栓)であることが判明し、特に右の主管肺動脈には約5cmの血の塊が詰まっていたという。玉の海のような力士体型(肥満体)の人間が、手術後に血栓症を発症しやすいのは現代では常識であるが、その当時はあまり知られておらず十分な予防策も取られていなかったものと考えられる。これから全盛期を迎えようとするのは確実だったため、誰もがその死を惜しんだ。余りにも突然の玉の海の死に周囲の人々は狼狽し、ショックを隠し切れなかった。最大のライバルで親友だった北の富士は、巡業先の岐阜県羽島市で「玉の海関が亡くなりましたよ」との一報を聞いた時、最初は「解説の玉の海さんが亡くなったのか?」と思い確認を取らせた。関係者が「現役横綱の玉の海関のことです」と伝えても、北の富士は「ふざけるのもいい加減にしろ!」と立腹し、全く信じなかったという。しかしその後、亡くなった人物が間違いなく親友の横綱・玉の海本人であるという事実が判った時、北の富士は「むごい…。島ちゃん(玉の海の愛称)があまりにも可哀想だ…」と、その場で人目もはばからず号泣した。逝去当時、玉の海の死に顔を見た人々は、口を揃えて「無念の形相だった」と語っていた。付け人の一人が、肩幅の広い(これが最大の武器で、相手に上手を与えなかった)玉の海の納棺された姿を見て「横綱、窮屈そうだな…」と言い、その場にいた人々は涙が止まらなかったという。横綱10場所の成績は130勝20敗、1場所平均:13勝2敗という恐るべき成績である。特に1970年9月場所以降に限っては96勝9敗、勝率は9割1分4厘に跳ね上がる。横綱在位中の勝率.867は、昭和以降では双葉山定次に次ぐ第2位、戦後では現在も1位であり、その相撲の完成形を見ることが出来なかったのは考えられた以上に大きな損失だった。生涯最後となった1971年9月場所では通算(幕内)連続勝ち越しが27場所におよび、玉錦の26場所を超える歴代新記録を達成していた(現在は歴代6位)。横綱昇進後与えた金星は僅か3個(福の花孝一2個、藤ノ川武雄1個)で、中日(8日目)までの7日間に黒星を喫することは滅多に無かった。さらに1970年9月場所 - 1971年7月場所で、当時の最多記録である「6場所連続幕内中日勝ち越し」も達成していた。

出典:wikipedia

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