長興寺(ちょうこうじ)は愛知県豊田市にある臨済宗東福寺派の別格寺院。山号は集雲山(しゅううんざん)。本尊は十一面観音。開山は太陽義冲。建武2年(1335年) 三河国衣(ころも)城主中条秀長が菩提寺として太陽義冲を招聘して創建。当時の寺域は南北5丁余り、東西4丁余り、18坊に及ぶ塔頭が建ち並び、地域最大の寺院であった。室町時代中期、応仁の乱(1468年 - 1477年)後、中條氏の衰退と共に衰退。永禄10年(1567年)には、余りの偉容に城と間違えた織田信長の兵火によって焼失した。天正11年(1583年) 信長の家臣で衣城代の余語正勝が、再興した長興寺で信長の一周忌法要を行った。その際に、日本の歴史教科書にも掲載されている狩野元秀筆の「紙本著色織田信長像」(重要文化財)が寄進された。元禄年間(1688年 - 1704年) 本堂、庫裏を重建。現本堂は昭和50年代 鉄筋コンクリート造で再建されたものである。長興寺を中心に住民が増加し、寺院への供物を受け持つ地域を東西に分け、「長興寺字供膳(くぜ)寺」という地名が設定された。これが今の地名が寺の地名と同じになった起こりである。江戸時代には長興寺村となり、挙母藩(2万石)の領地の一部であった。城下ではなく、農村集落で約400石ほどであった。明治時代中頃に、周囲の村と合併して根川村となり、更に明治39年に、城下と合併して挙母町となった。長興寺には、鐘泥棒の昔ばなし「長興寺の鐘」のがある。泥棒に盗まれた鐘が「長興寺恋しやポンワンワン、返しておくれんポンワンワン」と鳴ったと云う民話が語り継がれている。詳しくは、外部リンクを参照。名鉄三河線上挙母駅から徒歩30分
出典:wikipedia
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