初期仏教(しょきぶっきょう、)とは、釈迦が生きていた時代を含む初期のおよそ150年から200年の間のをいう。原始仏教、根本仏教、主流仏教とも呼よばれるが、「原始」「根本」「主流」という言葉にはさまざまな価値的な判断の意味が含まれるため、ここでは中立的な時間的に先であることを示す「初期仏教」という用語を使用する。必ずしも時代区分ではなくオリジナルという意味で「原始仏教」という用語を用いる学者も多い。初期仏教を原始、根本、主流と見る見方に福音主義の影響を見る学者もいる。リグ・ヴェーダによれば、紀元前13世紀頃、現在のアフガニスタンのバルフから多神教のヴェーダの宗教(紀元前11世紀頃に誕生するザラスシュトラの興した一神教・ゾロアスター教の原型でもある)を奉ずる民族が十王戦争においてインドに侵攻し、先住民族であるドラヴィダ人を支配する封建社会体制が形作られた。紀元前10世紀に始まるドラヴィダ人との同化の時代であるブラーフマナ時代(紀元前900年 - 紀元前500年)になると、司祭階級バラモン(ブラフミン)を頂点とするカースト制を持つバラモン教がインドで形作られていった。紀元前5世紀になると、4大ヴェーダが完成し、バラモン教が宗教として完成した。しかし、ヴェーダの宗教的権威に従わない人々(マハーヴィーラ、マッカリ・ゴーサーラ、ガウタマ・シッダールタ(釈迦))も同時期に登場し、ジャイナ教・アージーヴィカ教・仏教といった反ヴェーダの立場をとる宗教を開いた。このように、当時のインド四大宗教はほぼ同時期にそろって誕生したのである。仏教は、約2500年前(紀元前5世紀)に釈迦が、インド北部ガンジス川中流域のブッダガヤで悟りを開き、サールナートで初転法輪(初説法)を行ったことに起源が求められている。発生当初の仏教の性格は、同時代の孔子などの諸子百家、ソクラテスなどのギリシャ哲学者らが示すのと同じく、従来の盲信的な原始的宗教から脱しようとしたものと見られ、『マハー・ワッガ』をはじめとする初期経典では、このとき五比丘(5人の修行仲間)に説かれた教えが、中道・八正道・四諦・三転十二行相であったとされている。釈迦と五比丘、すなわちコンダンニャ、ワッパ、バッディヤ、マハーナーマン、アッサジの6人が阿羅漢となり創設された初期仏教教団は、シュラーヴァスティーのジェータヴァーナー寺院を教団本部とし、インド各地で布教活動を行った。これら釈迦の生涯において重要な各地を八大聖地と呼ぶ。釈迦の存命中、弟子のひとり提婆達多が「五事の戒律」を提案したが釈迦仏教教団に受け入れられず、分派して新しい独自の教団を結成したとパーリ語経典は伝えている。これが仏教の最初の分派と考えられるが、この新教団が仏教と云えるかどうかには諸説がある。玄奘三蔵の『大唐西域記・巻十』には、提婆達多派が過去七仏の中でも釈迦仏を除いた仏を信奉していた事が記されており、釈迦を仏として認めず釈迦仏教教団とはその後も長期間に渡って対立していたことがわかっている。提婆達多は釈迦の従兄弟で阿難(アーナンダ)の兄と考えられており、釈迦がクシーナガラで死亡(仏滅)して後、直ぐに出家者集団(僧伽、サンガ; Early Sangha)は個人個人が聞いた釈迦の言葉(仏典)を集める作業(結集)を行った。これは「三蔵の結集」(さんぞうのけちじゅう)と呼ばれ、十大弟子の一人、マハーカッサパ(摩訶迦葉尊者)が中心になって開かれた。仏典はこの時には口誦によって伝承され(このため当初は「多聞」(釈迦の教えを多く聞いた)が褒め言葉になっていた)、後に文字化された釈迦の説いた法話を経・律・論と三つに大きく分類し、それぞれ心に印しているものを持ち寄り、仏教聖典の編纂会議を行った。これが第一回の三蔵結集である。この時、アーナンダが経、ウパーリが律の編集責任者となった。釈迦の死から約100年後のアショーカ王(前3世紀)のころ、仏教教団()は保守的な上座部と進歩的な大衆部とに分裂した。これを根本分裂と呼び、それ以前を初期仏教、以後を部派仏教と呼びならわす。インド最大の宗派となった上座部の説一切有部は三世実有・法体恒有と云われる立場を完成させた。一方、大衆部及び上座部の経量部・法蔵部は現在有体・過未無体を主張する立場となっていった。ただし、これらが分裂の要因とされたという見解については、漠然としているという説や、そのように画一的に線を引くことが出来るかどうかという点も指摘されており、分裂の原因は、いまなお、混沌としていて、研究結果不明の状態である。
出典:wikipedia
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